5・夏の着物(3)
それからまた一週間ぐらい経ったでしょうか。自室で読書をしていたわたしの携帯に、メールが飛び込んできたのです。差出人は、死神さんでした。
「掴みました。日光の華厳の滝です」
驚くと同時に、先輩らしいと思いました。
華厳の滝とは、また古風な死に方を選んだものです。わたしだって文学好きの端くれ、藤村操と「
「了解。こちらも詳細がわかったら報告します。連絡を密にしましょう」
「オッケー。なんとか阻止してみせます」
「よろしく。問題は決行の日時ですね」
短いメールを遣り取りしてから、わたしはふと考えました。
人が自殺する理由って、一体なんだろう。
そもそも、わたしは先輩が死にたがる理由がわかりませんでした。自ら死を選ぶからには、よほどの理由があるに違いありません。
わたしは本を閉じ、かわりに愛用のネットブックを開きました。パソコンの性能としては劣るものの、文章を打つぐらいなら問題ありません。
死のうと思っていた。
最初に、何気なくそう打ち込みました。そして、それが太宰治の短編集「晩年」に収録されている「葉」という小説の冒頭であることに気づきました。しかし、その直後には「正月に夏用の着物を貰ったので夏までは生きようと思った」という、ふざけた続きがあることを、わたしは知っています。
死のうと考えている人間は、そんな理由で死ぬことを先延ばしにできるのでしょうか。そもそも、それは必要のある死なのでしょうか。たしかに、世の中には死ぬことによって世界を変えたり、死ぬことによって注目された人も皆無ではありません。でも、それは、
「凡人がそれをしたって、しょうがないじゃない」
そもそも先輩が凡人なのかそうでないのかは、置いておくことにしました。私が先輩を好きなのは、小説家だからではないのです。たしかに、きっかけはそこだったかもしれません。でも、もう、先輩が小説を書こうと書くまいと、先輩のあのお人柄にこそ、わたしは惚れているのです。先輩が凡人であろうとなかろうと、わたしは先輩が好きなのです。だから、死なないでほしい。少なくともわたしより先には。
世の中を変えるための死。世の中を変えたいから死ぬ。しかし、凡人一人が死んだところで世の中なんて変わりっこない。だったら、生きればいい。
でも、自ら死を選ぶ人は、全員が高尚な思想を持って死ぬわけではないのです。
たとえば、人間関係。
たとえば、借金。
たとえば、会社や学校での成績。
たとえば、何度受けても落とされる面接、仕事先が次々と潰れて行く絶望、関わった男の子たちが見舞われる不運。まったくそのつもりはないのに、わたしが運んで行く不幸に振り回された人たちはどれほど
わたしだって、死にたいと考えたことは一度ではないのです。
わたしの手がキーボードを滑り始めました。何気なく書いた最初の一文は、そこから次第に枝葉を広げ、いつの間にか小説になっていました。わたしが初めて書く小説です。
段落が一つついたところで、読み返しました。
それは、先輩の書いたものには到底及びもしないもの。私が敬愛する森見登美彦さんや桜庭一樹さんや米澤穂信さんに比べれば、駄文に等しいもの。
「先輩は、書けるじゃないですか」
自分で書いたものを読み直して、わたしは頭の中に浮かんだシーンを文章に起こすということがどれほど難しいのか、初めて知りました。そして、それができる人たちに、改めて尊敬の念が沸きました。同時に、嫉妬と怒りも。
「書いて下さいよ、先輩。小説を書いてくださいよ!」
もし、それが先輩の生き甲斐であったならば。どんな理由で死にたいにせよ、先輩が文章を書けるならば、そうすることで生きていけるなら、書いて下さい。ほかの誰も読んでくれなくても、わたしが全部読みますから!
わたしが、先輩の夏の着物になりますから!
翌朝、わたしは机に突っ伏したまま眠っていました。傍らには、半分まで減ったウォッカの瓶がありました。目を擦ると、ざらっとした感触とともに目やにが指に付きます。カーテンから差し込む朝日に、わたしは眼を細めました。変な姿勢で眠ったせいで、体中のあちこちが痛みます。
「
ネットブックの電源を落として、バッグに入れました。
仕事が始まる前に、カウンターに座って休んでいると、先輩が来ました。先輩はまさかこの人がもうすぐ死のうと考えているとは思えないほどの笑顔で、吉川さんに「昨夜はどうも」と挨拶をしました。昨夜も二人は一緒に飲んでいたのでしょう。しかし、吉川さんのあの素っ気ない、迷惑そうな態度を見ると、きっと昨夜、先輩と別れたあとで店長とは仲直りをしたに違いありません。
不愉快でした。
立場上、わたしは先輩に対して努めて無関心でいなければなりません。でも、役者でもないわたしはどうしても顔に出てしまいます。時々先輩の方を見ると、不審そうな彼とたびたび目が合いました。
その日の昼休みです。ネットブックを開いて昨夜の続きを書いていると、先輩が入ってきました。その日は来月のシフトを決める日で、まっさらなシフト表がテーブルに置いてありました。先輩はボールペンを手に取り、適当に○を付けてゆきます。そのシフト表の最初から四日間が空欄になっていました。
きっとこの日だ。わたしはそう確信して、訊ねました。
「珍しいですね、四日も続けて休むなんて」
「ああ、ちょっと旅行に」
「あら、いいですね。どちらまで?」
「栃木の日光まで。なに、遊びじゃないんだ。ちょっと最終的に解決しなければならない問題があってね」
「そうなんですか」
最終的に解決。いよいよ間違いないと思いながら、努めて無関心を装いました。再びネットブックに顔を落とすと、彼が「何をしているの」と訊いてきました。
「ああ、えっと、実はその……」
急に恥ずかしくなってしまいました。彼は売れないとは言え、プロの小説家なのです。少しもじもじして、やっと「実は、小説を書いているんです」と絞り出すと、彼は驚いたように「なに、小説を? 新人賞でも狙ってるの?」と、訊いてきました。
「いえ、そんな大層なことじゃありません。小説は好きですけど、書くのは初めてですから。ネタもふと思いついただけだし。たまたま思いついただけの小説で新人賞なんて、そんなに甘いもんじゃないでしょう?」
「まあ、確かにね」
そもそも、誰かに見せようと思って書いている小説ではありません。でも、この小説をわたしに書かせたのは、先輩です。
「いくつも小説を読んでるうちに『いつか自分も書いてみたい』と思って、それがいつの間にか『自分でも書ける』になっちゃうんです。でも、それはちょっと甘く見過ぎですね。書くだけなら誰でもできますけど、上手に面白く書くのが難しいんだって、今思っています。それに、新人賞に応募して賞を取って、売れるような作品を書くには、やっぱり今の流行りも掴まないとだめなんですよね」
いつになく、わたしは先輩に対して饒舌になっていました。文学という共通する趣味を持っているのがこの店ではわたしと先輩だけなので、これまでも自然とそうなることはありました。この時のわたしは、まさにそうなっている。先輩も、わたしと真っ向から対峙しようと決めたようでした。
「それは違う。流行り廃りで書かれた小説なぞ、文学とはほど遠い。かつての文豪たちはその思いを紙に託し、今も人々を感動させ続けているじゃないか。それが本当の文学というものだよ」
その先輩の言葉に、わたしは先輩が死のうとしている理由を薄々察しました。先輩はあまりにも文学に対して真剣であるために、現代の小説が許せないのです。真面目なのは結構ですが、その態度は間違っています。でも、ここでわたしが真っ向から反論したところで、先輩の自殺を止められるでしょうか。わたしにできることは、ただぼそぼそと理屈を並べることだけでした。
「それは、その、先輩のおっしゃることもごもっともですけど、今は文学の形も変わってきてるんじゃないかと思うのです。売れ筋を掴んでいても、感動できる作品はたくさんあります。売れ筋を掴んで、なおかつ感動させるのもまた文学なんじゃないでしょうか。わたしはライトノベルで涙を流したこともありますよ」
「では今、君はどんな作品を書いているんだい?」
「今はちょっと、詳しくは言えません。でも、人が自殺するからには、よほどの理由があるんだろうなと思って。それがきっかけです」
先輩、あなたのことですよ。
それからも少し、先輩とは議論をしましたが、途中でわたしの休憩時間が終わったため、切り上げざるをえませんでした。
フロアに戻ってすぐに、わたしはトイレに駆け込みました。そこでメールを打ちます。もちろん、相手は死神さんです。決行の日が来月頭の四日間である疑いが濃厚であることを告げると、死神さんはすぐに「了解っ!」と返事を返してくれました。
「おーい、遊佐」
帰り際、わたしは店長に呼び止められました。スケベな店長は吉川さんという恋人がありながら、たびたびわたしに色目を使ってきました。もちろん、その全てを右から左へ受け流してきたのですが、今回もそうかと思っていると、店長はわたしにシフト表を突きつけて「書いてねえの、お前だけだぞ」と言いました。わたしはこれまで通り、できるだけ先輩のシフトと合わせて自分の欄に○を付けていきます。
「ところで、これからどう、一杯」
店長にシフト表を渡すと、下心を隠そうともせずにわたしを誘ってきました。
「わたしはお酒飲めませんので」
しらじらしい嘘をついて、わたしは店長の追撃をかわすため、足早にお店を後にしました。
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