福武書店版『空色勾玉』『白鳥異伝』のこと
私がその本に出会ったのは、中学生の、女子グループになじめなかった頃だった。
母の職場近くの書店で母を待っていると柔らかな青い表紙が目に入った。帯の惹句に惹かれて面陳されていた一冊を手に取り、最初の一文が頭の中にすうっと入ってきて数行あれよあれよと読み進めてしまい、気づくと、やってきた母に「これ買うて」とねだっていた。
母も子供のほしがる本には金を惜しまない人だったから、稼いできたであろうお金の一部をぽんと使って、私にその本を買い与えてくれた。
一週間と経たぬうちに読み終えてしまった私は「なんちゅうもったいないことをしたのか」と歯噛みした。この本の世界にずっと浸っていたい。でも先が気になるから読んでしまう。読めば終わりが来てしまう。このジレンマ。最初から最後まで繰り返し読むことしかできない現状。なんと悔しいことか。この作者は他の本を書いていないのか。
当時はインターネットなんてないから田舎の中学生には調べようがなかった。次の週末まで待ち、三十分に一本の電車に乗って、バスに乗って、同じ書店に向かった。幸い本の売り場は大きく変わっておらず、先週の本の隣に面陳されていた、黒の中央によくわからない絵の描かれた本を、母に買ってもらった。他の本はなかった。同じ作者さんが書かれた本は、その二冊きりだった。
二冊とも読み終えて、それらは私の教室での唯一の味方になってくれた。なんとなく浮いてしまった女子グループの間でも、ひとりで自席に座ってその本を開けば休憩時間は最高に楽しいのだ。誰かと会話しなければいたたまれない、そんな空気から一線を引ける。
一冊目のヒロインの、村の子供たちになじめなかった時期のエピソードは当時の私に「堂々としていればいい」と励ましてくれたし、二冊目で描かれる勾玉のそれぞれの色彩の描写は、現実世界を見る私の目に光を与えてくれた。あの時期をうっかり自殺なんかで終わらせずに済んだのは、二冊のおかげだったと、今でも思っている。
なお、読みたい本が少ないなら自分が書くのだという意気で大学を選んで入学したし、インターネットの掲示板が盛んな頃に同じ本を好きな人たちで集まった時、人を介して出会ったのが今の夫だ。あの二冊に出会わなければ、今の私は確実に、いない。
青い表紙と、黒い表紙。どちらも描かれた絵は抽象的なのに、読後あらためて眺めるとそれぞれの線や円が何を意味しているのか、しみじみと、よくわかる。キャラクターの顔や世界が描かれているわけではないのに世界観を物語る、不思議な絵は、それぞれの本に魔法の本めいた雰囲気を与えていた。
出版社が福武書店から徳間書店に移り、徳間書店から三部作の三冊目として薄紅色の表紙の本が出て、青い本は空色の本に、黒い表紙は白い表紙の本に、また新たな装丁で出版され直したけれど、私にとっては福武版の青と黒が特別な宝物だ。
本と人を介して出会った人と結婚し、子供が生まれ、いまの場所に引っ越した。
そこで真夏にポスターを見つけたのだ。表紙を描いてくださった方の――同じ名前だからたぶん同じ方――、デビュー三十周年記念の展示イベントを。有名な絵本を複数出していらっしゃるし、息子も図書館で好んで「よんで」とせがんできた本もある。息子と一緒に行く機会を狙っていたのに気づけばもう最終日。息子は絵本を卒業してトレーディングカードのバトルに夢中。
最終日の夕方、私は宝物の二冊を濡れないように袋に詰めて、ナイロン製バッグに入れて、カバーをかけて、自分はレインコートを着た。雨なのに、この二冊と一緒に出かけたい。ただそれだけで。
ただそれだけだったのに。
――まさか、ご本人が会場にいるとは思わなかった。
最終日だからと在廊していらっしゃったらしい。ご本人と一緒に会場を回っていた方たちが紹介してくださって、私がこの二冊の表紙も手がけられたのですよねと確認し、せっかくだからとサインしてもらうことになり、記念写真まで一緒に撮ってもらった。始終あわあわするだけだったが。
「えっと……誰あてかな」
サインしてもらう際、今の私の名前ではなく旧姓の名前をリクエストした。本の世界に救われていた、中学生の頃の私に宛ててのサイン。
いとうひろし氏は遊び紙の右上にご自身のサインを入れてくださった。二冊とも。先輩後輩の間柄でもあるいとう氏は、「下半分は、荻原のために残しといたから。荻原にサインしてもらいなさい」と仰った。
荻原先生は新刊イベントなどで新刊にサインしてくださることはあるけれど、既刊にはないんじゃないかなあ、と思ったがそのためらいは瞬時に言語化できず、ただただ、丁寧にお礼を申し上げることしかできなかった。
おさるの絵と一緒にサインされた福武書店版『空色勾玉』と『白鳥異伝』を厳重に梱包して、私は家に帰った。
ねえ、中学生の頃の私。こんなことってある? 新刊はまだ出るんだよ。本を書かれた荻原先生にもお目にかかる機会がくるんだよ。今日は表紙を描いたいとうひろし先生にサインしてもらえたんだよ。表紙が破れてセロテープで補修してるやつに、サインしてもらえたんだよ。あなたに向けてのサインだよ。
だから、生きて。ここまでおいで。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます