息子くんのおでかけかばん
学生の頃、友達の間で、革製の小さな鞄を持ち歩くのが流行った。
私も合皮のミニボストンを買ってもらった。紺色で、持ち手とパイピングとファスナーのタブは明るい茶色。横から見ると四角形の四隅を丸く切り落としたような形だったので、ポケットティッシュや二つ折りの財布も入れられて、大きさの割に重宝したのを覚えている。
大人になってすっかり忘れ去っていたけれど、大人になってから、そのミニボストンが活躍した。物持ちがよいのが(珍しく)幸いした。
生まれてきた息子が歩けるようになり、靴を履いて歩けるようになり、外を歩くのが楽しくて仕方がなくなった頃。友達の結婚式に出るため息子と一緒に帰省し(神社で同級生にばったり出くわし)た際、実家のクローゼットから発掘したミニボストンを息子に持たせたら、すっかり気に入ってしまったのだった。
自宅の夫が毎朝A4書類の入る大きさの鞄を提げて外へ出ていくので、息子も鞄を持ちたがっていた。実際は外に行くために鞄を持つのだが、息子は「かばんを持てば外に行ける」と認識したらしい。そんな息子の前に、父親の鞄に似たシルエットの手提げ鞄が現れたのだ。合皮の艶も仕事用鞄のようで、大人から見ると「ベビーがミニチュアの鞄をいっちょまえに提げている」感があって可愛らしい。
しかもミニカーの収納にちょうどいい。四隅を丸く切り落とした、四角形に近い形状ゆえ、ミニカーを詰めるのにも適していた。
ミニボストンは前の持ち主から「おでかけかばん」という名を与えられ、その日から一歳半の赤子の持ち物になった。
そのおでかけかばんを街中で無くしてしまった。帰宅してから気づいた。
たどった経路、利用したバス会社と電車会社、交番の落とし物、いろんな所に問い合わせたけれど、見つからなくて。おでかけかばんに入っていた息子のお気に入りトラックやバスもなくて。
おでかけかばんはどうしたの、と何度か問いかけてやっと、息子は部屋の中を見回して、不思議そうな顔をしたのみで。記憶する力や認識する力は一歳十ヶ月だとそんなものなのだろう。いくら、息子本人にとって、三~四ヶ月間毎日持ち歩いた、外出の意思を示す品であったとしても。
しかし三十を過ぎた大人にとっては忘れることもできやしない。
代わりの品を見つけてやろうとしたが、そうそうちょうどいい品なんて見つからない。ないなら作ればいいじゃない、と立ち上がったのが――いま思えば私の手芸沼の始まりだった。
父方祖母や伯母の影響で、針と糸には抵抗がなかったとはいえ、合皮と持ち手とファスナーを買ってきてミニボストンバッグを作ろうなんて、初心者には無謀だったと今ならしみじみわかる。ミシンもなかった。手で縫おうとしていた。しかも買った合皮は分厚くて重かった。分厚くて重い合皮を下手したら四枚も重ねて手で縫うなんて、無茶だ。
なくして二週間後、バス会社から警察に移管されたおでかけかばんを、遺失物データベースで発見した。電話して捜し物の特徴を告げたら「あ、間違いないですね。お探しの物ですよ」と断言された。データベースには拾われた日時や場所、特徴などが大まかに入力されていて、特徴のうち「在中品等」の欄に「娯楽品類」とあった。トミカは娯楽品か、そうか。確かに娯楽品だ。
バス会社にも交番にも遺失物の届け出はしていたし、あれば連絡しますねと言われてはいたけれど、私がデータベースで見つけるまでに連絡はなく。自力で探してよかった。
なくした日に部屋を見回して首をかしげていた息子は、警察署の窓口でビニールテープを巻かれたおでかけかばんを見つけるなり、カウンターの向こうに手を伸ばした。忘れてはいなかったのだ。窓口のおじさんや別のおじさんも寄ってきて、紺色のつやのある合皮のミニボストンとちんまい乳幼児を眺めて「これはぼくのかあ」「見つかって良かったねえ」とにこにこしていた。おでかけかばんから出てきたバスのミニカーと、後日夫が買い与えたバスのミニカーを、ありぇ? と言いながら見比べていた。
その日は私が「預かるよ」と言うまで息子は鞄を握りしめて手放そうとしなかったし、翌々日スーパーマーケットで息子がおでかけかばんを落としたのに気づかずにいたら、息子はカートから身を乗り出して「ばん! ばん!」と床に転がったおでかけかばんを指さしていた。いつの間に「ばん」なんて言えるようになったのか、己の持ち物に注意深くなったのか。
そのうちおでかけかばんでは大好きな物が入りきらなくなり、タブの茶色い合皮もとれてしまった。息子はいま、リュックにデュエマのカードやニンテンドー3DSをぱんぱんに詰め込んで、公園に飛び出していく。もちろん外出するから使うのであって、外出の意思を示す物ではない。おでかけかばんのことなんて忘れてしまっている。でも私は忘れてはいない。
学生の頃の私に、そのミニボストンは十年以上先の未来で大冒険を繰り広げたよ、と教えてあげたい。
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