誰も通らないわね、とアンナイは夜の街を見下ろしている。電気なんて一個もついておらず夜景なんて臨みようがない。働く人の火で夜景は作られていたのだから考えれば当然の事だった。

 あれから数件の企業を訪問して、全てもぬけの殻だったのを確認した。放棄して久しい事務所や支店ばかりで、この国の現状がよくわかる。

 ここ、電子通信公社の事務所に戻る間に深夜になってしまっていた。

 何故彼らの元に戻ったかというと、手がかりを探してみようと俺がアンナイを誘導したからだ。


 トラックの出発にかち合って見送りを済ませる。

「ああ昼間はどうも。住所の紙、くれぐれもなくさないでくださいね。ではさようなら。」

 エハラ部長はそう言って去っていった。結局、終始演技っぽくて好きになれなかった。


 このオフィスの主人である紳士から手渡されたのは2枚、真新しい名刺と殴り書きのメモ、それと毛布。メモはスーツの内ポケットに入れ、名刺はきちんと名刺入れにしまう。

 アンナイが問いかけてくる。

「結局、サーバーの解析待ちになるのかしら。」

「それが1番じゃないかな。」体温調節には必要のない毛布に有難くくるまって天井を見上げる。

 夜は寝なければならない、譲れない人間としての矜持に従って俺たちは、こうして空になった電子通信公社の事務所に泊まっていた。

「解析結果を待っている間、私はどうすれば良いのかしら。」

 彼女は初めて出来た自分の時間に戸惑っているようだった。

「本当に学校を卒業してから働くことしかしてなかったのか?」

 何度も言っているけれど、そうよ、と躊躇いがちに答える。それが異常だと察してきたらしい。

「じゃあ計画前倒しで遊びに行こうよ。」何故驚く顔をするのか。

「やることなんて何だってあるじゃないか。お酒を飲むでも良いし料理も楽しい、そのための下準備で植物を育ててみても良いしウカイみたく読書をしても。それから。」

「どうしたの。」

 変なところで言葉を切った私をアンナイは覗き込む。

 どうしてこんな事を教えているのだろう。楽しい事を教えたら同僚たちみたいに何処かへ行ってしまうかもしれないっていうのに。

「いや、何でもない。」

「そう。でもそうか、時間、出来たんだものね。何でも出来るわ。」

 弾んだ声がくすぐったく、この人ともっと話していたいなと考えて、話すのを止めそうになる。

「もっと教えてよ、他に私は何が出来る? 」

 ころころ、と変わる表情と声音につられて、私は自分の知る楽しい事を教えてしまった。

 日向ぼっこ、天体観測、絵画、釣り、食事、映画。どれもやり始めると時間が足らなくて、人間が生きてきた何千年分の歴史があってそれを追いかけるだけで幾らでも時間がかかるものたち。

 楽しくて、それだけで生きていける、と同僚や友人が消えていった事たち。

「貴方が1番楽しいと思うことって何?」

 その問いにさっきまで無数に浮かんでいた楽しい事が萎んでしまう。1番は何だろうか、あの日以来寝る事くらいしか楽しいと思えなかった。

「子供は寝ろよ。」薄っぺらい自分を見せまい、とごまかす。

「50年以上生きてるから子供じゃないわ。」

 彼女は拗ねたように言った。

「何にも知らないんだから子供だよ。」

 立っている彼女を強引に腕の中に抱き込む。彼女は驚いて身を縮めている。

「何するの?」

「何にも。」

 子供の体温は高いというが今となっては確かめようのないことだった。鼓動のない身体に身を寄せる。

 冷たい人体に霹靂とする。毛布に入れてやろう、としたことだがこんなに冷たいのか、失敗した。

 アンナイの心臓が動いていたらどんなに心音が聞こえていたのか、ぽかぽかと蹴られて追い出されながら愉快に考えた。


 毛布がなく寝っ転がるだけで眠れというのは案外辛いものがある。ましてや疲労もない身体だ、よく考えたら寝れる訳がない。起き上がってぼんやりと窓ガラスに寄りかかる。

 アンナイに何も教えず働かせてばかりいた奴らの気持ちに共感できてしまう。

 自己嫌悪が止まらない。恐らく、偏った価値観を叩き込んだ先生も同じ気持ちだったのだろう。

「成長して置いていかないでほしい。」

言葉に出してみる。

 なんて器が小さい男なんだ。肥大した自意識に下唇を噛み切りそうになる。これも自傷行為に入るのか。品川でも落ち続けるざくろと同じ行為をしそうになっている自分にぞっとする。

 こんなに悩むなら終わらせてしまいたい、過去色んなことをしてしまった罰を与えられてしまいたい。

 はたと気づくと、いつも通り、年月が重なるにつれて積まれる思いに潰れそうになっていた。危ない、危ない。

 膝に乗せたアンナイの頭を撫でる。サイズ感といい、柴犬とかを連想してしまうのは疚しい事に入るかな。

 毛布から蹴り出される時に言っていたことを思い返す。恥じらいはあったらしい。この普通さが愛おしい。

 身体が変化しないという事は妊娠しないという事でもある。病気にもかからない。条件が揃いすぎていた。おかげで渋谷とかには未だに怖くて立ち寄れない。そんな彼等の一員でないという事実、何という普通さ。

 地図を広げて、先聞いた電子通信公社の引越し先とサーバー所在地の場所を書きつける。

 引越し先はまた、サーバー所在地と遠いところに陣取ったものだ。これじゃ社員を分けないと維持が出来ない。それが出来そうなカリスマ性が羨ましい。

 俺の勤務先とは大違いだ、責任感も使命感も、見返りも。

 苛立ち紛れに窓を割る。このビル全体でもいくらか割れていたからきっと見咎められる事はないだろう。音で起きなくてよかった、とほっとする。


 ※


 やはりこの街の道路も酷いものだ。コンクリートの経年劣化に加えてざくろの名残の肉片が傷みを加速させている。地面の隆起に油だ、車なんか使いづらいだろうによくやる。

 大型の装甲車というのだろうか、豪華で密閉されたバスのようなものがビルに横付けされて、集団が入ってくる。何とも迅速な行動だ。銃器まで持っている、どのような販売ルートをお持ちなのか聞きたいところ。

 やはり来た、誘拐犯の糞野郎どもだ。


 カーペットを切り裂いて捲ると案の定、5歳児の身体程度なら違和感がなく隠せるだろうだけの凹みを見つける。鉄骨造りの建物でもこうしてLANやケーブルを通すだけの隙間があることを知っていて良かった。過去の営業先の無理難題を答えるために頭を捻ったことを思い出し、少し涙ぐみそうになる。

 サーバー所在地の書かれた紙の裏に、迎えに行くからそこにいるように、1日経っても来なかったら何処か遠くへ、と書き付けて眠る彼女に持たせて地図と一緒に蓋をする。我ながら完璧な施工だ。

 朝起きて閉じ込められている事になる。俺だったらとても混乱して暴れる。お願いだから静かに寝ぼけながら起きてほしいと祈る。1人でも出られるよう、本気で暴れたら出られるようにしてある。


 俺は終わった人間なのだと思う。


 楽しいはずの事を楽しめなくて、1人で歩いていく気も起きない人物。何にも情熱を燃やさず、誰の心も動かせず。

 ならばせめてそれが出来そうな人の為にこれを使おうと思うのは当然の帰結ではないか?

 装甲車との距離を目測する。この高さで夜に正確に落下しなくてはならないのだから、我ながら無茶だ。

 何処かへ遊びに行こうという約束を果たせないことだけは申し訳ない。

 音はしないが床が振動しているからきっと近づいているのだろう。ここにいるのを見られたらこの階を調べられてアンナイが見つかってしまうかもしれない。

 意を決して先ほど割っておいた窓の穴から飛び降りる。途中壁を蹴って方向の調節をする、裸足の足の裏がその一瞬で擦り切れた。重力加速というのは強いのだなぁ。

 この砕け方は初めてだ。


 この世界では人の身体は肉片になろうとも修復される。

 つまり、肉片を対象にふりかけておけば、『俺』は潜入を果たせるのだ。


 装甲車の屋根にへばりつくくらい上手く粉々になれただろうか? 意識を失う直前に考えたのはそういう事だけだったと思う。

 決して、俺の楽しい事って何だっただろうとかは脳裏によぎったりはしなかった筈だ。

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