5・夏の着物(5)

 その数日後、珍しいことに、先輩は定時になっても姿を現しませんでした。まさか、自殺が成功してしまったのではないか。心配になって電話をかけても、先輩は出てくれません。死神さんからの連絡もありませんでした。

「ちくしょう、あの野郎、いい度胸してんじゃねえか」

 開店準備をしながら、朝から苛立っていた店長は何度か先輩に電話をかけていました。店長が苛立っている理由には見当が付きます。また吉川さんと喧嘩したのでしょう。これでは先輩が来てからどんな目に遭うのか、想像ができます。わたしは一刻も早く、先輩が来てくれることを願いました。

 そんなとき、わたしの携帯が震えました。メールです。差出人は死神さんでした。

「今朝やったみたいです。でも案の定でした」

 やっぱり、先輩は今朝、ガスで自殺を図ったようでした。その失敗に心から安心して、すぐに死神さんにメールを返します。

「そうですか。お疲れ様でした」

「それより、だいぶ慌ててそっちに向かったみたいですから、どうか怒らないで優しくしてあげてくださいね」

 わたしが怒る筋合いのことではありません。まして、先輩が何をしたのかを知っていればこそ。とにかく、先輩の命に別状がないことには安心できましたが、目の前には別の心配があります。

「大体あいつはよぉ、いつも真面目ぶってるけど、仕事ってもんを舐めてんだよ。ちっとものを知ってるからって人を見下しやがって、だから平気でこんなに遅刻してくるんじゃねえか」

 誰にともなくぶつぶつ言いながら、店長は開店作業を進めていきます。

 そんな店長をぶん殴らなかった自分を、わたしは褒めてやりたいものです。あの真面目な人が一体いつ、仕事を舐めましたか。あの優しくて謙虚な人がいつ、人を見下しましたか。彼女と喧嘩したからって人に八つ当たりするあなたこそ、人を舐めてますよ。想像の中で十二・七㎜バーレット狙撃銃をチャラい店長の頭にゼロ距離でたたき込む様を想像しながら、わたしはなんとか堪えます。

「なんだよ、店長。俺が遅刻した時には『ああ、気をつけろよ』の一言だぜ」

「先輩に吉川さんを取られそうで焦ってるんじゃねえの? くだらねぇ」

「ああいう大人にはなりたくねえな」

「ああ、あいつは反面教師だぜ」

 大学生のアルバイト二人も顔を寄せ合い、ひそひそと話しています。

 それぞれがそれぞれの想いを抱え、先輩が現れたのは開店準備が終わってからのことでした。店長に理不尽に罵られ、たった一度の遅刻で人格まで貶められた先輩は、あまりにも不憫でした。同時に、店長に対する怒りも募ります。ぶっ飛ばすどころか刺し殺しても飽き足りないくらいです。先輩がどのように罵倒されたのかは読者の皆さんもご存じでしょうし、わたしも思い出すとはらわたが煮えくりかえるので、省略させてください。

 ともかく、いらいらしながら、わたしは時計を見つめていました。本当ならばすぐにでも止めに入りたいところですが、それでは話がこじれるだけでしょう。先輩、もう少しお待ちを。

「店長、時間です」

「ちっ、お前ら、店開けろ」

 やっと店長の暴言の嵐が終わりました。すぐにでも先輩になにか声を掛けたかったのですが、あの性悪が邪魔をします。

「ちょっと酷くない、今の」

 性悪は、わざわざ聞こえるように、店長の悪口をまくし立てました。それが先輩を庇うためではなく、店長に対するアピールだと知っているわたしは、日本に銃刀法と殺人罪があることを恨みました。「まあまあ、二人とも、もうお客さんが来ますから」と二人に割って入ったことは、わたしの精一杯の邪魔です。

 その後、わたしは二人の大学生に、先輩を励ますための飲み会を開かないかと持ちかけました。彼らはすぐに了解してくれました。二人とも、店長を良くは思っていなかったし、真面目で優しい先輩を慕っているのです。

 そこに、立場上吉川さんも誘わなければならなかったのは忸怩たるところです。お酒の席で何でもない風を装って彼女と談笑しながら、その最中で首を絞めてやろうかと思ったことは一度ではありませんでした。

 途中で、彼女はメールが入って席を立ちました。きっと店長からの、仲直りの打診でしょう。なんのことはない、先輩を慰めるつもりなどまったくなく、ただ彼女はお酒を飲みに来ただけのことだったのです。わたしは想像の中で、去りゆく憎たらしい背中に5・56㎜ミニミ軽機関銃を乱射しました。

 先輩は、こんなくだらない女に騙されているのです。あんなに聡明な人なのに、先輩は気づかないのです。わたしは、一体どうすればいいのでしょう。このままでは、先輩はわたしが告白しないうちに不幸になってしまうことは明らかです。でも、告白したら、それはそれで不幸になってしまうでしょう。

 わたしは一体どうすればいいの。そんな想いを抱えながら、飲み会はお開きになりました。


「優しくしてあげました?」

 そして、家に帰った頃を見計らったように、死神さんからの電話です。

「わたしなりには精一杯やりました。でも、どうだったかな」

 そう、精一杯でした。店長の罵りに口を挟み、飲み会を開き。でも、端から見れば直接先輩に声を掛けて慰めた吉川さんに、軍配が上がるでしょう。わたしは自分が器用な人間でないことを呪いました。このままでは先輩は、吉川さんとの間柄を勘違いしたまま、ひどく不幸な目を見ることになってしまいます。

「飲み会はどうでした?」

「萌えの話題ばっかりで居心地が悪そうでした」

 これにはわたしに責任があります。向かいの席で「萌え萌え」と言っているので、その、わたしも萌えが嫌いじゃないものですから、つい話に乗ってしまったのは、先輩に対して申し訳ない限りです。

「おっかしいなぁ」

「なにがおかしいんですか?」

「あ、ううん。なんでもないんです。でも、ウサギさんにこれだけは言えるんですよねぇ」

「なんでしょう」

「あの人、それなりの小説を書かせたら、ものすごい人になると思いますよ。と、編集の西上さんが言ってました」

 それなりの小説。一体何だろう。死神さんが続けます。

「ウサギさんって、才能があるのに、頑固な思想がマイナスになっちゃってるんですよ。そのマイナスをこじらせて『死んじゃおう』なんていう極端な発想になっちゃってると思うんですよねぇ。まったく、どうすればいいんだか。ははは」

「マイナスと言うなら、わたしもマイナスですよ」

「と、いうと?」

 わたしは死神さんに、これまでの「血塗れブラッディ・ユサ」の経歴を語って聞かせました。すると死神さんはおおいに納得したように「なるほどぉ」と言いました。

「そうなんですか。でも、遊佐さんがこんなに長くコーヒーショップでバイトを続けてるのは、マイナスとマイナスを掛け合わせてプラスになってるからですよ」

「え、それってつまり、どういうこと?」

「ウサギさんと遊佐さんはマイナス同士だから、二人が掛け合わされることによってプラスになるんです。遊佐さんはウサギさんと一緒にいれば、一生安泰ですよ。いやぁ、妬けるなぁ。お似合いのカップルだなぁ」

 本当でしょうか。わたしと先輩が一緒になれば、二人のマイナスが掛け合わさってプラスになる。本当でしょうか。


 翌日の昼過ぎ、わたしはカウンターでコーヒー豆を挽きながら、考えていました。

 マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる。わたしと先輩が一緒にいれば、一生安泰。それが正しければ、なんて素敵なことでしょう。でも、いくらなんでもオカルトめいた話です。その一方で、先輩のいるこの職場で二年もの長い間(あくまでわたし基準ですが)続けてこられたことも事実です。でも、わたしというマイナスと先輩というマイナス、そのどちらかが欠けてしまったら。わたしというマイナスしか残らなかったら、わたしは一生涯、人々を不幸に陥れる血塗れのブラッディ・遊佐として生きてゆかねばなりません。

 そうなると、わたしには先輩がどうしても必要です。でも、先輩は文学に対して命を懸けようとしているのです。その理念は崇高ですが、決して賛成できるものではありません。先輩には生きていてほしい。一緒に生きていきたい。先輩に、わたしを必要としてほしい。わたしが、先輩を必要としているように。

 ということは、

 やはり、わたしは先輩に告白すべきなのでしょうか。そうすれば、先輩も死なずにいてくれるでしょうか。そうしなければ、わたしも死んでも死にきれません。

 よし、こんど先輩に告白しよう。そう心に決めた時でした。


「もういやだあああああああ!」


 絶叫とともに、休憩室の扉が開きました。そこから飛び出してきたのは先輩です。先輩はアルバイトの大学生を突き飛ばし、注目するお客さんを無視して自動ドアをこじ開けました。

「先輩っ!」

 わたしは咄嗟に叫びました。開けっ放しの休憩室兼事務室を見て、何があったのかを全て察しました。そこには吉川さんと店長が、仲睦まじく並んだまま、走り去ってゆく先輩を呆然と眺めていたのです。

 わたしもカウンターから走り出しました。

「遊佐さんまでどこに行くんです!」

 アルバイトの大学生を無視して、わたしは土砂降りの雨の中を走り出しました。先輩の背中を追いながら、死神さんに電話をかけます。

「大変、またやらかします。それも今すぐ」

「ええっ、ちょっと間に合わないかも」

 突然のことに、さすがの死神さんも戸惑っていました。

「わたしが行きます!」

「場所の見当は付きますよ。玉川上水です、きっと」

「わかってます、そんなことは!」

 弾丸のような雨粒が叩く中、わたしは先輩の背中を追ってただ走りました。玉川上水とは言っても総延長は四十三キロに及びます。いちど見失ったらもう、追いつくことはできないでしょう。先輩の足は思ったよりも速かったけれど、わたしだって中学生の頃は陸上部だったのです。昔取った杵柄。やっと追いついた先輩は、玉川上水の柵に足をかけるところでした。間一髪間に合った。わたしは声を掛ける間もなく先輩の襟首を掴み、そのまま地面に引き倒しました。

 先輩、あんな女のために死んではなりません!

 そう口に出す前に、手の方が先に出ました。なぜ殴ってしまったのかはわかりません。

 先輩、自分の才能を諦めてはいけません!

 彼が逆を向いたところを、もう一発。

 先輩、好きです!

 そして、真っ正面から一発。

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