4・人間補欠合格(2)

 翌朝。

 前日の遅刻の反省も込めて、俺はいつも出勤する時間の十分前にバイト先へ到着した。だが、いつも出入りする裏口は押しても引いてもびくともしなかった。そこへ、

「おいっす」「おはようございます、先輩」

 イケメン店長と吉川さん、二人揃っての到着である。

「あ、おはようございます。お二人ご一緒ですか」

「あ、ああ。さっきそこで会ってさ。はええじゃねえか」

「昨日は不覚を取りましたので、今朝は少々でも早くと思いまして」

「ああ、そのことか。いや、悪かったよ。ちょっと機嫌が悪くてさ、俺もあの後反省したんだ。考えてみりゃ、お前は遅刻は初めてだったもんな。ありゃ言い過ぎだったよ、うん」

 ここでも、俺は年下に(以下省略)。だが、店長も反省しているようなので、俺も謙虚にならざるを得ない。

「いえ、あれは自分の不徳ですので。店長の御説はごもっともであります」

「そんなにいじめるなよ、悪かったって。んで、昨夜は俺の悪口で盛り上がったか?」

「あれ、ご存じなんですか。いえ、悪口などということは。ただ、文学の話題で少々盛り上がっただけでして」

 嘘はついていないはずだ。

「文学? つまんねえ飲み会だな。まあいいや」

 そう言って、イケメン店長は裏口の鍵を開けた。店長の後に続いて、吉川さんも店に入る。

 この日、俺は一つの決意を持っていた。俺は吉川さんに告白しようと決めた。ただし「付き合ってください」とは言わない。ただ「好きだ」と言うに止めようと思っていた。

 次の自決を一体どのようにしようか、俺は決めあぐねていた。華厳の滝でもガスでも失敗した俺としては、芥川龍之介や詩人の金子みすゞがしたように、睡眠薬であるカルチモンの大量服用でこの世を去るのが理想的だったが、今どきカルチモンなどどこを探しても売っていない。致死量の睡眠薬も医師の処方が必要らしく、俺のような恨めしいほどの健康体ではそれを得ることも叶わない。

 まあ、次の方法はおいおい考えればよい。その前に、俺は吉川さんに告白せねばならない。これは二度の自決に失敗した俺に課せられた使命である。

 更衣室で着替えを済ませてフロアに出ると、カウンターに並んで店長と吉川さんが談笑していた。この二人、一昨日は喧嘩していたはずなのに、いつの間に仲直りしたのか。俺に対する態度を反省したのと同時に、吉川さんに対する態度も改めたのだろうか。だとすれば、大いに結構なことである。だが、俺と吉川さんと二人きりになった時でないと、告白などできようはずもない。愛の告白とは日常会話でさらりとするものではなく、厳粛に行うべきなのだ。


 やがて遊佐さんやオタク大学生が集まり、いつも通りの業務の開始である。昨日とは打って変わり、仕事は極めて和やかに進んだ。ただ、店を開いてから間もなく、それまでの晴天が嘘のようにかき曇り、空からは大粒の雨が降り出したのだった。ゲリラ豪雨というやつである。時折、遠くから雷の音さえ聞こえる。何やら不吉な予感がしないでもないが、まあ、大事の前の小事だ。

 業務は滞りなく進み、一時間の昼食休憩となった。前にも述べた通り、昼食はスタッフが時間をずらして取ることになるのだが、俺と遊佐さんは休憩時間が少し被るのである。

 その日も、休憩室に入ると、昼食を終えた遊佐さんが本を読んでいた。やはり、読書をする女性の姿というものは美しい。それが遊佐さんのような美人であればなおさらである。

 しかし、俺にとってあくまでも、遊佐さんは観賞用の美人といったところだ。もちろん彼女から「好きです」と言われれば嬉しいことこの上ない。だが、おそらく良い返事を期待できるのは俺が昼食を終えた頃にやって来る、吉川さんなのだ。

 そういえば、先日は遊佐さんと初めて二人で酒を交わし、彼女の意外な過去を聞いた。こんなにおとなしく美しく読書をする彼女が関わる職場は全て壊滅し、関わる男はことごとく不運に見舞われたという。まったく彼女のせいではないのに「血塗れのブラッディ・ユサ」などと有り難くない二つ名まで頂戴しているのだ。思えば気の毒なことである。

「遊佐さんは、このバイトを始めてどのくらい経つのだっけ?」

 訊くと、彼女は本から顔を上げて「うーん」と少し考え、「二年ぐらいですね」と答えた。

「それって、遊佐さんのバイト歴の中では長い方なの?」

「長いですよ、ほとんど奇跡です。前のバイト先は、長くても半年でどうにかなってしまいましたから」

「ふうん、それは長いなぁ……あ、いやいや、失敬。嫌味ではないよ」

「いえ、事実ですので。でも、たまに考えるんです。どうしてここでは、こんなに長く続いてるのか、って」

 遊佐さんは本を閉じ、俺の方を向いた。

「もしかしたら、わたしの不運を帳消しにしてくれるなにかが、ここにはあるんじゃないかと思うんです」

「ほう、なんだろそれは。もしかしてアレかね」

 親指で背後を指差す。そこには商売繁盛のお札を載せた神棚があった。あのミーハーなイケメン店長が神棚を拝むなどという奇特な真似はしない。ただ、このコーヒーショップの親会社がそういったものに造詣が深いらしく、チェーン店の事務室には必ず神棚があるのだという。だが、今はその神棚は埃を被り、蜘蛛の巣が張っている。御神酒もいつ交換したやら、中で腐っているだろう。この神棚が掃除されるのは、たまに本社からの視察が入る時だけである。御利益などありそうもない。

「いえ、神棚はこれまでのバイト先にもありましたから。ただひとつ言えるのは、マイナスとマイナスを掛けるとプラスになる。そんな数学的な作用が、ここにも働いているのではないかと、最近ではそう思っています」

「ほう。遊佐さんらしい文学的表現なような、そうでもないような」

「文学ではありませんよ、数学です。ただ、それは数式じゃなくて、こうして実際にも当てはまるんじゃないかなと、最近そう思ったという話です。でも」

「でも?」

「もう一つのマイナスが突然なくなったら、きっとこのお店も潰れちゃうと思います」

「恐ろしいことを言うね。そうなったら、俺もおまんまの食い上げだ。そうならないことを祈るよ」

 小説が売れさえすればそんな心配もなくなるのだが、当面はこうして暮らさねばならない。しかし俺は吉川さんに愛を告白したら間もなく死ぬつもりでいるので、飯を食う心配もなくなる。問題はどうやって死ぬかをまだ決めていないことだ。

「では、時間ですので。わたしはこれで戻ります」

 遊佐さんはバッグに本を仕舞った。ブックカバーが掛けられているので相変わらずタイトルはわからないが、俺の本でないことは確かだろう。

 遊佐さんが休憩室の戸を閉める姿を見て、俺もコンビニ弁当を開いた。テーブルのポットで即席の味噌汁を作り、箸でかき混ぜる。外ではたまに雷を交えながら、まるで礫のような雨が降り注いでいる。午前中よりも雨脚は強まり、止む気配はない。休憩室は禁煙であり、気持ちを落ち着かせるために外に出て一服しようと思ったが、この調子では一服吸い終えるまでにずぶ濡れになってしまうことだろう。

 だが、一服など必要ないほど、俺は不思議と落ち着いている自分に気づいた。

 これまで、俺が異性に愛を告白したことは初めてではない。

 最初は中学生の頃、部活の先輩であった初恋の相手に「付き合ってください」と直截に言ったが、「十年早い」と袖にされた。

 二度目は高校生の頃、隣のクラスの子に「我が恋に くらぶの山のさくら花 まなく散るとも 数はまさらじ」と古今集の坂上是則さかのうえのこれのりの和歌を書いて送ったが、「キモイ手紙が来た」と騒がれたのみに終わった。

 三度目は大学生である。手の込んだ恋文は高校生の頃に痛い目に遭ったので、今度は初心に戻って直截に告白したところOKを貰った。だが半年後、「文学馬鹿とは付き合えん」と一方的に別れを告げられた。お互い文学部なのに理不尽なことだった。

 その三度とも、告白を決めた前の日には夜も眠ることができないほど緊張していた。そしていざ、想い人を目の前にすると、心の臓はまるで別の生き物のように俺の体内で飛び跳ねた。そして袖にされた日の夜は、ただ枕を涙で濡らしたのである。

 だが、今回はどうだ。俺の心はまるで深山の湖のように落ち着いて清らかである。心臓も平常運転だ。これならば今吉川さんが現れたとて、

「おつかれさまでーす」

 来た!

 彼女の、この土砂降りの日にありながら太陽のような笑顔に、俺の心臓が撥ねた。彼女は俺の向かいの席に腰を下ろし、弁当の包みを開けた。

「それは、君が作ったのかい?」

「そうですよ」

 その弁当は手作りのそれだった。ふりかけをまぶした白いご飯に卵焼きが数切れ、タコさんウインナーといった、おおよそ手作り弁当の代表選手と言えるものが揃っていた。

「ずいぶんと気合いを入れたね。君はいい奥さんになるよ」

「はは、そうですかね」

 彼女は弁当を開いたまま、手を付けようともせず、ただただ、俺を見てにこにこ笑っていた。そんな彼女に「好きだ」とは言えても「付き合ってください」とは言えない、俺の身の上が悲しかった。もうすぐ死ぬ予定である俺と付き合うなど、彼女があまりにも哀れでならない。ただ、こうして二度に渡って自決を生き残った俺には、これが使命であるのだ。言わずに死ねるものか。

 俺はコンビニ弁当の殻を袋にまとめてゴミ箱に投げ入れ、居住まいを正した。背筋を伸ばし、両手を膝の上に置く。深呼吸を一つ。

「実は、吉川さん。君に言いたいことがある」

「はい、なんですか」

 相変わらず、彼女は弁当に手を付けず、俺を見つめている。

「付き合ってくれとは言わない。ただ、これだけは言っておこうと思う」

 さっきまで落ち着いていた俺だったが、この段階になって急に心臓が高鳴りはじめた。胸を押さえ、深呼吸を一つ。小石のような固い唾を飲み込んで、俺はようやく言った。

「好きだ」

「それはどうも」

「……へ?」

 あっけらかんと答えて、彼女は相変わらずにこにこと俺を見つめている。俺はと言えば、拍子抜け。拾った財布が空っぽだったような心境である。

「いや、あの、何かコメントはないのかい?」

「ああ、コメントですか。そうですねぇ。『付き合ってくれ』って言われなくてほっとしてます」

「な、なんだって?」

 思わず、俺は中腰に腰を浮かせる。そこへ、

「おつかれー」

 入ってきたのは、イケメン店長だった。彼の手には青いナプキンに包まれた弁当箱があった。

「なんだ、どうしたんだよ」

 俺と吉川さんを見比べながら、彼は吉川さんの隣に座って弁当の包みを開いた。そこから現れたのは、白いご飯にふりかけ、数切れの卵焼きにタコさんウインナー。おおよそ弁当の代表選手と言えるおかずである。そう、それはまったく吉川さんと同じ弁当。

 二人の弁当を見比べている俺に、吉川さんが言う。

「あれ、先輩、知らなかったんですか? わたしと店長、付き合ってるんですよ」

 その言葉は、特大の手裏剣のように、俺の胸へと突き刺さった。

「な、なんだって」

 ようやくそれだけを絞り出すと、今度はイケメン店長が言う。

「うん。去年からだな。誰にも教えてねえけど、公然の秘密だぜ。なに、知らなかったの? お前だけじゃねえの、知らなかったのは。お前、みんなに嫌われてんじゃねえの?」

「ねえ聞いてよ。先輩、わたしのことが好きなんだって。いまコクられたの」

「はあ? お前馬鹿だなぁ。こいつとお前が釣り合うかどうか、よく鏡と相談してこいよ」

 ここでの俺は、年下に「お前」呼ばわりされたことの怒りよりも羞恥心の方が勝った。途端に顔が熱くなる。こんなに酷い結末ってあるだろうか。

「そうそう、こいつがお前のことなんて言ってたか、参考までに教えてやろうか。いつも自分の知識をひけらかすだけでちっとも面白くないってさ。それと喋り方がキモイってよ」

「ごめんね、先輩。なんか勘違いさせちゃったかな」

 そうして二人は、弁当をつつき始めた。吉川さんがタコさんウインナーを「あーん」なんてしている姿を見た時には吐き気さえした。きゃらきゃらと笑い合い、頬をつつき合い、肩を寄せ合いながら、二人は昼休みを楽しんでいる。

 まるで目の前に俺なんぞ存在しないかのように。


 ぴしっ


 俺の心の中で、何かが音を立ててひび割れた。俺は、自分が吉川さんに愛されているとずっと勘違いしていたのか。俺は勘違いで、彼女と文学を天秤にかけていたのか。散々思わせぶりなことをしておいて、こいつはこうもあっさりと俺を馬鹿にするのか。

 俺の中で、それまで相反していた文学と恋が混じり合い、ミキサーに掛けられたように渦を巻く。それらは渦を巻くうちに黒が混じり、恋に浮かれていた桃色の心を、どす黒く染め抜いていった。

 俺の胸がすっかり黒く染まった時、いつの間にか叫んでいた。


「もういやだあああああああ!」


 休憩室を飛び出し、フロアに走り出る。バイトのオタク大学生を突き飛ばし、何事かとざわめく客を眼中に入れず、俺はゆっくり開く店の自動ドアをこじ開けた。

「先輩っ!」

 カウンターの奥から遊佐さんが叫んだように聞こえたが、どうでもいい。

 俺は土砂降りの駅前通りを、ただひたすら走っていた。大粒の雨が俺の顔面を嘲るように打ちのめす。走りながら、俺の胸をまるでウジ虫が食い荒らすように、これまで堪えていた本音が心の底から漏れてきた。

 俺だって本当のところはわかっている。小説は売れない。売れるわけがない。文学がどうこうではなく、俺には小説家としての才能がないのだ。才能がないから、売れないのだ。だから、誰も俺を相手にしてくれない。小説家になったこと自体が間違いだった。世の中が俺を理解しないのではない。俺が世の中を理解していないのでもない。俺が俺を理解していなかったのだ! 文学再興だと? どいつもこいつも萌えて死ね!


 文学なんぞクソ喰らえだ!


 人に愛されない。当然だ、売れない小説にしがみついて就職しようともしない、こんなプライドばかり高い三十手前のフリーターに一体どんな女が惚れるというのだ。せいぜい頭の軽い女が珍獣を眺めるように珍しがって寄ってくるのが関の山、こちらが好意を抱けば途端に逃げ散ってしまう。当然だ、フクロテナガザルやコモドオオトカゲに求愛されて喜ぶ女がいるものか。要するに、俺はキモイのだ!


 愛なんぞクソ喰らえだ!


 誰も、誰も俺のことを必要とはしていないのだ。小説家としての俺も、人間としての俺も、誰も必要としていない。俺は三十手前で妄想をこじらせただけの、一人のみみっちい人間にすぎないのだ。そんな下らない男が文学の復興だの愛を得ようだのと、高望みも甚だしい。一人暮らしを始めた時、確かに俺は「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と願ったかもしれない。だが、これはサービス過剰だ!


 クソ喰らえ、クソ喰らえ、こんな俺なんぞクソ喰らえ! こんな人間は今すぐ死んだほうが世の中のためだ!

       ※ ※ ※

「大変、またやらかします。それも今すぐ」

「ええっ、ちょっと間に合わないかも」

「わたしが行きます!」

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