5・夏の着物(2)

 そんなある日、わたしに転機が訪れました。

 ある初夏の午後、先輩がフロアで困っていたのです。若い、高校生ぐらいの歳の女の子が先輩を指差して何かを叫んでいたのです。まさかコーヒーでもこぼしてしまって怒鳴られているのでしょうか。先輩をお助けしなければならないと思って近づいたわたしは、彼女の意外な言葉に耳を疑いました。

「あんた、死ぬ気でしょ!」

 死ぬ? 先輩が?

 周りを見渡すと、他のお客様が注目しています。わたしは駆け寄って先輩と並び、「あの、申し訳ありません、他のお客様のご迷惑になりますので」と彼女を窘めました。

 彼女はそれでようやく静かになりましたが、わたしはその後で先輩に聞かずにはいられませんでした。

「本当に死ぬんですか?」

「い、いやいや、まさか。そんな簡単に死んでたまるもんか。変人の言うことを真に受けてはいけないよ」

 先輩は慌てて頭を振りましたが、わたしはどうしても嫌な予感がしていました。まさか、まだ告白もしていないのに、先輩に不幸が迫っているのでしょうか。

 わたしは店を出て行く少女を追いかけ、店の外で捕まえました。

「さっきのこと、どういうことですか。先輩が死ぬって」

「先輩? ああ、ウサギさんのことか」

「ウサギさん?」

「あの人、『一羽二羽と数えるくせに鳴かないし飛ばない』っていうことで、友達と編集者からそう呼ばれてるんですよ」

「ウサギ……ウサギが鳴かないというのは間違いですよ。それよりも、先輩が死ぬって、どういうことです?」

「うーん、これは誰にも、本人にも言っちゃだめだですよ。あの人ね、自殺しようとしてるんですよ」

「先輩が、自殺? あなたはどうしてそれを?」

「そりゃあたし、死神ですから」

 そう言って、彼女はにこりと笑いました。よく見ればとてもかわいい女の子です。でも、いくらわたしが文学好きとは言え、いきなり「死神だ」なんて名乗られたところで信じてしまうほど、わたしの頭はファンタジーではありません。

「大人をからかっちゃだめですよ。本当のところを話してください。あなた、先輩の一体なんなんです?」

「直に会ったのは初めてですよ。実を言うと、昨夜、ウサギさんのブログを見たんです。そしたらなんか、死にたいとかそんなことが書いてあったんです。もっとも、ウサギさんは『最終的解決』って言ってましたけどね」

「先輩が、ブログに?」

 先輩がブログを持っていたことを初めて知りました。でもそんなこと以上に、先輩が死のうと考えていることにショックを受けました。

 先輩が、死ぬ。先輩の三冊目を見ることもなく、何よりわたしの気持ちを知って貰う前に、先輩が死んでしまう。突然、わたしの視界がぼやけました。その時は死神さんの言葉を信じたわけではありません。ただ、先輩が自ら命を絶った時のことを考えてしまったのです。

 慌てて目頭を押さえると、死神さんは「そうか」と頷きました。

「お姉さん、ウサギさんのことが好きなんですね?」

 無言で頷くと、彼女は黒いスポーツバッグからメモ帳を取り出して、何かを書きました。

「これ、あたしの携帯とメアドです。お姉さん、協力してください」

「協力? 一体なにに協力するんですか」

「邪魔するんです。ウサギさんの自殺を、とことん邪魔してやるんです。諦めるまで」

 死神さんが差し出した右手を、わたしは迷わず握りかえしました。

 こうして、わたしと死神さんは結託したのです。


 夕方、バイトが明ける間際、わたしはお店の前を箒で清めていました。すると、先に上がった先輩が裏口のある路地裏からひょっこり現れて、わたしに小さく頭を下げました。わたしも頭を下げ、顔を上げると、その後ろを死神さんがとことこと付いていきます。彼女はわたしを振り返ってVサインをしてみせました。わたしも「どうぞよろしく」と願いを込めて、Vサインを返しました。


「どうでした?」

 その日の夜、わたしと死神さんは駅近くのファーストフード店で落ち合いました。先輩が自殺するなんて、そんな話は冗談であってほしい。そんな期待を込めて彼女に訊きましたが、答えはあっさりしたものでした。

「やっぱり死ぬ気でいるみたいですね」

 そんな、本気だったなんて。

「それはまずいことになりましたね」

 どうすればいいのだろう。そんな思いがこみ上げて、わたしはそう呟きました。

「まあ、とりあえず様子を見ましょう」

 死神さんは、相変わらずにこにこ笑いながらストローをくわえています。

「そんな悠長な」

「大丈夫ですよ。遊佐さんも知ってるでしょ。ウサギさんはああいう人なんだから、いきなり手首を切ったり首を吊ったりすることなんてありませんよ。きっとなにか、目立つことをすると思うんです。そのぶん、真正面から止めても逆効果だと思うんですねぇ。だから遊佐さん、何か気づいたら、すぐに教えてくださいね。大丈夫、遊佐さんの悪いようにはしませんから」

 そう言って微笑む年下の彼女が、やけに頼もしく見えました。

「実は、もう一つ、先輩について気がかりなことがあるんです」

 わたしは吉川さんのことを話しました。死神さんは顔をしかめ、「うわ、ひでえ」と直截な感想を漏らします。

「それだけでも死にたくなる話ですね」

「わたしも、ちょっと死にたくなりました」

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