おはなはん

 スーパーマーケットの催事場で、昔なつかし「おはなはん」を見つけて立ち止まった。

 「おはなはん」はお好み焼きの材料をまとめてカップに入れたセットで、売り場にあったのは二人前のだった。カップの中にキャベツと豚肉と、だしを混ぜてペースト状になった小麦粉がそれぞれ包装されて入っている。中身をカップの中にあけて、玉子を割り入れて、フライパンやホットプレートに流して焼くだけの、お好み焼きセット。子供の頃はよく焼いて食べたのに、いつから食べなくなったのだろう? 実家改築前の台所の薄暗さや壁の木目と一緒に思い返していると、商品を手に立ち止まったままの私の横で、知らないおばあさんが同じものを手にとっていた。

「あらまあ、これ、なにかしら」

お好み焼きが焼けるセットですよ、と簡単に説明した。

「子供の頃、よく焼いて食べてました。なつかしいなあ」

売り場には「全国物産展」の看板がかかり、商品製造元の県名が書かれたPOPがそれぞれの商品の後ろについていた。出身県の商品に興味を持ってもらえると、嬉しい。

「なつかしいのだけど、賞味期限内に食べる機会があるかな、と考えてしまって」

そう、関西出身のわりに粉ものがそこまで好きではない夫に、夕飯の具として出すのはためらわれる。息子と二人きりになる夕飯で食べようと思ったのだけど、賞味期限内にその機会はめぐってこない。おやつで出すか、いやこれを焼く余裕がおやつ時にあるか? ……

 おばあさんも、老人二人だとこれは食べきれないわとおっしゃる。

「子どもさんはこういうの、喜ぶでしょうねえ」

と言って、商品を陳列スペースに戻し、買わずに立ち去った。私も商品を戻して立ち去ろうとしたのだけど、おばあさんの「子どもさんはこういうの、喜ぶでしょうねえ」の言葉が耳に残って、やっぱり買い物かごに入れた。


 息子は見慣れぬパッケージを見るなり食べず嫌いを発動した。

「お母さんは、小学生の頃、これを自分で焼いて食べてた」

自分と同い年の母親を想像したのか、息子が興味を抱いて戻ってきた。このカップの中に、玉子を割って入れて、他の材料も入れて、まぜて、焼く。

「玉子をわるの? やってみたい」

珍しくやる気になったらしい。夕飯に出してもいいよと夫が言ってくれたのですぐ作ることにした。このやる気を逃してたまるものか。

 二人分なので、割る玉子は二つ。玉子を割らせた経験はあるけれど、本人はもう割ったことなど覚えていない。一つめを見守っていたら、先端の細いほうを調理台にぶつけ、ひびの入ったところを指で破壊し、中身も殻も、カップの中に盛大に落ちた。大きな殻と破片を取り除き、私は二つめの玉子を息子に見せる。「お母さんは玉子を割るとき、このへんをこつんとする」と、玉子のまんなか――ハンプティダンプティにとっての首元――を指した。やる気のあるまま、息子は私が指した部分を調理台に当て、ひびの左右から指を入れ、中身だけをカップに落とし入れた。今度の黄身は崩れなかった。

「さすがやな」

「……『さすがお母さんのむすこ』?」

「ちがうよ、『さすが息子くん』」

言い切って、「ちょっと声をかけただけで上手に割れたね」と誉めた。誉められた息子は鼻の穴を広げて、唇の端を斜め上に伸ばして、にいっと笑う。

 そうだよこれだよ、昨日私はこうやって誉めたかったんだよ。

 同い年の子には、玉子を割るなんて「できて当たり前」の子もいるけれど、よその子と比べることなく、できたことを誉めてあげられた。私も嬉しい。

 息子はその後上機嫌でカップに他の具材を入れ、混ぜ、熱したフライパンにも興味津々だったけれど「こわいから」と私が焼くのを遠巻きに見ていた。

 息子を誉めるきっかけになった「おはなはん」ありがとう。

 一緒に食べてくれた夫ありがとう。

 購入の背を押してくれたおばあさんありがとう。おっしゃるとおり、喜びました。作るのも食べるのも喜びました。三等分したお好み焼きのうち、息子の分に豚肉が二枚とも入っていたそうです。直接会ってお礼を言いたいくらいだけれど、もうおばあさんの顔も声も覚えていない。


 偶然通りかかった他人が思いがけなく重要な一言をくれる。それは神様が人の姿をとって話しかけているのだ。……たまにそんなエピソードを聞く。

 覚えていない顔や声は神様のものかもしれないと、大げさに想像する。ちょっと食いしん坊で、子どもを喜ばせたい、通りすがりの神様。豚肉を息子の皿に偏らせたのも、たぶんこの神様。

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