雑居ビル

 何とか立ち直った俺は大都市に背を向けて、郊外にあるサーバー所在地、雑居ビルを前にしていた。

 先ほどまでの高層ビルとは違う、平凡なビル。少し古ぼけている事が多かったそれは年代物の様相を呈している。ウカイの図書館とはまた違った廃墟だ。

「これ、入って大丈夫かな?」

 アンナイが躊躇うのも頷ける、誰だって外側に大きな亀裂が入ったビルになんて足を踏み入れたくはないだろう。

 そのビルは様々な企業が入っていたことを伺わせる様々な看板が置いてある。そこは昔からよくあるビル、異様なのはまるで何者かが縦に刃物を振り下ろしたのように割れていることだった。

 住所があっている事を確かめる。

「これは明らかに人がいないよね。」

 アンナイがおずおずと尋ねる。

 風が吹くたびに亀裂から内部にあったであろう紙が噴き出してくる。同じく誰か落ちてはいまいか目を凝らして見ても瓦礫だけ、そこだけは良かったと安堵出来る。

「階段と一部の部屋は残っているみたいだけれど、やめようか。」

 アンナイの声に意を決する。

「私が入ってくる。」

「無理に行かなくて良いじゃない。」

「仕事なら最初から最後まできちんとする主義なの。」

「命の危険まであって無給で何が仕事よ。」

 正論が人を幸せにするとは限らない。

「死なないから危険はないよ。アンナイはここにいて崩れたら掘り起こしてくれ。」

「不老不死ってのも大変なのね。」

 今更気がついたのか。


 自転車の番を頼んで階段を登り始める。心なしか揺れているように感じるのは錯覚だと思いたい。いっその事走った方が良いのではないか、けれど振動にこの建物が耐えられるだろうか。

 歩く度に埃が舞う。分厚い層となったそれが俺の脚を優しく包む。やわらかな感触に、そのなかにいるであろう虫や細菌を想像してしまい、鳥肌が立つ。

 何十年も誰も通ってない証拠だ、ここに人はいないだろうと確信しつつも、尚も登っていく。

 ここはアンナイの研究所とは違った面持ちで悲惨だ、各階を覗く度に暗い気持ちになっていく。

 大体の部屋が荒らされている。特に棚が酷い。全て倒され、大小様々なファイルがぶちまけられて、踏み砕かれている。

 壁が割れた影響かと思ったが、奇跡的に無事である区画でも同様だった為、人為的なものだと悟る。

 機械も同様に殴られている。そう、コピー機なんか特に酷い。撲られて破壊されたなんて修理に出すときどう説明するのだろう、と疑問に思ってしまう。

 目的の企業が入居しているフロアにそっと侵入する。

 裂かれた紙、本。破損したオフィス机に壁の破損、まさか投げつけたのか? そこは台風一過の様相を呈している。台風ならまだ次に作物が実るだとか収穫があろうものが、壊れた物は治らないのだから救いようがない。

 よく見る光景だけれど酷いものだ。

 今まで見てきたパソコンが全て破壊されているのを確認して、ここでの収穫はないのだとようやく断言出来る。

 どうしてこんなに暴れたのか、誰がこんな事をしたのか、想像してしまう。

 執拗にパソコンと役員の席、ホワイトボードが破壊されているから社員の復讐だと、いつも最初に考える。

 人間死なないとなったら馬鹿な事を試してしまう。その例の1つとして、会社への鬱憤を盛大に晴らしていったのだろうか。休みがなかったのか、事務仕事だったのか、と勝手に想像し同情する。

 ぎしぎしと家鳴りが酷い。

 金庫もこじ開けられているため強盗とも考えられる。だとしたらこの有り様が作られたのは金銭の価値がまだある頃の話か、何十年前だったか。

 丸々残された土地や建物の賃貸契約書を蹴飛ばしてみる。昔は大金を蹴飛ばしている背徳感と爽快感があったのに、今はいまいちぴんとこない。契約書を提出する先が何処にも残ってないからか。

 過去に何があったにせよ、ここの未来は朽ちていくだけなのはまず間違いない。

 そういったものを見る度に、忌避感を感じてしまうのは身体だけでも若者だからか。

 そんな感傷に浸っている最中に大の字で寝転がっている人を見つけてしまったのだから、もう帰りたい気持ちでいっぱいだ。

 それは艶やかな短髪の髪の男だった。少しくまが濃いけれど髭もきちんと剃られた、一般より男前なサラリーマン。

 この洒落た雑居ビルがきちんと自立していた頃は、さぞや活躍していてモテただろう彼。

 その彼の腹をしっかりと踏んでいて、彼自身、ぱっちりとこちらを見ているのだからたまらない。正体不明の男が上目遣いをするような形になっているのが余計に恐怖を煽る。

「足、どけた方が良いですよね?」余りに反応がない為、思わず確認してしまう。

 頷く彼を見て、彼からおりる。見ると散乱する紙に埋まる形になっており、そりゃあわからないのも道理だと言い訳したい。

 彼が聞いてくれるかはわからないけれども。相変わらず虚空を見ている彼に仕方なしに話しかける。

「あの、ごめん。」

 つい敬語が外れてしまう。彼の服にも埃が折り重なっていて、年単位で横になっていることが察せられてしまったからだ。ほとんど置物のような人物に配慮するような殊勝さはない。

 折れていないボールペンを拭って数本拝借する。こんなものすら希少品になるとはここの連中は考えもしなかったらしい。

「なぁ。」

 掠れた木の葉が擦れるような音は、その男が発した声だった。

 突然話しかけられたものだから、膝小僧を机にぶつけてしまう。痛みに耐えながら返事を返す。

「俺、ここですっごく頑張って働いていたんだ。昼も夜も、1人暮らしなのを幸いに。」

 そうだろうな、と彼のくまと手足から判断する。手はよく見ればペンだことインク塗れで、履いている靴の底は擦り切れんばかりだった。

「なのにあの日、会社に帰ったら誰もいなくて、今まで待ってるのに誰も帰ってこないんだ。どうしてだと思う?」

 ご傷心らしいが経緯がわからない相手に問いかける質問ではない。

「もしかしたら良かれと思ってやったことかもな?」適当に返答する。

 この場合も色々と考えられる。

 そもそも頑張っていたのか、というところからだ。他は、努力はしていたが周りの為になっていなかったとか、周りがくそったれだったとか。

 当事者にすらわからないであろうことを俺が判別できるわけが無い。仕事をしていたら置いて行かれたというなら、俺も同じ立場なのだが。

 窓を開けて空気を通す。雨も吹き込んでしまうだろうが隙間風で紙が舞う現状だ、大差はない。窓のサッシは長年の埃や砂で固着し、やたらと固かった。

 やっとの思いで開けると当然埃が舞い、心理的なものでむせ返る。ごみが舞って視界いっぱい真っ白になる光景なんて一生見たくなかった。綺麗好きな人なら卒倒は不可避であろう。

 鼻から入ったら身体に悪そう、というこれまた気のせいな理由で手で口元を押さえる。

 そこまでしても、床の男は微動だにしない。綿ぼこりが顔を埋めてくすぐったいだろうにくしゃみひとつしない。

 感覚を感じるのを忘れ慣れているのだろう。生きるのに必要ない以上、くしゃみひとつですら反射か意識しないと出来ない。

 一応の断りをかける。

「外側から見たらこのビル割れていたぜ。」外に出る口実に出来るように付け加える。「待つにしても表で待った方が見つけやすいと思う。」

「お前、真面目なやつだな。昨日の奴らはそこまで注意しなかったぞ。」

 男は笑った。

「外に行こうにも床から取れないんだ。」

 彼の両手足はよくよく見ると釘で刺されていた。

「いったい誰にされたんだ?」

「さぁ。」彼は興味なさそうに言う。「外回りから帰ってみたら誰もいなくて、腹が立って暴れて、気がついたらこうなっていた。」

 暴れたのはお前か、短気すぎないか、と突っ込みたくなる。

 1回殺されて磔にされたのだと思う。けれど誰にそれをされたのか、それが全く予想出来ない。

「例の日が過ぎても一緒にいたのにな。」

 彼は自身を磔にしたのは同僚か、このオフィスを一緒に使っていた誰かと思いこんでいるらしい。

「思い込みで判断するのは危ないからな? 」

 何とはなしに彼の心に釘を刺しながら、彼の手足の釘を抜いていく。

 その釘たちは赤く錆び付いていて、俺の手が忽ち血と鉄の匂いに塗れていく。

「何をするんだ。」

 ぼんやりとしたまま彼は呟く。

「いつでもここから逃げられるようにだよ。」1つの手に何本も刺さっているものだから、念の入りように寒気がする。

 誰がやったにせよ、よほどの悪意があったらしい。斜めに入ったそれを抉りながら抜いていく。

 ようやく全て抜き終わった。

「出られない口実の為に抜かなかったのに。」彼は恨みがましく言った。

「見つけたのに助けなかったら人間的じゃないと考えてしまったからな。」明らかに同行者の影響だ。「俺の自己満足だ、すまん。」

 すぐにでも起き上がる筋力はあるだろう。例の日も健康に働いていたからこそ、そのような見た目をしているのだから。

 彼の手足の穴が塞がると同時に彼は起き上がり、またうずくまった。

「まだ少し時間をくれ。」

「外でやれよ。」

 思わず言ってしまう。時間はあるのだから、いつ崩れるともわからないここでなくとも良いだろう。

「ここでないと駄目なんだ。」

 それっきり彼は呼びかけに応えることはなかった。

 背を向けてぐらつく階段を降りる。

 あそこでしか見つからない何かを考えてみても、俺には早くここから出て生き埋めになりたくないということしか思いつかなかった。


 ただいま、とアンナイに挨拶をすると少しだけ怒られる。

 どうやら彼女は建物の揺れに卒倒しそうな心持ちでいたらしい。ぱたぱたと埃をはたかれる。

「誰かいた? といってもこの埃まみれの様子じゃ、捨てられて随分経ったビルみたいね。あんな、揺れているビルの中で歩くなんて怖いものね。」

 どっこい、歩いていない人はいたよ。

「ああ、誰もいなかった。」助けに行こうと言われないように嘘をついてしまう。「長期間使われてないみたいだ。」

「そっか、じゃあ次に行きましょう。」

 至極あっさりとアンナイは自転車を用意する。もう少し食いつくかと思ったのだけれどな、と彼女を乗せる。

「通りすがりの人に話しかけてみたの。」ぽつりと彼女は言う。

 返事代わりにペダルを踏む。知らない通りすがりに話しかけるなんて、ただでさえチャレンジャーなことだ。

「会話が全く通じないのね、彼等。」

 当たり前のことを寂しそうに言う。

 精神が疲れ切ってしまったのか、やりたい事だけを見定めてそれ以外のことを忘れたいのか、煩わしさから社会性を切り捨てた結果なのか。ともかく、道行く人が返答に応えることはほとんどない。

「イジュウインみたいに働くでもなくただふらふら歩きまわって、ゾンビみたい。」

 みたいじゃなくて名実ともにゾンビなんだよ、俺たちは。

 憐れみの色を浮かべている彼女に面と向かって指摘は出来なかった。

 今も同僚を助ける為に頑張る彼女に、進歩もないのに駆けずり回っているこちらの方がおかしいのだ。と誰が言えるのか。

 強い照り返しの所為にして窓を開けた事で寿命を縮めた雑居ビルを後にした。


 彼が外に出る勇気を持つまでにビルが崩れなければ良いな、と思う。

 数日後に様子を見に来る勇気を俺が持てるかどうか、自信はまったくない。しかし釘を抜いたことで責任を感じてはいる。

 おそらく俺は来週あたり、びくびくしながらここを訪れてあの男の安否を確認するのだろう。そしてまだ寝転がっているのなら、担いで外に叩き出してやろう。

 あぁ、ここまで気になるのなら今日の内に無理にでも担いで外に出せば良かった。

「あれ、さっきの建物。」アンナイが声を上げる。

「窓のところ誰かいたわ。」

「錯覚じゃないか。」

「違うわ、いたわ。まさか幽霊? 」

「ああ、幽霊だな。それも地縛霊だ。」

 気の無い返事ではなく真剣に返したつもりだったのだけれど、怯えたアンナイからは八つ当たりされてしまった。

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