5・夏の着物(1)

 先輩より機会をいただきましたので、お話させていただきます。

 先輩と出会ったのは二年前。せっかく新卒で入社した会社が突然倒産した直後のことです。

 幸い父が現役なので急いで次の仕事を探す必要もないのでしたが、いい年をした大人が無職というわけにはいきません。ですが、新卒採用も一段落した時期でどこも雇ってくれるところはありませんでした。

 とりあえずの繋ぎとしてアルバイトを始めたのは、あの駅前通りのコーヒーショップでした。そのとき採用になったのは二人。わたしと、派手なギャルといった出で立ちの吉川さんです。正直言って、わたしは面接をしてくれた店長が好きにはなれませんでした。あの、わたしたちを値踏みするように舐め回すスケベそうな目つきは忘れません。いかにも顔だけで中身の薄い男だな、と思いました。私が最も嫌う男性の典型です。

 いっそ不採用であっても恨みはしない職場でしたが、採用となりました。でも、どうせこの店も、わたしが来たことで遅かれ早かれ潰れてしまうのでしょう。わたしはこれまでも、あちこちを渡り歩いて働く先を打率十割で「ほうむらん」してきたのですから。

 もちろん、そうなることを願っていたわけではありません。採用されたからにはせめて長続きすることを祈るか、早く次の就職先を見つけてこのお店が潰れないうちに出て行かなければと思いました。

 数日後の初出勤の日、制服を渡されて初めてフロアに出てきたとき、そこにいたアルバイトの男性を、どこかで見たことがあるような気がしました。

「もしかしてあの人は」

 そう思って家に帰り、蔵書を引っ張り出して確認して、わたしは驚き戸惑う一方で、運命的なものを感ぜずにはおられませんでした。

 それはわたしが高校と大学時代に読んだ、とても意地悪で、ひねくれていて、まるで呪文のような小説の作者だったのです。

 ただ、その時に感じた運命というのは、色や恋とはまったく関係のない感情です。ただ、最後の手紙で「次の小説が面白かったら名前を教えます」と書いたきり、ついに名前を教えることがなかったあの小説家が目の前にいる。

 当然、一緒に仕事をするからには名前を名乗らないわけにはいきません。そんな名前の教え方は、わたしにとっては不本意でした。

 なんでこの人はこんなところでアルバイトなんかしているのだろう。どうして小説を書かないのだろう。小説を書いてほしい。

 ずっとそう思っていましたし、何度もそう言いかけたことがあります。しかし、先輩は決して自分が小説家であることを明かさず、三十手前で就職しようともしない、しがないフリーターを装っていたのです。

 それでも、先輩はさすがに作家らしく、私の大好きな文学に詳しくていろいろなことを教えて下さいました。それだけではなく、先輩はとても真面目で、仕事も丁寧で一生懸命。わたしが失敗してもすぐに、優しくフォローしてくれる。

 できればもっと長い時間をかけて、色々とお話したいと思いました。

 先輩はご自分を過小評価されますが、お顔立ちだってそう悪くはないのです。もともと私はあまり顔立ちを気にする方ではありませんが、申し分ない容姿に文学好き、それに真面目で優しい。一目惚れするタイプではないけれども、長い時間をかけてだんだん好きになっていく。先輩はそういうタイプの人でした。

 そうして気がついた時にはここでアルバイトを始めて一年。わたしは驚きました。わたしが関わって半年と持った職場はないのに、ここでは一年です。

 その頃には、わたしは先輩を好きになっていました。でも、わたしは血塗れの(ブラッディ)・ユサ。わたしに色恋沙汰で関わった男性はみんな様々な形で不幸になってしまいます。おかげでわたしは、この歳まで男性とお付き合いした経験はありません。もちろん、性的な意味で殿方の体に触れたこともないのです。

 初めてお付き合いする方が先輩だったら、と、わたしは何度も思いました。きっと素晴らしい文学の毎日。それに、先輩はとても真面目で優しい。きっと大切にしてくれるに違いありませんし、わたしも先輩を大切にしたい。でも、もし、わたしが先輩に告白したら、きっと彼を不幸にしてしまう。そう思うと、迂闊に会話をすることすら憚られます。

 それでも、休み時間の文学の話題だけは続けました。文学だけが、わたしと先輩の接点だったのです。どうして止められましょうか。


 一つだけ、わたしは先輩に不満を感じていました。

 帰り際、お店のはす向かいにある洋風居酒屋を覗くと、たまに先輩と吉川さんが二人で卓を囲んでいる姿を見ることでした。

 片方は地味な文学青年、もう片方は派手派手しいギャル。どう見ても釣り合わない組み合わせです。

 しかし、人の心はわからないもの。二人はお付き合いしているのかと思ったこともあります。そう考えると、わたしの心は穏やかではありません。なんであんな女と。なんであんな頭の緩い女と。先輩と文学を語り合えるのは、あの店ではわたしだけなのに。

 でも。

 わたしと付き合って不幸になるくらいなら、先輩は吉川さんのような明るい美人とお付き合いした方が幸せになれるかもしれない。

 そう思って自分を慰めたことも、一度や二度ではありませんでした。

 ところが、妙な噂が飛び込んできました。それは吉川さんと店長がお付き合いをしているという話です。これはおかしなことでした。その噂が本当だとすれば、店長は吉川さんと先輩が二人でお酒を飲むことに抵抗を感じていないのでしょうか。

 少し二人を観察して、すぐに気づきました。吉川さんと店長は、お付き合いをしているとは言うものの、喧嘩が絶えないようなのです。ほとんど一二週間おきに喧嘩しては仲直りし、また離れてはくっつく。どうせお互い見た目だけで選んだ相手でしょうから、そうなることは自明の理でしょう。しかし、恐ろしく面倒くさいカップルです。

 そんな吉川さんは、店長と険悪になるたびに、先輩を飲みに誘っているのです。おそらく、そうすることで店長の気を引こうという魂胆です。なんという面倒な女。なんという性悪な女。先輩に対してあまりにも失礼ではありませんか!

 くだんの洋風居酒屋は、店の表がガラス張りになっていて中が良く見えます。二人が向かい合い、先輩が楽しそうに話をする一方、吉川さんはさもつまらなそうに相づちを打つか、携帯電話をいじっている。そんなシーンを何度か見かけました。

 先輩、気づいてください。そいつに騙されているんです!

 何度そう叫びたかったか。でも、わたしはただ、歯を食いしばって耐えるだけでした。

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