自分を名付けること
私は自分の名前が好きではなかった。
父が芸能人の名前をそのまま私につけたと母から聞かされたからで――それは誤解だったとつい最近知ったのだが――、また、他の子のように漢字が充てられていなかったのも不満だった。文字に意味すら込められていない、他人のコピーのような名前がいやで、私は小説を書く時に、自分で自分に名前をつけた。それはそのままインターネットの世界でも使うようになり、今に至る。
母方祖父母の姓をもらい、祖父母宅近くにある、お気に入りの場所にちなんだ名をつけた。さらさらと、ささやかだけれど心地よい音の場所。そんな音を、自分の言葉で奏でられますように。
自分の名前くらい、願いの籠もったものにしたかった。
さてそんな私から生まれた息子がカードゲームのお店で、ちょくちょくカードゲームの試合に出るようになった。お店の中で大人にまじって大会に出ることもあり、大会の後で、優勝者がくじをひいて、当たった人に珍しいカードがプレゼントされることもあるらしい。帰宅した息子が夫より先に家に飛び込んできて、たまたま自分が当選してカードをもらったのだと嬉しそうに報告してきた。
「ゆうしょうした人がくじをひいたら、『ガリさん』ってよばれてね、あ、『ガリ』って名前で息子くんはとうろくしてるんだけどね、」
――ガリ。
そこではトラブルを避けるためなのか、対戦表には本名ではなくリングネームとして、自分で適当な名前をつけて登録しているらしい。
「ほら、息子くんはガリガリだから」
確かに息子は胎児の頃から先生が「えっちょっと待って計り直すから」とスケールを二度見するほど身長体重頭囲いずれも小さめで、ぶっちゃけチビでガリではあるのだけど、ガリ……。そうだね、女子から悪口をぶつけられる時に「チビ」はあっても「ガリ」はないもんね……でもガリも大概やと思うで。
我が身を表す名に(決してプラスとは言いがたい意味での)身体的特徴を表す語をつけるのか……息子よ……。
世界中の宗教はたいてい、自分たちが世界の中心であると定義づけされているそうだが、聖書は「世界の中心から外れていると自覚できた民の物語」であるのだと、どこかで聞いたことがある。
子供たちの肉体的平均値の中心から大きく外れていると自覚した息子が己を「ガリ」と称している姿に、古代の聖書の民を見た。
小学生の身空で自分に仮の名をつけた息子に驚いたし、自分を飾るのではなく、自分の名前に願いを込めるのでもなく、自分を客観的に直視した名前をつけられる息子に、正直なところ、尊敬の念さえ覚えた。
すごいわ。いや、ほんと、すごいわ。
どこかのカードショップで「ガリ」と名乗る小学生がいたらそれは私の息子かもしれないし、他の誰かかもしれない。お寿司のガリが好きでガリと名乗っているよそのお子さんかもしれない。でも、ちょっとだけ、親切にしていただけると、嬉しいです。よろしく。
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