不意打ちアドレス
あの大雨の日から数日がたった。
夕方なのは確かだが、頭が朦朧として時間はわからない。
頭には冷却シート、顔にはぬれマスク。
そう、俺は風邪をひいている。
親は仕事で家には俺一人。お粥を食べる気にもなれず、スーパーに栄養ゼリーを買いにきたのだ。
「栄養ゼリー……スポーツ飲料……」
朦朧とした頭に刻み込むように呟きながらスーパーを歩きまわる。
いつも来ているはずなのに場所がわからない……
「弁当……肉……野菜……」
並ぶ食べ物を見て気分がどんどん悪くなる、このままでは……
「忠紀……くん?」
後ろから声をかけられた。この声は……
「おお、成瀬さん」
気分が良くなった。我ながら単純だ。
「その格好暑くない? まだ七月だよ……もしかして風邪?」
「い、いや……」
ごまかそうとして声が裏返る。
「風邪……だよね?」
成瀬さんが近づいてくる。やばい
「ち、近づくとうつるから」
「うつる?」
しまった! 大失言!
「やっぱり風邪……わたしのせいだよね」
「いや、元から折り畳みじゃ防げない雨だったし……」
「でも……あ」
成瀬さんが俺の籠を覗き込む。中にあるのはスポーツ飲料のみ。
「もしかして今家に一人?」
なんだその観察眼。
……隠しても無意味か。俺は素直に頷く。
「今から家に行ったら迷惑かな? 出来る事があったらするし……」
「え……?」
何故そうなる!?
「わたしが原因の一つでもあるし、それに……」
成瀬さんは少し言い淀んだ後、少し恥ずかしそうに笑う
「お母さん仕事で……なんだか一人は寂しいなって」
どうやらあの雨の日の傷は癒えていないようだ。
色んな意味でクラっとくる頭を精一杯動かして平然とした顔を装う。
「……じゃあ、お願いしようかな」
*
俺の家に成瀬さんがいる。
大事な事なのでもう一度。
今、俺の家には成瀬さんがいる。
家に着くなり成瀬さんは俺を寝室に押し込んで
「寝てて」
と言って扉を閉めた。
「寝れるかよ……」
ポツリと呟くと同時にノックの音。
「……起きてる?」
「起きてるよ」
「たまご粥くらいなら作れるけど……食べれる?」
「うん、凄い腹減ってる」
食欲の無さは何処へ、本当に単純だな、俺。
「じゃあ作ってくるね……あ」
成瀬さんは気づいたように振り向く
「楽になっても今週のライブは休んでね、治りかけが一番怖いんだから」
「うん、そうする」
「二人にはわたしから連絡しておくね」
部屋を出ようとする成瀬さん。俺は慌てて口を開く。
「大丈夫。彩音さんにもう連絡してあるから」
俺がそう言った瞬間、成瀬さんの手が止まった。
「そういえば彩音の連絡先知ってたんだったね」
「うん、マネージャーになった時に」
「不便だから入れとくわね」とか言いながら勝手に連絡先に登録たのだ。
「そっか……あ、作ってくるね」
そう言って成瀬さんは部屋を出た。
*
広くない、安い賃貸だから台所の音がここまで聞こえてくる。
食器などの音に混じって聞こえてきたのは成瀬さんの鼻歌。これは……
「カノン……」
パッヘルベルのカノン。俺にとって馴染みのある曲だ。
しばらくしてその鼻歌が途切れた後、またノックの音がした。
「起きてる?」
「起きてるよ」
答えると扉が開いて成瀬さんが入ってきた。
「とりあえずこれくらい……足りなかったら言ってね」
「ありがと」
たまご粥を数口食べてふと思い出す。
「成瀬さん、さっきの鼻歌ってカノンだよね?」
「え、そうだけど……聞こえてたの?」
俺は頷いて質問を重ねる。今は何でもいいから成瀬さんの事が知りたい。
「あの時トランペットで吹いていたのもカノンだったよね……好きなの?」
「うん、好き。お父さんが好きな曲なの」
「えっ、そうなの?」
驚いた俺に疑問の視線を送る成瀬さん。
「あ……俺の父さんも好きな曲だったらしいんだ。カノン」
「らしい……?」
成瀬さんが首を傾げた後に気付いて慌てる。
「その……ごめん」
ただ、成瀬さんの考えているような事ではない。
「父さんは死んでないよ」
成瀬さんの表情が疑問を感じたそれになる。
「……詳しくは聞かない方がいいのかな?」
いつもなら言わなかっただろう。言ったところで何かが変わるわけではない。
しかし朦朧とした頭と成瀬さんの真っ直ぐな目、それが俺を惑わせた。
「あまり気分のいい話じゃないけど……聞いて欲しい、かな」
「わたしでいいなら、話して」
俺は朦朧とした頭で記憶を探りながら口を開く
「俺が物心ついた頃、父さんは家を出ていったんだ」
「えっ……」
「離婚とか不仲ってわけじゃないよ。ただ……」
ただ、父さんには一つ問題があった。
「ギャンブル系にハマっちゃってね……結構な借金を作ったんだ」
その借金は一括で返せる額ではなく、返すと同時に利子がつく。母さんがいくら頑張っても、ほんのすこしづつしか減っていかない状態となっていた。
「そんな生活が続いていたある日、いきなり父さんはきっぱりとギャンブルをやめたらしい」
「きっぱりと……」
漏れるように呟かれたそれに頷く
「ギャンブルもやめて借金を返す。迷惑がかかるから家も出て行くって、離婚しようとしたらしい」
離婚届けを差し出された母さんは黙ってそれを破いて一言。
「更生して、借金も無くして帰ってきなさい。その時はまた愛してあげる」
「……素敵だね」
「うん……それで父さんは家を出ていったんだ」
未だに帰ってきてはいないが借金の取り立てが来たという事は無い。借金を溜め込んでるという事はないようだ。
「……じゃあ、お父さんは遠くにいるの?」
「どうだろう。あれから母さんの都合でここに引っ越してきたからな」
「そっか」
成瀬さんがスポーツ飲料のキャップを取って俺に渡してくれる。
「そのお父さんの好きな曲が、カノンなんだね」
「うん、父さんにとって更生するきっかけになった曲なんだってさ。俺の中にある父さんの記憶はカノンだけ、おぼろげながらあるんだ」
いや、むしろカノンの記憶しかない。
「なんというか……俺がわかる父さんとの唯一の繋がりなんだ」
「大切な曲だね……」
思った事を話して力が抜けたのか唐突に眠気が襲ってきた。
「ごめん、もう寝ちゃいそう」
その言葉は声にはならず、俺は睡魔に飲まれていく。
「わたしも、カノンはお父さんとの……」
成瀬さんの言葉を最後まで聞く事なく、俺は睡魔に飲まれて意識を閉ざした。
*
「……ん」
目を開けると辺りは薄暗くなっていた。
起き上がって時計を見る、夜の七時。
「寝てた……」
伸びをしていると扉が開いた。
「おはよう、忠紀くん」
手を拭きながら入ってきたのは成瀬さん。どうやら洗い物をしてくれていたようだ。
「ごめん、寝ちゃってた」
「大丈夫だよ」
成瀬さんは時計を見る。
「ごめんね、そろそろ帰らなくちゃ」
「もうすぐ母さんも帰ってくるから大丈夫、ありがとう」
「うん」
玄関に向かう成瀬さんを見送ろうと立ち上がる。身体が少し軽い、熱が下がったのだろう。
靴紐を結んでいた成瀬さんが振り向いて俺を見る。気のせいか頰が赤らんで見える。
「その、後で……携帯見て、ね」
「……おう?」
「それじゃ……おだいじに」
成瀬さんはそう言い残して足早に帰っていった。
「携帯……?」
寝室に戻って携帯を開く。新着メールが一件、知らないアドレスだ。
『件名:成瀬みのりです
彩音からアドレス聞きました。これから用事がある時はわたしにメールしてくれると嬉しいです。』
「……う」
携帯を強く握りしめる。
「うおおおお!?」
成瀬さんが俺のメールアドレスを……
熱が復活したように顔が熱くなる。元から鈍っていた判断能力が完全になくなる。
今が……近づくチャンスだ。
俺は本能に従い握りしめた携帯を操作する。
『件名:ありがとう
ありがとう、凄い嬉しい。用事が無くてもメールしちゃったりして……いいかな?』
「送信っと」
呟きながらボタンを押した瞬間に理性と判断能力が帰ってくる。
「……え」
今俺は何をした? 成瀬さんのメールに返事を……いや、なんて書いた?
送信済ボックスにあるメールの内容を何度も読み返す。そして……理解した。
「や、やってしまった」
がっつきすぎだ。コツコツ、すこしづつ外堀を埋めていくはずだったのに。
しかしその方法を実践して中学時代に得れたのは名前呼びのみじゃなかったか? いや、しかし……
判断能力を取り戻した頭がフル回転していると携帯が振動した。
新着メール、一件。
『件名: 』
件名が無い。俺は震える手を抑えてボタンを押す。
『件名:
はい、メールだといつもよりお喋りになっちゃいますけど(笑)』
「やった……」
繋がった。成瀬さんとの新たな繋がりが生まれた。
叫びだしそうなくらいの喜びを噛み締めていると携帯がまた振動した。
『件名:すいません
さっき件名忘れてました』
本文の最後にはぺこりと頭を下げた可愛いクマの絵文字。
「……はは」
些細な事ながら律儀に返す、成瀬さんだ。
でも絵文字などを使う印象はなかった、新たな一面というやつだ。
まさかここまで進めるとは……
「少し期待しちゃっても……いいよな」
いくら噛み締めても味が続く喜びが、思わず口から溢れてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます