Aの衝撃
※
その日から数十年後の今。俺の過去よりはましだと慰めるのは簡単だけれど、あんなえげつないことアンナイには話せないよなぁ。
泣きじゃくる彼女を慰める方法に苦慮して、俺は首を捻っていた。俺よりましだと話す大人になんかなりたくないとは思っていたが案外難しい。
あれから、気がつくとちゃんと私の首はくっついて元通り研究所の入口に打ち捨てられていた。日は高く登っていて黒焦げの建物がてかてかと輝いていたのを覚えている。
俺の首を象徴にするとか言って切っておいて、捨てていったのだろうか。もちろん、掲げられるのはもうされたくないが複雑な気持ちになる。
「やっぱり軽蔑したじゃない、当然だけれど、酷いよ。」
ともかく、目の前のことだ。
アンナイの涙に洗いたてのタオルを手渡す。汗もかかないからと洗うのを怠ってなくて良かった。
洗剤の匂いとふかふかな感触に、彼女は少し目を細めた。
「軽蔑なんてしてないよ、ちょっと昔のことを思い出しただけだって。お前のことは攻めてないから。」
実際に、人体を使った重力の実験程度なんてどうだというのだろう、と思える。
結果として死なせてしまうことが多かったと嘆いているが、そもそも死なせるための実験でない上に研究員が持ち回りで被験体になっていたのだという。
「むしろ、どこが酷いのかわからないって。」
「でも、人を死なせるなんて最低よ。」
「生き返るんだから死んでないも同然だろ。」
アンナイはピンとこないらしい。
「じゃあ例えば、誰かを閉じ込めて放置した訳ではないのだろう?」
「まさか、最短で解放するようにしていたわ。その後は1週間は休んでもらう規則もあったの。」
「苦痛の多い方法で痛めつけた訳ではないんだろ?」
「出来る限り麻酔を使っていたわ。」
「反応が楽しめるサンドバックにしたり、罵倒しながら首を切り取るとか。」
アンナイは落ち着いたのか、口をへの字に曲げた。
「しないわ。どうしてそんなに残虐なことを思いつくのよ。」
世間は冷たくて残酷だったからだ。冤罪に晒される俺はもう一度ため息を吐きそうになる。
「だから、殺人じゃなくて合意の上での実験なら気に病むことなんてないだろって。いい加減しつこいぞ。」
「貴方、私の50年間の苦悩を。」
面倒になって思考を投げ出してしまう。こういうところがデリカシーのないと言われる所以だろうか。
アンナイは、今度は顔を真っ赤にして怒っている。何とも感情豊かな人だ。
「していたことは聞いた、それで、あの血みどろルームの理由は?」
彼女は怒りを必死に飲み込んでいるようだ。それでこそ社会人。
「元研究員を名乗る人から脅迫が届くようになったのよ。」
「どういう手段で?」
「メールよ。細々と企業や個人のサーバーが生きてて、それを使えばメール送信が出来るって、貴方も知ってるでしょう。帝国工業さんも利用しているんだから。」
もちろん知らなかった。仕事の引継ぎが不十分だとこうなる。心の中で元上司の顔に蹴りを入れる。
一体誰が利用していることか、見当もつかない。本社であるオフィスに出勤しているのは俺1人だし、誰かが在宅勤務でもしているのだろうか。もしかしたら故障機器のデータサーバー更新をしている人だろうか。いつか会いたいものだ。
目の前の女児に曖昧に頷いて話す。
「そういうことは上司がしていたらしいけど、私は触ってないからわからないや。」
後半だけが本当だ。真実に嘘を混ぜるのは信じてもらうコツだというが、これは盛大すぎやしないか。
「そうなの。じゃあ今度使い方教えてあげるね、使えた方が便利だものね。」
彼女には通用したらしい。真っ当に優しすぎて心配だ。親切な人は続ける。
「どこまで話したっけ。」
「元研究員の脅迫メール。どんな内容なの。」
「残虐行為は一刻も早く止めろ、研究しても何になるんだ、って内容が主だったわね。後は、研究員個人の誹謗中傷とか。私も子供の強制労働、とか書かれたわ。」
外見でなく中身で判断してほしいわね、と笑う。それは事前知識がないと難しいだろう。
「外野の声なんて無視しても構わないだろう、企業に雇われてやってた研究なんだろう? 仕事にとやかく言われても仕方ないよな。」
「私もそう思って放置していた、それがあの結果よ。」
カップを震える手で掴むものだから溢れてしまっている。大人にそういったことを指摘するのは難しいな。
「突然数人がドアを破って入ってきたわ。とんでもなく速かった、もしかしたらプロかもね。
気づいたときには同僚、研究員は全員撃たれて、倒れていた。私は肩を撃たれたわ。でも幸いにも直ぐに動けたの。」
静かに語る彼女を茶化すことは出来なかった。
「彼奴らはそれから、一人一人引きずってったわ。首から上がない人もいた、お腹が裂けた人も。でも、何の躊躇もなく掴んで。」
グロテスクな光景だ、取り乱すのも仕方ない。空になったカップをさり気なく取り上げる。
「オフィス机の下に置いてた段ボールに、私は隠れていたの。全員がいなくなるのに、そう時間はかからなかったわ。」
そして安全を確認した後、先言ったメールサーバーのネットワークに助けを求めたってわけか。
「メールを送って夜が明けても誰も来なくて、私はもう死んじゃいそうなくらい怖かったんだから。」
また涙が出てきたらしい。溢れたお茶に涙に、白いタオルはさぞべとべとだろう。
「何か、食べるか?」
新しいタオル、今度は汚れの目立たない濃い色付きのものを手渡しながら問いかける。意識を少しでもその光景から離せれば良いのだけれど。
「食事?」
彼女は幸いにも、きょとんとしている。
「そうだ。手の込んだものはないけれど、多少は自家栽培してあるぞ。しょっぱいものとか、大丈夫か?」
やっぱり、人を落ち着かせるには別のことを考えさせるに限ると思う。
生活習慣病を気にしなくて良いことに任せて、とても塩辛く味付けした漬物を容器から取り出しながら、重ねて問いかける。
「キャベツの漬物、今年は自信作なんだよな。」
皿に並べて出すと、それはもう信じられないと言った表情だ。
「食事なんて、例の日からずっとしたことないわ。」
50年間、ずっと?
「何で?」
「何でって、必要がないからよ。」
「はぁ?」
なんでそんな怒るのよ、とたじろいだ彼女は言った。
彼女の感性はとても偏っている。
「必要がないことばかりの世界で、今更何を言うんだよ。」
ぴんとこない様子は何故だろう。どうすればわかってもらえるのか。
お互いに呆然と顔を見合わせてしまう。その人間性の欠如を価値観の違いと切り捨てていいのか、私にはわからなかった。
「よし、じゃあ例の日以来の初食事だな。張りきってやるよ。」
旬の野菜に出汁、山菜、乾燥させた魚や様々な材料。子供の身体だ、味付けは苦味の抑えたものが良いだろう。
「こんなにいっぱい食べ物が。」
アンナイはますます放心した様子だ。
50年間、1人暮らしで磨き続けた家庭料理だ。肉がないのが少し物足りないかもしれないが、久しぶりの食事ならこのくらいが軽く食べられるだろう。
「これ、どう使うの?」
最後に食事をしたのは例の日で5歳の頃か、箸の使い方を忘れてしまっていてもおかしくはないな、と俺はフォークを手渡す。
彼女が1番に口にしたのは最初に出したお漬物だった。んぐ、と声を上げて、言った。
「口の中で何かが爆発しているよ、頭の中に情報が勝手に入ってくるみたい!」
一口食べるごとに何かのアトラクションかのようにはしゃぐ彼女を見て、俺は、人類に欠けてしまったものを実感して涙ぐんでしまった。
はしゃぐ彼女は何も言及しなかったけれど、いつの間にか、色の濃いタオルが手渡されていた。あぁ、彼女も大人なんだなぁ。
「ごちそうさま、すっごく、何だろ、口の中がすっごかった。」
「お粗末さまでした。」
食後の挨拶は覚えていたのか、マナー本に書いてあったのか。ともかく、ごちそうさまと言った彼女に笑みがこぼれる。見た目だけとはいえ、幸せそうな子供だ、つられて笑わない方がおかしい。
「とりあえず、夜も遅いし寝よう。」
人間として至極真っ当な提案をしていると思うのに、これにもアンナイは虚をつかれている。
「寝る必要なんてないでしょう、疲労なんてしないのだから。それよりこの先のことを考えなきゃ。」
俺の顔を見て、しまった、と表情が雄弁に語る。言ってしまうことってあるよなぁ、と俺は共感しつつ、毛布をかける。
「何をするの、早くあの人たちを助けないと。」
「そう言っても何の手がかりもない状態なのだから、1回情報を整理しなきゃな。寝るのが1番だよ。」
ふかふかのよく干した陽の光の匂いがする毛布で包んでいくにつれて、彼女はどんどん大人しくなる。
「人を連れ込む、とか言う癖に、何でこんな当たり前のことを知らないんだ。」
「知識では教えられていたわ。でも時間がかかるものは無駄だって、先生が言ってたもの。」
それを、先生の価値観を素直に吸収するのは、優しい人ならではだろう。そうやって努力し続ければエリート研究者にもなれるわけだが、こんな血の気の失せた、今にも切れそうな糸を繋ぐ方法とはいえない。
「おら、寝ろ寝ろ。」
身体が疲労していなくとも、精神の疲れでもよく眠れるということを俺は知っている。首を切られた後、1ヶ月、俺は家に引きこもってずっと寝てしまっていたから。
毛布の下から聞こえていた声はすぐに聞こえなくなった。少し心配になって、無用ではあるが毛布をめくって呼吸をしやすくする。その寝顔は子供らしく幸せそうだった。
ここからどうしたものか。
成り行きで連れてきてしまったとはこういうことを言うのだろうか。アンナイの前で張っていた気を緩めて蹲る。
俺に何が出来るっていうのか。何も出来ない癖に無責任にも連れてきてしまった。
床を静かに、ごろごろと転がる。
要求がない誘拐事件だなんて、なんて難題の案件を持ってきてしまったのだろう。上司に相談、と丸投げも出来ない。
仕事でもなく、成り行きだから解決の必要はない。確かにそうだ、けど今日まで必要ないことを続けていて、さっきまで必要ないことの重要性を教えようとしていた人間が、そんなことは認められない。
あの頃から自分は変わらず面倒くさい性格だったと再確認して悶絶する。大人になったら変われないと言われるが、その通りなのだろうか。
やると決めたらやるしかないなぁ。
紙がまだ残っているか、俺は考えながら立ち上がった。思考をまとめるには書き出すのが1番だと教えられたのは会社だったな。その通りだったのか、やり方に慣れただけなのか。
50年ぶりに眠っている少女の顔を横目に、俺はペンを走らせ始めた。
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