ウォーキング・デッド・ライク・ウォーク 人類は全員残さず不老不死になった後の細々とした抵抗

小早敷 彰良

第1章

1話目

 満開の桜を見た。懐かしい人と一緒にいた。

 桜の木の下に死体が埋まってるからあんなに綺麗なのだ、と懐かしい彼女は言った。

 もうこの世に死体は一体もない。死体が増えることもないから、それは間違いだよ、と俺は返した。

 何を言ってるの、人が死ぬのは当たり前でしょう?

 彼女はそう言ってクスクス笑った。こうやって人の言葉を否定する人だったと俺は思い出す。

 やっぱり、これは夢だ。

 今、この世界で人が死ぬことはない。

 ある日突然、全人類は不老不死となった。

 そのことを、自由に生きるため俺を置いて行った彼女が、知らないはずがない。


 ※


 そこで俺はベッドから転げ落ちた。30cmの高さからの落下はかなり痛い。右肩から落ちた所為で右腕全体がしびれている。利き手が使えないと仕事に支障が出るからやめてほしい。

 今日も目を覚ましてしまった。六時半を指した目覚まし時計を止める。社会人としては平均的な起床時間、大学時代は午前中に起きた試しがなかった。

 カーテンを開け、けだるい身体を起こして伸びをしてみる。

 今日はいい天気だ。窓から見える桜も満開で、春爛漫といったところ。このまま会社に行かずに公園にでも行こうか。一生懸命働くのは何のためだったっけと、晴れた日には考えてしまう。一緒になりたかったあの人を食べさせるためかこの国を支えているという使命感か、生きるための仕事かお金か、どれも何年も前から意味はない。全く最高な世の中だ。

 顔を洗って、スーツに着替えて、一回布団に戻って、温まりながらたっぷり三十分悩んで、今日も出勤することにする。今日もいい天気だし、この慢性的な貧血状態以外は健康な身体をもっと有効活用しても良いだろう。

 今のご時勢、行こうと思えば宇宙でも行けるだろうし、元上司のようにもっと面白い仕事を求めて世界中を飛び回る生活をしてもいいはずだってのに、出勤するのかお前は、と囁く自分はいるがそこは無視をする。それを言ったらきりがない上に俺はまだ自分が何をしたいのか知らない、そういう時は現状維持をすれば一番無難だ。そうやって私は生きてきた。

 外に出たら日差しに目が眩んだ。今日は本当にいい天気だ。見上げた拍子に目が眩んだ。

 数年前のあの瞬間、あの気持ちのよい昼下がり、立ちくらみで一寸くらっとしていたあのときによく似ている。

 例の日、世界は変わってしまった。人間は永遠の地獄に落とされたのだと俺は思う。今が最高と友達は言うけれど、高熱に浮かされているから幻覚なのだとも思う。心配して毎週末様子を見に行く身にもなってほしい。病人の癖して毎日同じ場所にいる訳でないのもやめてほしい。書き置きくらい残してくれてても良いじゃないか。友達じゃないと認識されているようで、実際そのように振舞われるのが悲しい。

 出勤中、自転車を走らせながらぶつぶつと文句を言う。人が通りかかればさぞ不気味だろう。

 例の日からしばらくして、自転車通勤に切り替えた。来るかどうかわからない電車なんて待っていられない上に、出勤すると決めたなら遅刻はしていられない。

 ロードレース用の良いバイクらしい、俺には過ぎた宝は今日も軽快に車輪を回している。日の光だけでなく風まで気持ち良い。次の休みは土日にしようか、いつかみたいに自転車で多摩川沿いを延々に下ったらどんなに気持ちが良いだろうか。

 そういえば、このあたりの道も昔に比べてずいぶん古くなってきた。道路の亀裂をよけながら進む。パンクなんかしたら一大事だ。

 コンクリートの劣化年数はどれくらいか、道の保全は誰に頼めば良いのか、わからないことが多すぎる。こういう、他のことに気を取られているときに事故を起こすのだろう。

 どうせ事故を起こすなら知的美人と電撃的に出会うきっかけとなれば良いのに。

 と、いつもと同じ結論に至ったところで職場に到着した。脳内活動だけ動く身体のはずなのに、なんでいつもこの結論になるのだろう。

 やっぱり、脳細胞の動きも止まっている身体活動に入るのだろうか。いまいち判然としない。政府が詳細を公表してくれないせいにしよう、と己の煩悩に蓋をする。

 家から職場まで一時間半自転車を漕いでも疲れひとつない身体。

 今日も相変わらず世界中の人間の時間は止まっているようだ。

 例の日から世界中の七十億人は残さずゾンビとなった。かといって肉体が腐り始めたとか、人を噛むとかそう言ったことではない、人間は呼吸も食事も一切、一斉に必要なくなったというだけだ。

 汗もかかないし疲れない、あの昼下がりの瞬間の体の状態が人類全員今まで続いている。

 若者は若者のまま、老人は呆けたまま、俺は貧血でくらっとしたまま。

 何であの一瞬だったのか、本当に納得がいかない。俺は貧血症でも何でもない、ただ会社の健康診断で採血されたその瞬間だっただけだ。間が悪いにもほどがある。

 今日も風邪で高熱の友達、さっき話した俺を友人と思っていない彼よりはましだが、不快には違いない。

 おかげで、元上司や他の世界中の人たちみたいにゾンビ化をはしゃぐことが出来なかった。

 飢えることはない、というより空腹を感じることはないし疲れも感じない。望めばいつまでも遊べる、どこへでも行ける身体を皆が手に入れた。はしゃぐのは無理のないことだとは思う。

 だから最初に皆がしたことは、仕事や勉強、嫌なもの全部を辞めることだった。

 状況が理解できた順番に、毎日話していた同期のあの子もよく一緒に飲み歩いていた先輩も、何も言ってくれずに会社からいなくなっていったあの一年を今でも覚えている。

 好きだった、優しい人たちはみんないなくなってしまった。所詮会社での付き合いだったってことだ。もう電気も限定的にしかない今となっては連絡手段もない。

 何が一番堪えたか。その人が、いなくなることを話したりお見送りされたり、連れて行きたいと思うような人になれなかったことが悲しい。

 貧血の他に、この悲しさで動けなくなる日がある。俺も会社なんて行きたくないし、どこかへ行ってみたい。

 けれど唯一残った仕事という繋がりを切る勇気がない。

 なんで好きなところへ行かないの、こんな素敵な状態がいつ終わりが来るのかもわからないのに仕事に時間を使うなんて、そんなに仕事が楽しいの? と問いかけられたのは何年前のことだったか。

 問いかけた先輩はその次の日にいなくなった。きっとゾンビ化の前から常々言っていたように南国のどこかでひなたぼっこしているのだろう。

 楽しいのか、この仕事は。わからない。


 誰もいない事務所、品川の高層ビル、8階に到着した。ここが俺の会社の事務所だ。

「おはようございます。」

 今日も返事はない。そりゃそうだろう、もうここで働いている人は私しかいないのだから。

 新調出来ないカレンダーに何週目かの印をつけながら、今日の業務の準備をする。こうしないと何日経ったかわからなくなる。

 曜日感覚なんて三年程過ぎた辺りでなくなってしまった。勝手に五日働いたら二日休みということにしている。今日は三日目、暫定水曜日。元々は機器メーカーの営業をやっていたけれど、今は機器の修理ばかりしている。動いている工場がとても少ない上、流通も止まっている今、新規部品がとても貴重なのが悪い。

 仕事中はスーツより作業着の方が便利なのだけども、習慣でスーツを着てしまう。スーツも貴重だ。俺の身体はどうでも良い、怪我なんて直ぐに元に戻るけれど、スーツや道路は古びるのだから優先順位でいったら身体の方が下になってしまう。

 何やらどんどん思考が人間離れしていっている気がする。

 初めに、パソコンが起動して今日の顧客リストを確認する。弊社製品の納入されていて修理が必要な場所の一覧は問題なく表示された。次に、今日もパソコンも顧客リストも動作することに安堵する。この二つが仕事始まりの一連の儀式だ。

 この地域の電気がまだ使えて、地磁気による位置取得が問題なく、顧客リストが更新される、その事実が嬉しくて仕方ない。きっと世界のどこかには俺みたいな、踏ん切りがつかなくて働いている人がまだいるのだろう。インフラの維持に顧客リストの更新、情報サーバーの更新、いったい何人が関わっているのだろう。いつか会いに行ってみたいものだ。

 今日の顧客は一件だけだった。春の時期にはとても珍しい。黄砂や冬から春の寒暖差で傷んだものも増える時期だってのに、

 早めに済ませて帰ろう。こんなに気持ちが落ち込む日は、出来るだけ何も考えたくない。帰って茶でも飲もう。

 さっきからいなくなった人のことだとか、暗いことばかり考えているけれども、毎日これなわけではない。今日はなんでこんなに暗い気持ちになってしまったのだろう。鬱は脳内のタンパク質のせいだという本をいつか読んだ気がするけど、俺の脳は変化していないはずだし原因はタンパク質ではないのだろう。

 高熱のかの友人にそれを言うと、脳内細胞が動かったら新しい知識を獲得出来るはずがない、この世界でも脳細胞だけは動いているはずだ、とかいう話になる。難しい話は頭も気分も重くなるからやめてほしい、と何回言ったことだろう。

 彼みたく、この七十億人総不老不死現象(正式名称だ)を研究している人は今もいるのだろうか。

 例の日から連日、数年間は研究の様子がテレビに流れていた。報道網が崩壊してから長い時間が経つ、研究結果が私の手元に来る日はもう来ないだろう。友人の彼は元々文系で、最近、精神世界とはとか言い始めたので期待できない。

 自分の身体がどうなっているのかなんて永遠にわからないというのは何とも不思議な気分だが、難しい話は高熱が出ている人に任せて私は早く寝てしまいたい。この逃避の姿勢がどこにも行けなくて、誰にも誘われない原因なのか。また嫌なことを思い出した。

 事務所から出て、また8階までの階段を降りて、やっとのことで自転車の荷台に工具を括り付ける。疲れないとはいえ面倒な作業だ。

 この身体でも、自分の筋力の限界を超えて運べたりはしない。その点では例の日があの日で良かったと感じる、老いた身体ではこう動き回る仕事は出来なかっただろう。慎重に厳選した適当な工具と部品を持って出発する。今日の現場は都心部にある。

 正直に言うと、仕事には数本のベルトにさせるような工具さえあれば事足りる。

 それ以上の故障は俺の知識と技術ではどうにもならないからだ。実を言うと私は例の日、入社二年目だった。その時点の知識と職場に残された資料の付け焼刃で機器修理を行っているのだから、なんなら自転車の点検修理のほうが上手いかもしれない。

 本来の職場だったなら一瞬でクビだろう。規格外の部品どころかその辺に放ってある自動車や機械をばらした部品を使って修理しているだなんて、始末書何枚分になったのか。大企業らしくコンプライアンスにはうるさかった。

 仕方ないじゃないか、俺は元々法学部出身なのだから、むしろ修理出来ていることを褒めてほしい。先輩方が聞いたら確実に怒鳴るだろう言い訳を頭に浮かべる。それが当然と目されるくらいこの国の技術系のこだわりは尋常じゃないことは知っている。きっと理系出身や技術系の会社関係各位には共感してもらえるだろう。こだわることには長所も短所もある、ようはパワーバランスが大事なのだとあのときは常々考えていた。この考えがあっているのかどうかはもうわからない。

 今となっては全部意味のないことなのは確かだ。

 目的の場所はかなり遠い。直線距離なら事務所のある品川から大体一時間くらいだろうが道がかなり入り組んでいる。都心方面へのアスファルトがまだ駄目になっていなければ少しは楽につけるだろう。

 こういうとき地下鉄がまだ生きていればと心から思う。この辺りは道が細々して不便な分、地下鉄が縦横無尽に走っていた。あの時は遅延や煩雑さに文句を言っていたがいざなくなると辛いものがある。

 鉄道網がなくなる直前、素人電車が多く走っていた。電車が好きで、電車の運転がしたかった人たちが運転していた時期、まともな車掌が仕事が嫌になり、いなくなった穴を埋める形で素人電車は運行していた。

 おかげで、今となってはまともな車体は残っていない。そういえば飛行機も素人飛行機が話題になっていたのだけれど、あれは一体どうなったのだろう。どれもこれも大騒ぎだったことだけは知っているのだけれど。

 こうやって自転車を走らせていても、人はほとんど見かけない。

 地域が地域だからだろうか。確かに都心はオフィスだとか嫌なことを思い起こさせるものが多すぎる。どうせ永遠に生きるなら、とコンクリートジャングルを選ぶ人は稀なのだろう。

 だから、人を見つけたときはいつい目で追ってしまう。

 その人は同い年くらい、二十代の女性だった。高身長でルックスも良い。髪は長くて後ろでまとめている。季節はずれの丈の長いコートが暑そうだ。

 それ以上に目をひいたのは、頭から大量の血を流していることだった。

 血を流している人というのは案外珍しくない。身体が不死だからと無茶をする人は多い。

 何らかの嫌なこと、記憶に耐えかねて、疲れて、死にたがる人も多い。特に都心のこういう高層ビルなんかだと、毎日何十人も飛び降りている。一日で身体が元に戻る以上、意味がないことであるし、痛み自体は感じるというのになんだってそんなことをするのだろう。眠れはするのだから、一日中寝ている方がましなのではないだろうか。今なら空腹を気にせず永遠に眠り続けることが出来るのだから。

 こんな街で血を流している彼女もそんな、絶望した一群の一人なのだろうか。美人が勿体無い。


 彼女の容姿はは美人の一言に尽きた。艶やかな長い髪に鼻筋の通った意志の強そうな貌。こういう人に叱られたいという願望はかなりの支持を得られるのではないだろうか。

 視線に気づいたのか、彼女はこちらを見た。そしてとんでもなく驚いた顔をする。

「そっちには近づくな、馬鹿! 」

 いきなりのご挨拶だ。

 辺りを見渡しても俺以外には何もいないし、危なそうなものも何もない。見えるのはいつもの高層ビル群のみだ。

 もう一度彼女のほうを見ると、怪我をした状態で大声を出したからか、へたり込んでしまっている。このまま通り過ぎても良いのだけど久しぶりの、自分に声をかけてくれた人間だ。見過ごせない。

「どいうお、な。」

「え? 」

 久しぶりに初対面の人間へ声を出したせいで上手く話せないことに赤面する。そういえば最後に、知らない人と話したのはいつだっただろう。声の音量調節すら上手くいかないなんて。

「もしかして、お前も発狂しているのか。ならそのまま行け、いってくれ。」

「いあ、まて、だいじょーぶ。」

 何度か発声の練習をしてから、まだへたり込んでいる彼女に向き直る。

「数年ぶりに初対面の方とお話ししたものだから、話し方を忘れていただけです。」

「頭はまともにしても、十分おかしいじゃないか。」

 確かに仰る通り。第一印象を躓いたせいで彼女はこちらへの警戒を緩めてくれない。近寄ってみればなかなか気の強そうな顔立ちをしているから、元々の性格もあるのだろう。

「その怪我、どうしたのですか。」

「殴られた。警察を呼んでもこないし、どうなっているんだ東京は。都市機能がまるで残っていない。」

 この一言だけで、この人が今までどこか、世間から離れたところにいたとわかった。

「都市機能が失われてからもう何十年も経っています。別に殴られても問題はないでしょう、この身体です、一日もすれば元に戻ります。」

 とはいえ、血まみれで放置するのも良心が痛む。手元の布を裂いて彼女の頭に巻きつけてみる。機器の油だとかをぬぐうための綺麗な、貴重な白い布だ。少し油染みが付いているが雑菌が侵入するよりは早く治るだろうし、気にせず巻きつける。不器用なものだから鉢巻みたいになってしまい、どこか応援団や軍事行動中みたいになってしまったが、まあ許してほしい。

 一連の作業中、彼女はとてもおとなしくしていた。いや、話してはいたようだが全く聞いていなかった。

「これで気持ちましだと思います、なんだったら一日休んでいくと良いです。時間は無限にあることですし。」

「いや。」

「何ですか? 」

「無限なんて、糞くらえだ。だからこんな、こんな有様になるんだ、ふざけんな。」

 彼女はいきなり激昂した。情緒不安定なのだろうか。数年ぶりに話しかけてくれた人とはいえ、関わるとろくでもない類かもしれない。

 例の日から宗教家も増えた。何かにすがりたいという気持ちは共感するけれど、ああいう度を超えた類は嫌になる。

 例えば? 海は人類の母なのだから、そこまで歩いていこう、そのために永遠と歩き続けられる足を手に入れたのだ、と海へ消えていった宗教団体とか は衝撃的だった。彼らは海底の水圧とかにも耐えて進み続けられる身体だったのだろうか。少なくとも私にはそんな力はないのでそういった類なら、食いつぶされないうちに離れるに越したことはない。この世界では時間が解決してくれる終わりはないのだから、きっと彼らは深海で水圧にずっと潰されているのだろう。

「では、俺はこれで。」

「お前はこれからどこに行くんだ。」

 男口調のその女は無遠慮に呼び止めてくる。初対面にお前とは、同年代に見えるとはいえ失礼ではないか。美人だから許されるとたかをくくっているのか。

「仕事ですよ。早く行かないと今日中に終わらないかもしれません。」

「さっき数年ぶりに人と話したって言っていたよな、仕事って何をやっているんだ。」

「機器の修理ですよ、壊れた自社製品を直してまわっています。」

「それだけか?」

 こいつは何を言いたいのだろう。

「えぇ、それだけですよ。貴女には退屈な仕事に見えるでしょう。」

 呆れたように首を振ってみせる。言外にもう黙れと示したつもりだったが、伝わっていなかったらしい。

「誰もいない場所の?」

 指摘されてしまった。

「ええ、そうですね。」

「それをして何になるんだ。誰もいない場所のものを直して。使っている人がいるわけでなしに、何のためになるんだ。」

 ああ、ついに。いつか誰かに言われると思っていた。

 自分でもわかっている。

 俺は毎日、壊れた機械を、誰も使わない機械を直してまわっている。故障の信号を自動で取得するリストに沿って、毎日自転車を走らせている。

 特に意味はない。誰のためにもならない。誰にも望まれていない。これは仕事と言えるのだろうか。

「仕方ないじゃないですか、こうでもしないと、自分の存在価値がわからないのです。」

 努めて淡々と、少しおちゃらけた口調で話す。いつもこうだ。淡々と、第三者の批判する視点で考えることでしか、自分の心に向き合うことが出来ない。そうでもしないと、感情に負けてしまう。あのビルから落ち続ける人たちの気持ちがよくわかるのに、意味がないと断じて思考を放棄することしか出来ない。

 他の道があるなら示してほしい。この気持ちを誰かに相談したい。

 いっそどこかへ行ってしまいたい。

 そんな内心を初対面の彼女にぶつけるわけにはいかない。迷惑だろうし、自分が恥ずかしいから。

「ああ、そうなのか。聞いて悪かった。」

 彼女は案外あっさりと引いた。

 本当は引き止めてほしい。もっと貴女と話してみたいのに。

 そっちに行っちゃいけないとはどういう意味だったのか。なぜ貴女は殴られたのか。何でこの状況を、世間を知らないのか。

 俺がもう少し素直だったら、勇気があったら聞けたのだろうか。

「じゃあ、もう私も行くよ。」

 ふらつきながら彼女が立ち上がる。出血が止まっているようには思えない。

「私は急がなきゃなきゃならないんだ、早くこれを届けなきゃならないから。」

 彼女は荷物一つ持っていないのに、どういうことだろう。

「引き止めて悪かった、怪我の治療してくれて嬉しかった。」

「いえ、人として当然のことをしたまでですよ。」

 自分の口が、顔が、完璧に内心を押し殺して勝手に動く。こんな自分を殺してやりたい。

「それでもありがとう、さようなら。」

 その言葉を聞いたのは何年ぶりだっただろう。

 ありがとうもさようならも、誰にも言われたくなくて、誰かに言われたかった言葉。本当なら、去っていった全員に私から言いたかったこと。

 また昔の話を思い出してしまった。

 彼女の姿はいつの間にか見えなくなっていた。さよならを返すことすら出来なかった。いつもと同じだ。こうして、足踏みしている間に、皆去っていく。

 お願いだから少し待ってくれよ。

 女々しいことにしばらくその場に蹲って、額を地面にこすり付けて泣いてしまった。

 無様だってのに、何に対してそんなに激しく泣いていたのか、わからなかった。

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