5・夏の着物(4)

 月が明けました。

 それまでわたしは先輩のアパートを知らなかったのですが、あとで死神さんに教えてもらい、散歩を装ってアパートの前を通りました。もちろん、予定通り先輩が日光に出かけるかどうかを監視するためです。

 午前中に通った時は窓が開いていて、中に先輩がいることがわかりました。しかし、午後にもう一度行ってみると、窓もカーテンも閉じられ、中に人の気配がありません。

「まさか」

 先輩のお部屋の前まで駆け上がってドアを叩いてみましたが、やはり反応はありませんでした。きっと日光に出かけたのです。死ぬために。

「まずい、もう日光に向かったみたいです!」

 すぐに死神さんにメールしました。それから一分と間を置かず「すぐに追いかけます!」との返事です。でも、よく考えてみると、彼女はわたしよりもだいぶ年下に見えます。今日は世間では平日。

「学校はないんですか?」

 そうメールすると、

「お化けにゃ学校も~試験もなんにもないっ♪」

 と、かわいらしい返事が返ってきました。朝から寝床で寝ていたのでしょうか。

 ともあれ、ここからは死神さんにお任せするしかありません。それに、わたしは明後日に、ある企業の面接が迫っていたので、その対策をしなければなりませんでした。


 翌日の夕方前には、「無事、阻止しました。予想以上にヘタレだったんで助かりました」と、死神さんからのメールを受け取りました。とりあえず安心です。

「了解しました。とりあえず、よかったです。お疲れ様でした」

 どのような顛末だったのか気になったわたしは、死神さんと電話で話しました。しかしどういうわけか、死神さんは「知らないほうがいい」と教えてくれませんでした。ただ、付け加えるように、彼女は「日光二荒山の神様に遊佐さんとウサギさんの縁結びをお願いしておいたよ」と言いました。なんにせよ、ありがたいことです。ねんごろにお礼を言って通話を終えました。

 翌日は面接です。これまでもバイトをしながら何度か面接を受けましたが、結果は皆さんがご存じの通りです。

 わたしは全ての面接に万全の対策を練って望んだつもりです。今回もそうでした。わたしの面接はまったく模範的であったと自負しています。

 その日、玩具メーカーの面接を受けたのは、わたしを含めて六人。事務職の採用なので女の子が多めでした。

 面接のシーンは、特に面白くもなんともないので割愛させていただきます。ともあれ、一人ずつ呼ばれて面接を受け、全員の審査が終わった頃でした。

「遊佐さん、こちらにどうぞ」

 面接官の一人だった年かさの女性が、わたしを呼びました。わたしは一人別室に通され、そのわたしの姿を、他の五人が羨ましそうに見つめていました。これはもしかして、今度こそ採用ではないのでしょうか。途端にわくわくしてきたわたしは、一方で寂しさも感じました。それは、これで先輩とはお別れということ。先輩の携帯もメアドも知っているので、何かしら理由を付けてお会いすることはできますが、これで一緒に仕事をして昼休みに文学談義に花を咲かせる毎日が終わってしまうこと。それは本当に残念なことでした。

 でも、別室に用意されていたのは、一杯のお茶漬け。京都でお茶漬けを出されることは「早く帰れ」という意味だと聞いたことがあります。思えば、この玩具メーカーは京都に本社があるのでした。

「どうぞごゆっくり」

 そう言い残して、面接官は扉を閉めました。あとにはわたしと、湯気を立てるおいしそうなお茶漬けだけが残されました。

「不採用なら不採用って、はっきり言え!」

 悔し紛れに、わたしはお茶漬けを掻き込みました。背後の扉の向こうからは「他の方は全員採用です」の言葉とともに、歓喜の声が聞こえます。お茶漬けにまた別の塩味が加わりました。

 そこからは、よく覚えていません。ただ、なんでもいいからお酒が飲みたいと思っていたことはたしかです。気がつくと、わたしは駅近くの赤提灯にいました。

 そのお店は昔ながらの、良く言えば趣のある、悪く言えばあまり衛生的ではなさそうなお店でした。そんな中にリクルートスーツの女が一人でいるのですから、嫌でも注目が集まります。

「お姉ちゃん、おじさんがおごってあげるよ」

 酔っ払った中年の男性が、わたしの隣に並んでおやじさんにお銚子を注文しました。わたしは差し出されたお銚子を遠慮なくいただき、身の上話をしながらたちまち三本を空にしました。男性も、わたしに負けじと同じ量のお酒を飲みます。ですが、

「お、お姉ちゃん、強いねぇ」

 最後にそう呟いて、男性はカウンターに突っ伏してしまいました。こんな時ほど、酒豪の遺伝子を代々受け継いだ遊佐家の先祖に感謝せずにはいられません。一体「おごってあげる」なんぞと言って隣に座る男の魂胆なんて見え透いているのです。まして、面接に落ちてナーバスになっている女は簡単にだろう。そんな不埒な考えを起こした男に天誅を下して、わたしの気持ちは少しだけ晴れました。

「マスター、もう一本お願いします」

「あいよっ! しかし姉さん、強いねぇ」

 ねじり鉢巻きのおじさんはわたしが求めるまま、もう一本のお銚子をこしらえてくれました。

「先輩だったら、こんなことしないのに」

 隣でいびきを掻く男を見下ろし、わたしはお猪口にお銚子を傾けました。

 先輩はとても優しくて真面目な紳士です。この男や店長のように、女を酒に酔わせて口説くようなまねは決してしません。そんな度胸もないから先輩には彼女ができないのでしょうし、そんなに優しいから吉川さんのような性悪な女にも簡単に騙されてしまうのです。

「お勘定はこの人にお願いします」

 隣の男を指差して、わたしは席を立ちました。最初に「おごってあげる」と言われたので問題ないでしょう。大概、わたしも性悪です。

「はあ、先輩に会いたいなぁ」

 そう呟いて引き戸を開けた時、わたしは通行人と危うく衝突しそうになりました。

「あっと、失礼」

 先に相手が詫びました。しかし、なんという巡り合わせでしょうか。その時のわたしは、嬉しさよりも驚きの方が先でした。

「先輩?」

「遊佐さんじゃないか」

 わたしが衝突しそうになった相手は、会いたかった先輩その人だったのです。

 先輩はわたしの姿を見て、何があったのかを察した様子でした。わたしたちは近くのバーに落ち着き、先輩に愚痴を聞いてもらいました。

 今日の面接であったお茶漬け事件、これまで働いたバイト先の相次ぐ破綻、そして恋愛関係で関わった男の子たちの相次ぐ不幸。その間も、先輩は色々と慰めの言葉をかけてくれました。でも、わたしは話しているうちに、自分の存在がわからなくなっていました。こうして人に迷惑をかけ続けるならば、いっそ死んでしまったほうが、みんな幸せになれるんじゃないか。そんな気持ちが、わたしにこんなことを言わせたのです。

「もう、誰もわたしを必要とはしないんです。私が必要としても、みんな消えていくんです。わたし、このままずっとフリーターでバイト先を潰しながら、誰にも愛されずに孤独に死んでいくんですかね。川端康成は『人は愛されているうちに消えるのがいちばん』と言いましたけど、誰にも愛されていないわたしはどうやって消えればいいんですかねぇ!」

 言い終えた時、わたしはカウンターに伏せていました。先輩に涙を見られるのが嫌でした。でも、先輩はこんなわたしを否定しませんでした。

「ば、ばか、滅多なことを言うもんじゃない。まさか遊佐さん、な気持ちを起こしちゃいないだろうね? 確かに、人は愛されているうちに消えるのがいちばんだ、川端の言葉には真理がある。しかし、愛されていない者はどう消えるかではない。どう愛されて消えるかだ。愛されるための努力を怠ってはならないよ、君にはその才能もある。だが、才能という花は努力なくしては開かないのだ。そうさ、愛されないうちに消えてたまるものか。結論はあと百年のうちに出せばよいではないか。とにかく、軽々しく消えるだの死ぬだの考えてはならない。努力を諦めるのはまだ早かろう!」

 先輩は、とても一生懸命に、わたしを諭してくれたのです。ここで、そう、あの店長やさっきわたしと飲み比べて潰れたあの男のような人だったら、あの手この手でにかかるでしょう。なのに先輩は、不器用に、でも本当に真剣に、わたしを案じて叱ってくださったのです。

 突然、わたしは笑いがこみ上げてきました。なので、わたしはますます顔を上げるわけにはいきません。その笑いとは、今まさに自殺しようとしている人にそんなことを諭されているという、まるでギャグのような事実から来るものでした。「あなたがそれを言うんですか?」顔を上げてそう突っ込みを入れたかったのですが、堪えました。

 自分の身の上が悲しくて、背中をさすってくれる先輩の手が嬉しくて、そんな先輩がおかしくて、わたしはカウンターに伏せたまま、泣きながら笑いました。


 ようやくわたしも落ち着き、それから二人でいつも通りの文学談義に花を咲かせました。思えば、先輩と文学以外の話をするのはこれが初めてだったかもしれません。もっと長くこの時が続けば、文学以外でも、先輩ともっとお話ができたら。そう思いました。ですが、

「では、また明日」

 それから二杯ほどのカクテルを飲んで、わたしたちは別れました。

 安心しました。ここで先輩に、店長やあの男のように口説いてほしいとは思いませんでしたから。先輩は人の弱みにつけ込んで体を求めるような、そんな人ではありませんから。

 安心すると同時に、寂しさがあったことも、また事実でした。


「おそらく、次はガスで自殺するつもりです。場所は自宅でしょう。それ以外に考えられませんから」

 死神さんからそんな電話が来たのは、先輩と別れて家に帰った頃でした。

「どうしてわかるんですか?」

「ウサギさんは昨日、川端康成の『山の音』を読んでたんですよ」

「ああ、なるほど、それで」

 それでさっき、先輩はやたらと川端康成を引き合いに出していたのでしょう。

「困りましたね。場所が自宅となると、日にちを特定するのが難しいです」

 華厳の滝のように、どこかに出向いて死ぬのならば、シフトに何らかの影響が見られるか、突然辞めるか、何らかの兆候が見られるはずです。でも自宅で自殺を図るとなると、それを見つけるのは難しいでしょう。

「監視を強化するしかありませんね。でも、どうやって監視しましょうか。まさか先輩のお部屋の前に張り付いているわけにもいきませんし」

「それは大丈夫です。あたしがなんとかしますよ。それにしてもガスなんて、思ったよりものを知らないんですね、ウサギさんは」

「どういうことですか?」

「現代のLPガスには有毒物質が含まれていないんで、自殺はほとんどできないんですよ。それに、ウサギさんの家はガスの報知器が天井の方に付いていたんで、窒息もできないんじゃないですかね」

「じゃあ、次はきっと失敗しますね」

「そういうことです。でも、入水もあり得ますね」

「入水、ということは、玉川上水でしょうか」

 入水と聞いて、すぐに思いついたのは近所の玉川上水でした。そこは太宰治が身投げをしたところです。

「彼のことだから、きっとそうです」

 さすがに、死神さんもよくわかっているようでした。

「わかりやすくて助かりますね。でも、死神さんはどうしてそんなに先輩について詳しいのですか?」

「それは、あたしが死神だからですよ、遊佐さん」

 謎の言葉を残して、通話が途切れました。

 思えば、わたしは先輩の自殺をとことん邪魔するための同盟を結んだ死神さんのことは、何一つ知らないのでした。

 かわりに、死神さんからは先輩のことを色々と聞いたものです。何度も新しい小説を書いて出版社へ持ち込んでは断られていること、わたしの敬愛する作家の一人である晃昭錬太郎さんから否定されたこと、編集の西上さんからダメ出しされたこと。

 わたし同様、先輩も頑張っていました。何度も出版を断られても、それでも何度も作品を持ち込んでいました。ただ、わたしと先輩の決定的に違うところは、誰も先輩の才能を否定していないということです。晃昭錬太郎さんは、何年も前に会っただけの先輩の顔を覚えていました。それは、決して先輩に才能がないからではないでしょう。むしろ晃昭さんは先輩の才能に注目していたのです。編集の西上さんも、「文章は上手い」と褒めていたと死神さんから聞きました。

 先輩は、才能がないから売れないのではない。才能を活かす方向が間違っているから売れないのだ。誰もが言外にそう言っています。

「先輩、気づいてください」

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