Iの昔話

「ご足労頂きましてありがとうございます。」

「いえいえ、野口さんに呼ばれたら直ぐに飛んで行きますよ。」

 身体が変化しなくなってから、窶れた顔や隈だとかのわかりやすい見た目から心配をすることは不可能となっていた。例の日に風邪を引いていたせいで永遠に高熱を出している友人はともかくとして概ねそうで、身近なところでは退職届を出す同僚の動きが誰にも予想出来ないものとなっていた。

 だってのに。座り慣れた会議室の椅子を引きながら、野口氏をそっと窺う。彼はとてもわかりやすく憔悴していた。眼光だけで内面がこんなにもわかるものなのか、と密かに驚く。

 人類工学の権威、2年前の時の人、総不老不死化研究の第一人者は今や、楽園を潰そうとする蛇の扱いを受けていた。

 きっかけは3ヶ月前の研究発表だ。

「人の細胞の活性化に成功しました。」

 顕微鏡の先の粒が一瞬動きを取り戻した。そう、例の日の前なら歯牙にもかけられなかった普通を、報道陣の前で高らかに発表したのは野口氏だった。

 たったそれだけ。比喩でも何でもなく、その日発表された成果はその一言だけだったというのにどうして人はこう情熱的なのか、と感動まで覚える。

 野口氏が背にする閉じたままのブラインドの向こうからは怒号が漏れている。ゾンビの身体に任せて研究中止を求めるデモが昼夜問わず行われているとは聞いていたが、ここまでとは。

「人間の進化を止めるな。」

「神の与えた身体に手をつけるな。」

「極楽を奪うな。」

 複数の宗教でも混ざっているのだろう。けれど言っていることは1つ、このまま不老不死で居させろということだった。

 なんて精神衛生上よろしくない環境なのだろう。

「よろしければ、防音シートを納品致しますよ?」

「こんな時に商魂たくましいですねぇ。」

 半ば呆れたように言われるが、本来営業の仕事は、商売で客の困ったことを解決するのが目的なのだから仕方がない。

 それに最早仕事ではなく、純粋な善意で言っていると打ち明けてみたら信じてもらえるだろうか。

 初めに会社が目論んだ方針や組織自体も崩れている以上、営業活動は俺が何をしたいかに全て任せられていた。放置されているに等しい現状、現場判断とは便利な言葉だ。

「こんな時だから出来ることをしたいんですよ。こちら、差し入れです。」

 チューブに入ったゼリー1ダースの箱を机の上に置く。機械メーカーが客先の研究所への差し入れするものとしては実用的すぎる品だ。こんなものでも野口氏は目を丸くしている。

「まさか、食べ物だなんて、嗜好品を1ダースもお目にかかれるとは。どこで売っていたのですか? というより、売っていたのですか?」

「企業秘密ということでお願いします。出来ることがしたいという私の気持ち、信じて頂けましたでしょうか?」

「おぉ、ありがとうございます。すごいですね、応えられるかどうか自信がなくなってきました。」

 この箱で世界の最先端の研究の結果を覗けるなら安いものだ。仰々しくはったりをかましてみせる。最初のやり取りと反対の立場に逆転してしまっている事を、野口氏はどう考えているのだろうか。

 企業秘密なんてとんでもない。そんなものを持てるほど、うちの会社に人はもういない。

 このゼリーたちはただの、俺の努力と少しの悪事の結果だ。罪悪感と共に箱を軽く叩いてしまう。

 打ち捨てられたスーパーのような場所なんて、少し探せばすぐに見つかるようになってしまっている。店員がおらず電気も止まった腐臭のする場所にも使えるものがあるというのにそれを探しもせず、ただデモを起こすゾンビたちには軽蔑しかない。怒号が先よりも大きく聞こえる。

 あの発表の日、全世界に野口氏の研究結果が報道されて、もしかしたらこの不老不死の身体が終わるのかもしれない可能性を人類が少し見た途端。

 翌日から、世の中から欲望を隠そうとする社会性は急激に失われていっている。今日も電車は来なかった。

 発表のテレビを見て、寝て起きたら世の中が一変していたのだからたまったものではない。不老不死のこの身体でなければ胃に穴が空いていただろう。

 恋人からの死ぬ時くらい好きな人と暮らしたいから別れてくれとの言葉や、従業員がいなくなったのかしょっちゅう起こる停電と断水や、店員という店員がいなくなって無人となった商店や。この3ヶ月驚くことには枚挙に暇がなかった。

 皆、状況が理解出来たということだろうか。

「死ぬかもしれないのだから好きなことをしたい。」

 例の日以前ならば死ぬ直前に思うことだったのに、死ななくなった途端強く意識するようになるとは誰が思っただろう。

 その反応にこの世で一番驚いたのかもしれない人物が口を開く。

「さて伊集院さん、貴方は今の我々の逆風をご存知ですよね?」

「ええ。」とても。この光景を見てわからないのはよっぽどのお花畑頭だ。

「この現象を解明しないとこの身体がいつ崩壊するのか理解出来ず、対処出来ないまま世界が終わってしまうかもしれません。それを避けるために研究をしています。」

 改めての確認を野口氏は口に出す。俺は相槌を打ちながら、その理想に賛同してついて行っている者はいるのだろうか、と考えていた。

 少なくとも俺の周りにはいない。

「研究を止めるわけにはいきません、この先の人類の進歩の為にも。」

 自分にも言い聞かせているのだろう、遠くを見ながら力強く断言する。視野が狭い責任者はいつの時代もぞっとするのだけれど、そこに彼は気づいているのだろうか。

「伊集院さん、来てもらったのは他でもありません。新しい機械を納入してほしいのです。」

 野口氏はほとんど俯いた状態で言った。以前の彼ならしなかっただろう、だらしのない姿勢だ。

 俺は営業らしく返答する。

「どのような機械ですか?」

 心電図を書くような医療機器だろうか、それか計りや遠心分離機のような実験機器か。どちらにせよ、納入出来るのか全く自信がない。それどころか多分無理だ。今朝も見た会社の惨状を思い出す。善意はあるが善意だけでは流通は回らないと痛感できる光景だった。

 まだ元気そうな会社に勤める大学時代の友人に渡りをつければ仕事をしたことになるだろうか。

「今回は自家発電機用のガソリンを工面して頂きたいのです。」

 ガソリン。この資源のない国で永遠の旅に出ようとする人も少なからずいて、そんな中で大体の乗り物が必要としている液体。1番難易度の高いものを言ってくるものだ、ゼリーで驚いている場合ではないだろう。営業先の無茶に笑顔で応えられたかは自信がない。

「それはまた。」

「ええ、難しさはわかっております。ですがこれがないと実験用の機械たちは動けません。是非お願いしたいのです。」

 いくら必要でも、輸出も輸入も最早手の届かないものとなりつつあるのを彼は知らないのだろう。

 時間があるのだから自分でやれ、時間をかければどんな無能でも事を成し遂げられるだろう。こう吐き捨てたのは誰だったか。

「それも早急にお願いします。」

 簡単に言ってくれるなぁ。内頬を噛んで口角をなんとかあげる。

「うちは機械屋なのでノウハウもルートもありませんので厳しいです。」

 逃げ口を作るために理屈をこねる。

「第一、途切れ途切れとはいえ電気の供給が止まったわけではありませんし、太陽光発電もあるではないですか。時間をかければ、いくらでも研究を進められるのではないでしょうか。」

 そう、時間をかければ。その一言は野口氏には地雷だったらしい。

 仇か何かのように睨まれながら、俺は水を一口飲む。単なる井戸水だ、お茶ですらない。

「今しか出来ませんよ。」

 彼は出来の悪い部下を諭すように言う。

「現状の様子はどうです? 今でさえこんな有様、実験に必要な品が手に入る機会自体数年後にはなくなっていることでしょう。今しかこれは進められないのです。」

 熱い目をした彼が物質的な面でしか論じなかったことに、ため息を吐きそうになる。

 そりゃあ研究者としては研究を進めて、しかも結果を出るかもしれないといったところだ、早く進めたいと思うのは当然だろう。

 けれど、それをお膳立てする側としてはたまったものではない。そもそも金も意味を成さなくなってきている以上、彼等は俺の時間に対価をくれるのだろうか。一応出世払いも受け付けてはいるのだけれど。

 野口氏はどうやったら目の前の浅学な若者に研究の必要性を説けるか悩んでいる。その研究者の支払いの意識の薄さに、出世払いへの望み薄な様子を感じ、頭が痛くなったような気になる。

 考えるのに疲れてはいるけれど、とりあえず目の前の仕事は片付けなければ。損な本能に従うことにした。

「上司に相談します。」

 結局、俺が打ったのは先ほどと同じ逃げの一手だった。

 野口氏の眼光がさらに鋭くなるが知ったことではない、対価ももらえない以上、善意で働いていることを痛感してもらいたいところだ。

「絶対に、必ず、お願いしますね。でないと貴方方との付き合いも考えなければなりません。」

 代わりの業者がいるなら連れてきてみろよ。一瞬本気で苛ついて、野口氏の爛々と光る目を抉りたい衝動に駆られる。

 彼の憔悴していた目は、もうこんなに簡単に光を取り戻している。結局のところ、善意に鈍感な人は悪意にも強いのだろう。


 ※


「関係ないのだが、帝国工業さんは銃も作っていると聞いた。」

 研究所から退出する直前、裏口の重い鉄扉が少し開いた瞬間にそう声をかけられる。

 見ると大柄な男が猫背になったかのように背を丸めていた。

「伊集院さん、銃、売ってくれないか?」

 彼、佐久間氏は再度ソレの名をはっきりと口にする。こんなデモの様子から、遅かれ早かれ問われるとは思っていたがこの瞬間とは。

 慌てて扉を閉じる。せっかく防音性に優れているものを用意したのに、どうしてそれが開いてるときに話そうとするのか。

 俺は密閉空間を作り直してから、答えを返す。

「どうしたのですか。この研究所は国の管轄下でしょう、デモは酷いとはいえ安全ではないのですか。冗談はよして下さいよ。」

 一瞬冷静さに欠いて、非難する口調となってしまったのは失敗だと思う。

 はたと気づいた時には佐久間氏はきょどきょどと目を動かしながら頭を抱えていた。その異常な目が一度もこちらを見ないことに安堵を覚えてしまう。

 彼は誰に聞かせるでもなく、ぶつぶつと呟く。

「研究員もすぐにいなくなる、バイトも集まらなくなったから研究員で賄わなければならないのに。それを押し留めるにはこれしかないんだよ。」

 議論もせずにこれしかないと口に出す人は信用してはならない、上司に教えられたことだ。

「一旦落ち着きましょう、ソレは実験に必要なのではないのですね?」

 彼はストレス下で軽いパニック状態なのではないか。だからそんな物騒な発想になる。働けと鞭を打って働くのは死にたくない奴隷だけだ、死んでも大丈夫な成人が働くとは思えないし、俺なら絶対に梃子でも動かない。

「実験を進めるのに必要だ。」

「実験に必要なのは人員でしょう? ソレですることは必要ないはずです。」

 人が集まらない、機材も危機感を覚えている、資材の取引すら門下外の業者に声をかけているとなると、案外この仕事の終わりも近いかもしれない。頭の隅で冷たく算段をつけながら、適切につき放す。

「無理を機械で何とかするのがあんたらの仕事だろ? そこまで期待しない、こちらでやる、だから道具を売ってくれって言ってるんだよ。」

 無茶を言うのは良い。もちろん嫌だが睡眠を必要としない、悲しいことに恋人もいない、時間はある身だ。頑張ってどうにかなることならどうにでもしよう。必要な研究であることもわかっている、だからこうして1人で働いている。

 けれど知識という得るもの、対価もないのは耐えられない。それじゃ奴隷扱いじゃないか。

 研究所から出ているところを見たことがない、ただ働きであろう山崎氏には難しい考えか。

 少しでも時間に意味を持たせたい。

 そう考えるのは旧時代の贅沢なのだろうか?

「上司に相談します。」

 野口氏への言葉と同じくして答える。

 違うのは、実際に相談することはないということだ。民間人が武器商人だなんて、アニメの見過ぎな中年男性の言うことを聞いて、一銭の得にもならないなんて救いようがない。

 他部署で輸入物だから銃の納入なんて出来ないだろうなぁと考えながら、今度こそ鉄扉を開ける。

 蟬時雨のような罵声がまとわりついた。

「誰か出てきたぞ。」

「不老不死化解除、反対!」

「神の与えたもうた祝福を受け入れなさい。」

「俺はただの業者だよ。」無駄だと思いながら反論する。

「協力してたら同罪だ。」

「この身体を病気も怪我もする身体に戻そうなんて、神への冒涜だ。」

「わざわざ働くなんて、変態が。」

 言うに事欠いて変態か。少し笑ってしまい、集団の勢いを増してしまう。営業とは名ばかりの小間使いなんてやってはいるが、それだけでこんなに非難されるとは。

「俺だってずっとのんびりしてたいよ。けれどこのままいたらいけない気がしてならないだろう。」

 何となく感じる焦燥感、このままじゃあいつかどこかで崩壊する、という確信がある。所謂、意識高い系だろうか?

 その虚ろな目をした集団にその焦燥を説くことは命が惜しくて出来なかった。死なないとはいえ痛い目を見るのは嫌だ。

「うるせぇ、退け。」

 色々考えた結果、こう言い放ってしまう。辺りを静寂が広がって事の重大さに気づく。それからの怒号は酷いなんてものじゃなかった。

 何発か殴られながらも全力疾走で集団を抜けて、そのまま会社まで走り続けただなんて、いよいよゾンビじみてきただろうか。


 ※


 会社に戻ると唯一残った上司が朝と変わらず、ぽつんと座っていた。

 日当たりの良い窓際、逆光でやたら神々しく見える配置。この時間帯、夕方以降が最も後光の射すタイミングだ。

 最後にこれが見れる瞬間に戻ってきたのは良かったのか悪かったのか。

「おかえり、思ったより早かったな。」

 退職届と書かれた紙を机の真ん中に置きながらその上司、課長は言った。他に役職者はいないのに何とまぁ律儀な人だ、だから出世するのだろう。

「辞めちゃうんですか。」

 自分の口から出た言葉があまりにも淡々としていることに、我ながら驚いた。人は驚きすぎると冷静になると言われているが、それは種の生存本能から対処がすぐに出来る体制を整えるためだ。死なない身体で生存本能なんてあるのだろうか。

「辞める。むしろ、まさかここまで長居することになるとは我ながら思わなかったわ。」

 課長は日差しと同じくらい明るく言い放った。笑いを口元に止めたまま彼は言う。

「どうしてか聞かないのか?」

 残酷なことを仰る。

「ここにいても進歩がないから、でしょうか。」

「よくわかってるじゃないか。」

「入社してからずっと貴方の部下でしたから。」

 そうかそうか、と相好を崩した顔はあの日から変わらず、期待の若手課長そのものだった。

「ここを辞めて、どこへ行くんですか。」

「海外を回る仕事をしないかってツレに誘われてな、面白そうだからそっちやるわ。」

 そうあっさりと言って鞄を持つ彼は、一切の反論も問いかけも認めていなかった。

 この場に取り残される私はどうなるのか、と聞きそびれてしまう。ツレという言葉の距離感はどの辺りなのか、現実逃避が頭を埋める。

「あの、仕事の相談を最後にしたいのですけれど。」

 必死に引き止める話題を探す。

「あぁ、あの不老不死化研究のやつな。よくやってるよな、お前も。」

 口だけは親身に課長は言う。目は何も写していない。

 努力とか尽力とか、過去の自分の時間が粉々になっていく。

「何度も言っているけれど、止めて良いよ。あれ。」

 その一言で上司としての責任を全て果たしたかのようだ。一切の躊躇も感情もなく、彼は歩き去っていく。

「止めて良いって、そろそろあの研究所ももちそうにありませんし終わります。」

 ビジネスの場に不適切な、感傷的な本音を吐く。

「ここまで来たら最後まで付き合いたいんです、研究を唆したスポンサーの一員として。」

「じゃあ続ければ?」

 俺もう、辞めるしなぁ。彼の本音も透けて見える。口に出さないのは良心なのか、本音を話すに値しない俺への低い評価のせいなのか。

「引き継ぎ資料は引出しに入ってるから。その仕事とかいうのの目的とか書いた、国との会議の議事録もあるはずだから使うといいよ。」

 彼の直近の行動に関しての指示は相変わらず的確だ。

「最後に忠告だ。ここにはもう、伊集院くらいしか残ってないから、早めに見切りをつけろよ。組織ってのは1人の努力じゃどうにもならないから。

 結果の出ない、無駄な時間を過ごすのは嫌だろう?」

 それは口に出すのか。無駄な時間という言葉に目を見開いた俺をどう捉えたのか、課長は付け加える。

「時間はたっぷりあるからな、お前がどう使うのかは勝手だから強くは言わないけどな。」

 この時間の価値そのものは否定したまま、お前の行動はお前の責任、とばっさり言い繕って彼は去っていった。

 今から思うと、転職先を聞いたりもっと詳しく退職理由を話してもらったりすれば良かった。

 もしかした聞いても話してもらえなかったかもしれない、真相は藪の中だ。

 躊躇ったのは、聞いてしまって、その真相ををはっきりさせるのが怖かったのかもしれない。


 ※


 一般社団法人エネルギーコンサルタント設立の狙い

 ・人体の構造を解明し、この国の技術を革新する。

 ・人間社会を維持する。

 ・選択肢を増やすことで国民の幸福度を向上する。

 ・解明した事実を基に、国や企業としての覇権を握る。


 このお粗末な箇条書き以外の資料は引出しになかった。

「この議事録、俺が書いたものじゃねぇか。」夜の山道を歩きながら、俺は悪態を吐く。

 軽自動車くらいしか入れない端が崩れそうな砂利道の先、その無人ガソリンスタンドは残っていた。

 地元民でしか知らないような、何故こんな不便な場に作ったかさっぱりわからないそれ。私はたまたま、ドライブで迷ったときに見つけていた。旧国道が近いとか、そういう理由で作られたのだろうか。地理は苦手でわからない。

 さすがにガソリンは残されていないだろうと思って駄目元で来たものの、コインを投入すると変わらず出てくる事実に驚きを覚える。この分だと、探せば何でも残っているのではないか? そんな楽観的な希望まで浮かんでしまう。

 今残っている物を使い尽くすのに何年かかるのだろうか。供給がない中で、人が死なない中で。

 背負ってきた大容量のポリタンクにガソリンが溜まる音が響く。

 上司はあのままいなくなった。結局、俺の胸に巣食う焦りを理解してもらえることはなかったし、またも連れて行ってもらえる事はなかった。彼は私の最後の仕事仲間だった。

 藪蚊が腕に止まり血を吸う。一瞬だけ痒くなり、元の身体の通り蚊刺されは治る。また別の蚊が止まった。人間以外の生物は呼吸も食事も必要としているのだ、少しくらいは良いだろう。

「やっぱり良くねぇわ。」身体中をはたき落とす。蚊にまとわりつかれた人という立場を客観的に認識し、気持ち悪くなったからだ。無限にあるからといって虫に血肉をくれてやるほどの奉仕の心は持ち合わせていない。

「俺、この先どうしようかなぁ。」

 出不精な私は考える。永遠に快適な自分の家で寝っ転がって、漫画を読んでいたい。幸いなことに何十年かは読み切れない量の蔵書がある図書館が近所にある。

「でもそれじゃあなぁ、いつかなぁ。」

 その楽園を阻むのはこの思考だ。何百年後か何千年後かわからないいつかを考えてしまう。電気を作れることもなく舗装した道はなく、歩こうにも太陽がいつかなくなって永遠に死に続ける宇宙空間に放り出される日を空想する。

 俺一人じゃどうにもならないっていうのに。

「あー、どうしよう。」

 ポリタンクからはいつの間にか、貴重なガソリンが溢れていた。


 ※


 ポリタンクを背負ってその研究所に着いた頃には朝になっていた。寝不足を感じない身体でも朝日が眩しい。

 研究に反対するデモ隊の数はますます増えていた。

「すみません、通ります。」

 そう声をかけたのは、失敗だったと今なら断言できる。まだ俺はその時、人の良心や常識の根本は以前のままなのだと思い込んでいた。

 俺の声に反応したデモ隊の暴徒は、道を空けるどころかこちらに殺到してくる。

「お前、昨日の出入業者だろ。何でこんな奴らに協力なんてしてんだ。」

「あの子達が可哀想だと思わないのか。」

 デモ隊が連れている子供たちのことだろうか、こんなところに付き合わされているのは気の毒に思う。

「いざ研究が完成して、後は知らないじゃ済まされないぞ。」

「何を言っているのですか貴方がたは。とにかく、通してくださいよ。」

 ドラマで見た役人のように、人をかき分けて進む。人を説得したいならもっと手順を踏んでほしい。例えば、名刺交換だとか。

「儂だってこの身体さえ手放すのは怖いんだよ、けど頑張っていこうとしているんだ。」

「おい、押すなよ。」

 口が曲がったお爺さんに押され、ぐらっと体勢を崩す。


「あぁ、なんてこと!」


 声が遠い。悲鳴が甲高く上がる。


 押されてもたれかかった先にあったデモの旗は、俺の胸を貫通していた。


 酸素が急速に足りなくなる感覚がする。致命傷というのは不老不死になってから初体験だが、聞いた限りなら引き抜けばすぐに治るはずだ。

 早く抜いてくれ、と言おうとしたが、力が抜けて倒れ込んでしまい、自分の体重で根元まで刺さっていく。視界が一気に暗くなった。

 集団からまた悲鳴が上がる。

「人を、殺してしまった。」

「このまま実行するしかない。」

「こちらは正しいんだから。」

 信じられない事に、俺の生死を確認しないまま、彼ら暴徒は大義を得た気になったらしい。

 彼らは自分の身体がどこまで再生出来るのか調べもしなかったらしい。彼らにこそ、野口氏に教えは必要なようだった。

 俺は生きてるっつうの。冷水をかけてやろうと口を開いても血の濁流しか出てこない。血が気管に入って、息をしていない肺が反射で痙攣を起こす。

 苦しい、痛い、だがその時感じた憤怒に比べたら全部ましだった。

「こいつまだ動いてるぞ。」

 永遠に生き続けてどうするっていうんだ。現時点でさえ、こうして時間を無駄に使っている癖にまだ必要なのか。全身が痙攣を始める。なるほど、引き攣れたように痛い。

 蘇生はまだまだ研究段階で目処も立ってないっていうのに、何で、そんなに反対する人数がいるのか。

 倒れる一瞬前見咎めた、研究所の周りをぐるりと取り囲む雲霞のような烏合の衆たちの足を貧血で霞む目で眺める。

 噎せた肺の痛みでえずいてまた噎せてしまう。けれど彼らに問いたいと、懸命に口を開く。開く度に血が減って気が遠くなる。

「ガソリンなんて持ってるぞ。」

「この時代にこんなに。」

「やっぱり国から優遇されていたんだ。」

 探せばあったし、そもそも国の研究機関なのだから優遇も何もないだろう、馬鹿どもめ、と吐き捨てたくても血反吐しか出ない身を呪う。

 人が密集しているのに、暴徒の集団からは熱は感じられなかった。

 それで、彼らが私と同じ死ねなくなった人間なのだと理解出来て、それなのにどうしてこんなに憎悪の目で私を見るのかわからなかった。

「ガソリンなんて贅沢だ。これでこの建物、燃やしてやろうぜ。」

「賛成、因果応報だ。」

 せめて有効に使ってくれよ。救いようの無さに涙が出てくる。ここが地獄に違いない。

「なぁ、抵抗活動のシンボルって必要だよな。」

 ぽつり、と誰かが呟いた。

 その騒めきはあっという間に広がって、俺の首に冷たいものが当てられる。角度が悪く見えなかったが、それをする暴徒の誰かの血走った目と臭く荒い息遣いから、それがナイフだということは察せてしまう。

 鋸のように引かれて首に入っていく冷たさに、ここまでされてもまだ痛覚はあるのだなぁと思う。ぎこぎこと不定期に、千切れていく感覚と共に俺の首が軽くなっていく感覚も感じる。

 その不思議さに気が狂いそうだった。

「なかなか切れないな、こいつの首をシンボルにしようぜ。」

「まだその人生きてるみたいですよ。」

「そりゃあ不老不死だからなぁ、でも流石にここまでしたら死ぬだろう?」

 刃が心臓に追加で差し込まれる。とどめを刺してやろうとしたのか、テンションでも上がったのか。どっちにしろ楽にはなれなかった。首以外はもう痛くないのは幸いなのか。

「この怒りの表情、良いだろ?」

 最後に俺が見たのは、炎と、そういう馬鹿の腕の上から見えた群衆の黒山の頭がみんな馬鹿面をしているところだった。

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