2話目


 ※


 たっぷり小一時間泣いて立ち上がると、まるで何もなかったかのように濡れた頬が乾いていく。身体の状態が巻き戻ったのだ。涙でかぶれて、アスファルトにこすり付けて擦った肌程度なら、一瞬で治ってしまう。さっきの彼のような怪我は時間がかかるだろうけど、所詮、戻る程度の怪我だ。

 戻らない怪我は見たことがない。みじん切りにしようが、破片を分けておこうが復活するのだから、いっそ総人類無敵モードと言って良いかもしれない。

 問題は無敵モードに倦む人が沢山いたことだ、今の俺みたいに。

「あぁ、もう今日は早退してやろうかな。」

 蓮っ葉に呟く。お前の仕事には何の意味もないと初対面の人に指摘されてこうならない人は少ないだろう。

 営業マンだった頃はどう罵倒されようが何をされようが、大金と部内の人間、ちょっとの感謝があったから何とか自分を保てた。

 今は何だ、考えてみればどちらもない。金を使おうにも使う場所はないし、そもそも振り込まれているのか確認する術もない。

 例によって、銀行も制度は崩壊している。金融関係は大変な職業だとその分野に就職した同級生からは聞いていた。曰く今時上司に怒鳴られるのはこの職業だけだとか、週5回の飲み会で給料が飛んでいくだとか。

 業界というかその上司がやばいんじゃないかと口を挟みそうになったが、とりあえず酒を注いだのを覚えている。辛い人に現状を認識させるのは薬なのか毒なのか、俺にはわからないからだ。

 そういう人が多かったのか知らないが、ともかく今、金融関係は全く人がいない。開かないシャッター、金庫がそこここにあるだけ。

 手薄になった金融支店にゾンビな肉体ということで銀行強盗も勿論流行った。流行ったが、お互いにゾンビなものだから初めのうちは泥仕合だった。数年も経つと金を使おうにも流通が止まって商品がないものだからあっさりと金を出す、様式美の流れとなっていった。

 先の銀行員の友人なんか、もう来てくれたらお客様で良いんじゃないか、と言って、強盗相手にも通常の引き出し手続きと同じように領収証を発行していたらしい。大概おかしな奴だった。来てもらっても出せる金はもうないからお茶出してるんだわ、2回に1回は殺させるんだがな、と豪快に笑う彼にエリート銀行員の面影はもうなかった。しばらくして失踪したが一体どこへ行ってしまったのだろう。その図太さならどこでもやっていける気がするが。

 そんなに図太くない俺は一体どこへ行ったら良いのだろう。


 ※


「それで嫌になって、けどここまで続けたものを休むのも踏ん切りがつかなくて、俺のところにサボりに来たって訳か。」

「営業の挨拶回りってやつだよ。」

「もう仕事止めちまえ。」

「ほっとけ。」

 そういう訳で、山手線田町駅近くの高層ビルに俺は来ていた。オールバックに垂れ目の男、木戸は大足を開けて応接室のソファに座って、鼻を鳴らす。

「営業も何も、工場も何も動いてない癖によく言うよ。近くを通ったってのは嘘だろう?」

「いや、今日は本当だって。」

 ちょうど近くを通ったからというのは営業の訪問の常套句なわけだが、本当にそうなのは珍しい。

 この高層ビルには船舶の開発会社ニューロン社、こんな名前で外資系企業ではない、数少ない組織としての形式を保っている企業が入居している。今は国営企業というのだろうか、この国の海はこの会社が取り仕切っているらしい。具体的な業務は俺にはわからない。とにかく思うのは、この国の企業なら弊社のように漢字を使って、和の雰囲気を出して欲しいことだ。

 別にこの会社と取引がある訳ではない。船舶、大型船用の機器というのは海洋国家の技術と歴史もあるため気軽に参入できる分野ではないのが一因で、そもそも船舶専門の別部門があることが二因だ。つまり将来的な需要にも全く期待出来ない。こんなところに足繁く通っていると上司にバレたら大目玉だっただろう。

 ならばどうして通っているのか、ここに勤める友人に会えて、ついでにコーヒーをもらえるからだ。こういう企業でもなければ今時コーヒーも安定供給出来ない。

「これ飲んだら帰れよ、俺は忙しいんだから。」

「そんなことを言っていつも付き合ってくれるじゃないか。時間は腐るほどあるんだしさ、身体が腐らないせいでさ。」

 かなり上手いジョークなのではないか? この身体になってから時間を無駄遣いすることに関して抵抗がなくなったように感じる。忙しいなんて、最後に感じたのは何時だっただろう。

「今日は本当に時間がないんだって。」

 就活生が憧れの目を向けていたこの会社は今や島国に必須な足、船とその運行を取り締まって成り立っている、使命感と少しのコーヒーでつながった企業。つまり非営利組織。

 その上、先言ったように急ぐ必要がなくなった身だ、短納期で吐きながら働くなんてことする必要はないらしい。

 従業員の数が減っているように見えないから、きっと人手が減ったというわけでもないのだろう。

 そんな企業が、忙しい?

 営業の勘が高い価値の匂いを感じ取り、俺は質問を続ける。

「時間を気にするなんて珍しい。在庫もあるんだろう、それで対処出来ないレベルってことは、重大任務のある大型船でも注文されたのか?」

 黙り込む彼の、あまりに真剣な様子に貴重なコーヒーを吹きそうになる。

「このご時世に嘘だろ?」

「あーもう。」

 木戸は言うか言うまいか葛藤している。

「言っちゃえよ、俺に言っても広める力なんてないからさ。」

 これは失敗だったらしい。突然職場に来ても対応してくれるイイ奴だったのを忘れていた。

 彼は友人の自虐ネタを聞いて反応に困っている。

「やっぱり話すのは無理だ、いくらお前相手でも。」

「そういうことなら仕方ないな。」

 ちゃんと引くべきときに引けるのが良い営業だ。

「どうしても教えてくれないかな?」

 営業の成績はお世辞にも良くなかった。

「帰れ。」

「えー。」

「えーじゃない。

 第一、知りたいならうちの会社に入社、転職すれば良いじゃねぇか。」

 このところ彼はこうだ。

「前も聞いたよ。そんなに人手不足なのか?」

「人手不足は事実だよ、今の御時世、働く気力がある奴なんてそういないからな。お前みたいなクソ真面目でもない限り。」

「どうも。」

「でもな、それ以外にもな、俺はお前に知ってほしいことがあるんだよ。」

「急にどうした。」

 冷静な態度を崩さない彼が頭を抱えるのを見たのは、この長い付き合いで2回目だ。

「お前とは長い付き合いだ、黙ったままなんて耐えられそうにないんだ。」

「じゃあ今言っちゃえよ。」

「それは社外秘だから駄目だ。だからお願いだから社員になってくれよ。」

 こいつ、

「面倒くせぇなお前。」

「お互い様だろ。」


 ※


 30分後、私は元気に自転車を走らせていた。

 大学時代から例の日を通って、もう何十年も友人付き合いしてるのだから、機密でも関係なく教えてくれても良いではないか。

 大人にあるまじく拗ねてみせる、まさか自分にこんな心が残っているとは思わなかった。

 目的地の東京駅、大手町はもうすぐだ。あそこはいつも汚く異臭がするから、あまり近づきたくない。以前なら大首都の中心と持て囃され、そこに勤めていることがステータスだった訳だが、今はどうだ。

 オブラートに包んで言うと、人体の研究家ばかりの街になってしまった。あの誇り高い大都市の様相はもう面影しか残っていない。

 彼らも自分の好きなように振舞っている結果だとはいえ、嫌悪感が止まないのは仕方ないことだろう。

 もう見えてきた、年々街が広がっている気がする。研究家の数が増えているのだろうか。

 こんな長い生だ、死んでしまいたいくらい嫌なことなんて山ほどあるだろう。

 ぱっくり割れたざくろを、頭蓋骨を慎重に避けながら進む。踏んだら脂肪でタイヤの痛みが激しくなってしまうから慎重に避けなくては。

 先言ったように、ここ大手町は全国のエリートサラリーマンが集まるビル郡から、自殺の名所に変わっている。

 老若男女のざくろが重なって進みづらい。この光景に慣れてしまったとはいえ、人間の肉というのは未だにおぞましいものだ。

 もう自転車をおりて押していった方が良いだろうかと一瞬だけ考えるが、この地べたを歩きたくない思いが、滑って転けるリスクより勝った。

 この破片の彼らは、夜には元に戻る。果たして何もなかったかのように、家に帰って眠れるのだろうか。彼らの行動原理は永遠の今生への絶望の他に、もしかして、こうして職場のあった場所で脳漿をぶちまけてることで出勤時間を無意識に再現している、のかもしれない。

 無意識という言葉は便利だ。あたかも本人では気づいていないだけで、反論の余地はない事実を指摘しているように装えるから多用していきたいところ。


 ※


 高層ビルの飛び降り自殺の群れが出来る前、俺がまだ会社員であると言えた頃、人類が致命傷となれる怪我を探していた時期もあった。世界の裏側の暑い国が永遠の殺し合いに入ってからだから30年前かもっと前か。

 まだあの戦争は続いているのだろうか。人種差別や先祖の死体で積み上げられた焚火に飛び込むゾンビたち。彼らのリーダーがぶち上げた、無限の兵士、アンリミテッドブレイブワークス等々、まるでゲームのような情熱的な演説が思い出深い。

 永遠に生きるというのはつらいことだと、ある宗教では言われている。この国の価値観もそちらに近いのかもしれない。だから辛くなるのだろうか。

 それに関係があるのかはわからないけれど、人体の負荷実験なんていう、国家ぐるみのえげつない実験が露になった日も意外と反応は静かなものだった。

 それどころか、負荷実験の被験者がアルバイトの定番となったときはたまげたものだ。あんな、太ももをごりごり斬られて、ショック死するか観る、だとか、失血死するまで放置される、だとか、あんな苦痛のあるメニューを小銭の為に受けるなんて、俺にはとても出来ない。貧乏すぎて彼女に振られた大学時代だったら考えたかもしれないが、やっぱり出来ないと思う。

 何故そんなに詳しいのか、もしかして研究員だったのではないかって? 今はうだつの上がらない男が実は過去すごい研究に携わっていたかもしれない? 夢は捨てた方が良い。

 俺は研究員でも何でもない、研究員が何やらぽちぽち動かしている機械、あれらのシステム設計から機器納入をしていただけだ。

 機械を使うのは研究員の仕事だが、目的にあった機械を作って、使えるよう設計するのはメーカーの仕事。だからメーカーの営業マンである俺は、その「研究」の内容を詳しく聞く必要があった。

 聞いたのを激しく後悔したがこれも仕事である。

 しかもその時、ランチミーティングの形式を取っていたのだからなお悪い。

 例の日から少しだけ経ったあの日。私達人類がまだ人間離れしていなかった頃、食事は嗜好品と化していた。流通がまだまともだったおかげもあるだろう。

 食物の希少性は加速的に上がっていたこともあって、食べるという行為は豊かさの象徴と持て囃されてた。家庭菜園を始めて、終いには好物の果物が実る地域に旅立っていった同僚もいたくらいだ。彼はいくらでも人生が無駄遣い出来る身は最高だと言い残していたっけ。

 だからそういう訳で、客先で昼食を用意してくれると言われた時、喜んでもうなかなかお目にかかれない肉料理を頼んだわけだが、まさかこんなえげつない内容を聞かされることになるとは。

 通りで客先の研究員は野菜や魚料理を頼んでいたわけだ。このハンバーグ、一体どうしたら良いんだろう。

「研究の意図をご理解いただけましたでしょうか。」

「はぁ、ええ。」

 ため息のような相槌を打ってしまい、慌てて取り繕う。

「自分たちの身体なのに不老不死となった原因が全くわからないというのは異常に過ぎます。」

 それはその通りだ。

「だから解明しなくてはならない、ただそれだけのことです。どうか、ご理解ください。」

 白身魚のムニエルを頼んだ研究員、野口氏は言った。彼は生体工学で有名らしく、客先で役職こそないが彼を抑えておけば今日の仕事は終わったと言える程の発言権を持っている。

 俺個人としてはやけに哲学的な科学者としか認識出来ていない。

「そんなに思い詰めなくとも。我々は人を元の形へと戻すだけです。」

 甲高い声をあげたのは佐久間氏、声に似合わず大柄な髭の濃い男性でシーザーサラダを貪っている。この発言でわかるように、人体原理主義者でこういった研究の推進派らしい。

 俺の仕事的に見ると、今回は発言権は弱いが繋がりを作っておけば後々、他の人を紹介してくれるかもしれない、といったところか。

 個人的な意見が前面に出ている人物を研究の場に加えて良いのかと俺なんかは思うのだが。こういう科学者が、こういう人格の持ち主が思い通りに事が進まなかったらどう行動するのか、わかりそうなものだってのに。何より、髭にドレッシングが付いたままなのが気になって仕方ない。

「元の形って、外見は変わってませんよ?」

「中身や性能の話だよ。わからないなら黙ってた方が良い。」

 素っ頓狂な質問をしたのが小柄な若い眼鏡の女性、戸部氏、オニオンスープとパン。それを不適切な言葉でフォローしたのが初老の軽そうな男性、山崎氏、エッグスクランブルとレタスのサンドイッチ。

 どれも美味しそうでヘルシーなメニューだ、ハンバーグと取り替えてほしい。

「箸が進んでいないようですが、どうかされましたか?」

 佐久間氏が問いかけてくる。人体実験なんて素人には刺激が強すぎるってことを彼は覚えていないらしい。

「お話に夢中になってしまいました。いただきます。」

 冷めて味のしない好物を頬張る。

「それは良かった、お加減が優れないのかと。」

 野口氏はさりげなく水を注いで手渡してくれる。

「あぁ、どうもありがとうございます。」

「で、どうなんですか。出来そうですか?」

 戸部氏は若者らしい早急さで答えを求めてくる。人体実験の内容だけで、そもそもの質問、何を求めているのか言われた覚えはない。なのにこうやって答えを求める目を向けてくるのは、彼らの知能が高すぎるせいなのか、天才と何かは紙一重なのか。

 ここでわからないと正直に問い返すのは馬鹿がすることだ。

「そうですね、上司からはこの事業については重要事項とするようにと仰せつかっております。」

 だから少しだけ情報を開示して場を誤魔化すことにした。

 おそらく、質問の答えそのものでないと感じて、戸部氏は不満を抱いたのだろう。明らかにこちらを小馬鹿にした視線を寄越す。

 対して、野口氏、佐久間氏、山崎氏は注視する視線を止めない。この言葉に期待を持てるというのは彼らの年の功だろうか。

「つまり、貴方がたは我が事業に、技術面も含めて全面協力してくださるということでしょうか?」

 ここでの貴方がたは会社全体を指しているのだろう。例の日までは4万人を有していた企業への信頼はまだ厚いようだ。内情を知ったらひっくり返るだろう。

「私どもの部署として貴方がた技術省の、」

「社団法人エネルギーコンサルタントと呼んでいただきたい、国の色が濃くなると上がうるさい。」

「はぁ。」

 それはアルバイト募集のチラシに、国がやってるから安心!とか書いてある時点で手遅れではないか。

「あ、略称のエネコンで結構ですよ。」

 如何にもピントがずれて滑稽だ。

「どうも。えぇとですね、私どもは部署として、エネコン様からのご注文、ご要望を優先して対応致します。ですが、営業時間の関係もございますのでそこはご了承ください。

 営業担当として私が専属として対応致しますので、お困り事があればご連絡を。」

 やんわりとNoを言える営業マン。ここでYesと言ったら、グループ全体の技術を使ったスーパーコンピュータを作って、とか言われても反論出来ない。それは駄目だ。

 残業が嫌なのではない。そんな技術も機械ももう、ないだけだ。

 代わりに山崎氏からは失望の視線を頂戴した。初老の方らしく営業への不信感が強いらしい。

「それなら貴方がたの力を借りずとも良いかもしれませんね。我々の中には機械も弄れる人間はおりますし、他からもお話しをいただいておりますからね。」

 山崎氏はこちらを見据えて言う。こんなにはっきり、嫌悪感を出す人も珍しい。

「私どもだからこそお役に立てる部分も多いのではないでしょうか。例えば、乗るだけで体内の断面図まで表示できる体組成計。これなんか実験の前の作業をぐっと減らすことが出来ます。」

「情熱は買うがね。」

「他にも効率化を図れる部分が多々あるかと。よろしければご提案を次回、まとめて来ますよ。」

「そうなのか、うん、提案だけなら。」

「ありがとうございます。」

 上手いこと納めたようで茶番である。

 例の日以前ならいざ知らず、就労人数が急速に減少する中で、顔見知りばかりになっていく仕事で、主要競合他社からの営業がないことは確認済みだ。

 しかも実験の効率化、機械化は上司経由で野口氏から相談を受けたもの。こんなやり取りしなくとも、弊社がこの仕事をやることは決まっている。

 このご時世で、これも談合といえるのだろうか?

 今日はただの顔合わせ。来週からの技術検討が本番となる。

「それでは来週同じ時間に弊社会議室に来てくださいますか。本格的に実験の概要をお話しします。」

「承知しました。」

 意地で完食したハンバーグの最後のひとかけを飲み込みながら、俺は野口氏に返答する。

 彼の俺を見る視線は幾分柔らかなものがあった。どうやら話は聞いてもらえるらしい。

 ぐるりと見渡し、4人の科学者を見る。こういうプライドの高い人間は1回下に見ると絶対に人の話を聞かなくなる。野口氏、山崎氏からはそれだけは回避出来たようだ。

「これからもよろしくお願いしますね。」

 あぁ、握手か。いきなり予想してなかった動きを野口氏がして、驚いてしまった。

「えぇ、何卒よろしくお願いします。」

 両手で握った彼の手は、私と同じように鼓動が感じられない冷たいものだった。身体の状態は今日も静止している。

「すごいですね。」

 エレベーターホールまで歩く間、野口氏に何とは無しに私は話しかける。

「何がですか?」

「この研究が成功すれば、野口さんは例の日を解き明かした最高の科学者ですよ。すごいじゃないですか。」

 今から思い返すと阿呆っぽい言動だが、当時は本気でそう考えていた。彼らとの縁が切れた今でも考えは改めていない。

 一瞬、野口氏は私を射殺さんばかりの目で見た。瞬きでその光は消えたものの、それは印象を変化させるには十分な時間だった。

「違いますか?」

 声色を少し低くして念を押す。機械の納入だけとはいえ研究に会社の名前が入る以上、下手なことを考えられては困る。こちらに関しては今は色褪せた考えだ。

「それは。」


 ※


 あの時、野口氏は何と答えたのだっけ。頬杖がずり落ちて、机にぶつけた額を撫でながら俺はため息をついた。不老不死だろうと痛いものは痛い。

 久しぶりに行きつけだったカフェでサボっていたらこれである。やはり真面目にやらないと罰が当たるのだろうか。

 カフェとは名ばかりの廃墟を俺は見渡す。知らない人と話し、木戸もいつもと様子が違う。なら今日こそはここでまた誰かに会えるかと思っていたのだけれど、見当違いだったらしい。

 雑誌に何回も掲載され人気だった喫茶店は、今日も誰もいない。相変わらず埃は分厚く、机の上を白く彩っていた。ここにホースで水をかけたりなんかしたらさぞ綺麗になるだろう。

 懐かしい夢を見たなぁ、と俺は椅子に座り直した。木の椅子が数年ぶりの客の体重に不吉な音を立てて軋む。

 まだ日は高い、とはいえもうやる気が全然出ない日だ。今日のところは様子見で明日本格的に直せばよいだろう。時間はたっぷりある。今の俺は働いているふりが出来て、自分が誤魔化せれば良い。

 夢の中のしっかりと働いていた頃の俺とは大違いだ。

 あの頃は会社も国も元気だったおかげで需要もあった。上司もいて、彼らが先を見て人を動かしていた時代だ。だから俺一人になった以上こうなるのは仕方がない、はずだ。

 言い訳と一緒に、国の為に働いているんだ、と誇らしげな木戸の顔が浮かぶ。そういえばあの表情を最近見ていない。例の日以降、しょっちゅう見ていたむかつく顔だったのだが。思い出して腹が立ってきた。

 どうせ思い浮かべるなら女性の顔が良い。例えば今朝会ったコートの彼女のような美人なんかが最適解だろう。

 彼女は今頃どうしているのだろう。身体は戻った頃だろうか。

 さっきの一幕のような出来事はさほど珍しいことではない。

 何回もあった。道端でうずくまる人、突然目の前で泣き崩れた人だっていた。今朝みたいに手を差し伸べたことだって、この両手の数よりは多い。それでも何も起こらなかった。ありがとう、はい、さようなら、ばかり。夢のような、めくるめく冒険の日々へ手を引いてくれる人は未だいない。おかげでそういったことへの憧れは益々つのっていくばかりだ。

 物思いに肘をついた机の端が割れて、また額をぶつける。先ほどもずり落ちたのではなく机が朽ちていただけだったらしい。

 そろそろ仕事に戻れということだろうか。このままここにいても誰も来ることはないだろう。収穫は額にささくれが大量に刺さっただけだった。なんと素敵なアクセサリーだろう。

 無造作にささくれを引き抜いている間も、ぼとり、ぼとりと相変わらず外ではの落ちる音がする。おかげでカフェ自慢のテラス席は使えたものではない。あんなものを見ながらコーヒーを飲みたいほど、まだ人間性を失っていない。

 ざくろが落ちるのは昼休みが終わる時間に合わせてだろうか。なんて嫌な習慣だ。

 ため息をつきながら木戸が持たせてくれた水筒のコーヒーに口をつける。貴重なコーヒーは有難いが情けない。錆びていない水筒も今や珍しいっていうのに、本当に彼はイイ奴だ。

 上からの落下物と情けなさで、間違っても飛び降り自殺に引き摺られないよう、もう1時間休んで行くことにした。時間を節約する必要なんてないのだから。

 こういう時、煙草に火をつけたりして見せたら格好がつくのだろうか。健康を害する心配も税金もなくなったから始めたいところだが、もう売ってないことだけが問題だ。

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