紫陽花の青
「自転車で走るのが気持ちいい日」は少しずつ「日焼けの心配な日」となり、太陽が熱くて日よけのアームカバーを持ち歩くようになる。カバーを手首からひじに通し、二の腕の上まで生地をひっぱり、帽子を目深にかぶってやっと、ペダルを踏み込む。
自転車を漕いでいると脇の草むらから蝶が飛び出した。アゲハチョウだ。
自転車と同じ方向に飛ぶため二、三度はためいた羽は、開いたままふわりと浮き上がる。
私はペダルを漕ぐのを忘れ、すうっと風を切って前進する。その間、黄色と黒の入り交じる羽は止まって見えるのに景色だけは動いて見えて、私は蝶につられて空へ舞い上がる錯覚にとらわれる。
一秒もないだろうその時間、私の中の時間はどんどん広がって、緑色の草の海を見下ろし、アゲハチョウと一緒に空を飛んでいる。
そのうちレインコートを自転車のかごに常駐させる日が混ざり始める。
今年はレインコートの出番が少ない。紫陽花も、よく見ると花びら――花ではなく萼か――の先がちぢれていた。雨がないと元気がなくなるのかと不憫になる。
紫陽花は品種や土の質で色が変わると聞く。黄緑がかった白や、目の覚めるような深紅、淡いピンクに、ごくごく浅い水色、いろいろある中で、私は紫がかった青が一番好きだ。群青のような濃い色ではなく、もう少し淡い色。夕暮れ空のような、静かで吸い込まれるような青色。「紫陽花青」という色名もあるのか。紫陽花青から薄紫へのグラデーションが見られる株などたいそう綺麗で惹かれる。あの色合いが、この時期は他の花でも目につく。瑠璃茉莉、アガパンサス、蛍袋、時計草。
今年は空梅雨かと思っていたら激しい雨に降られた。粒の大きな雨だった。紫陽花や草木には朗報だったろうが人はそうもいかない。自転車かごを覆う荷物カバーに雨水がしみこんで、中の荷物が水滴まみれになってしまった。カバーの撥水機能が弱まったのかと帰宅後防水スプレー片手に見てみれば、生地そのものもかなり傷んでおり、あきらめて買い換えることにした。
折しも通販サイトのスーパーセール期間。
ついでだからと他のものもちょろちょろと買い、手芸用の布の通販サイトまで覗いてしまった。
布を買うとわくわくする。
最近はもう息子のズボンか自分のスカートか小学校で指定された袋物くらいしか縫わないが、やっぱり、買ってしまうと、わくわくする。手芸店で直に手触りを確認してから買うほうがよいのはわかっているのに、ネット通販の画像と素材名を見て気に入れば、期待を込めて買ってしまう。
今回もまた、スーパーセールに乗っかって麻の生地を買った。
麻は最初の洗濯である程度縮む。縮み方が激しいので、裁断する前に縮ませる。だって作りたいのは夏の服。気軽に洗濯機でざぶざぶ洗いたいのだもの。届いたその日に水に浸けた。
一時間浸けおいたものを軽く脱水して、物干し竿に吊す。外はいよいよ梅雨らしく湿っぽいが気にしない。布は幅があるから竿いっぱいに広がる。まっすぐ干すためあちこち引っ張って形を整える。横糸が傾いていないか布に顔を近づけて確認する。
うん、よし、と室内に戻り、掃き出し窓のガラスを閉めると、視界いっぱいに生地の青が広がった。画像ではもう少しくすんだ色だと思っていた布は、水に濡れると深みのある色になり、外の光を透かして美しい。紫がかったその青は、私の好きな紫陽花の青色に似ていた。
部屋の壁も天井も青い光に照らされてほんのり明るい。たかだか一メートル半四方の布なのに、私の中の空間はどんどん広がって、穏やかな淡い青色に満たされる。エアコンの乾いた風が吹いて、夕暮れ時の澄んだ空の中に、私はぽっかり佇んでいる。
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