4・人間補欠合格(1)
やけに心地よかった。さすがに夏らしく、暑いことは確かだが、体の上を時折そよ風が通り抜ける。それが実に気持ちいいのだ。亡者にとってあらゆる不都合を強いる地獄ならばそんなことはあるまいから、どうやらここは天国か、それに近い場所であると合点する。しかし、気になるのは、時々俺の頬や額を撫でる、さらさらした感触だ。例えるなら、柔らかい筆か刷毛のようなもので顔を撫でられているような感じ、とでも言おうか。
さて、いよいよあの世とのご対面と薄く目を開けてみて、俺は思わず「ひっ」と小さく叫んだ。俺の顔を少女が覗き込んでいたからだった。美しい少女とは言え、突然のドアップでは驚くなと言う方が無理と言うものだ。俺の顔を撫でていた妙な感触は、彼女の額から垂れ下がった長い黒髪だったのだった。
「あ、起きた起きた。おはよ、ウサギさん」
案の定、それは死神だった。彼女は俺が目を開けたのを確認すると、「よかった」と胸を撫でながら立ち上がり、俺を見下ろした。
「ほう、ここがあの世か。しかし、案外死ぬということはちょろいものだな。俺のアパートにそっくりじゃないか」
いや、そっくりどころかそのものである。枕元には昨夜飲み食いした寿司のパックと大吟醸の空き瓶、そしてタバコが放置してある。ただ変わっているのは、そこに死神が立っていることと、窓と玄関が全開になっていることだった。俺が感じていた心地よいそよ風は、すっかり風通しが良くなった部屋を駆け抜けていく風だった。
「なに寝ぼけてるの。ウサギさんは生きてるよ」
「な、なんだって、貴様、また邪魔したのか」
「してないよ。ウサギさん、今回は勝手に失敗しただけだよ」
「ばかな、なぜ失敗するんだ、昨夜はたしかにガスのコックを開けてから寝たはずだ」
「ウサギさん、案外こういうことを知らないんだね」
「な、なんだって?」
「あのね、現代のLPガスは有毒物質が含まれていないから、そう簡単には死なないんだよ。川端康成の頃は一酸化炭素が含まれていたから成功したのね。それにウサギさんの家って、ガス報知器が天井の方に付いてたでしょ。つまり空気よりも軽いガスっていうことだから、床まで溜まるのにかなり時間がかかるんだよ。空気より重かったら、もしかしたら窒息で成功できたかもね。残念でした」
「……ちっ、胸くそ悪い。今月のガス代は恐ろしいだろうな」
また失敗した。一度目は死神に邪魔され、二度目は俺の知識不足だった。悔し紛れに俺はタバコをくわえ、枕元のライターに手を伸ばしたのだが、
「だめ!」
その手を、死神が踏みつける。ライターと足に挟まれた俺の手がごりっと音を立てた。
「いってえええええ! なんだ、俺のアパートはいつの間に禁煙になった!」
だが死神は俺の手を踏みつけたまま、腰に手を当てて俺を見下ろす。
「さっき窓を開けたばっかりなんだから、いま火なんか使ったら爆発するよ!」
「わかったわかった! わかったから足退けろって!」
たしかに、このボロアパートには他に住人もいる。ここで爆発炎上などさせたら彼らも犠牲になるであろう。そうなったらざっとどんぶり勘定で罪が一ポイントどころか一気に数千ポイントは加算される。それほど罪深ければきっと地獄でも一番厳しいと言われる無間地獄に落ちるであろうことは請け合いだ。
それにしても、死ぬということは案外容易ではない。
「それよりも、ウサギさん」
ようやく俺の手から足を退け、死神は充電器に差しっぱなしになっていた携帯電話を指差した。
「さっきから何度も携帯が震えてるけど、いいの?」
「なに携帯が……やばい!」
携帯電話には多数の着信履歴があった。最初に遊佐さん、店から一件、店長の携帯から二件、そして吉川さんから一件。液晶の時計は、出勤時刻から三十分を過ぎていた。あの店でバイトを始めて四年、品行方正で真面目に勤務してきた俺の初遅刻だった。
これだけたくさんの着信がありながら、俺はまったく目が覚めなかったというのだろうか。そういえば、昨夜は携帯はマナーモードにした。目を覚ますつもりもなかったので目覚ましも切っていた。しかし、こうして生きているからには仕事をしなければならない。
そのまま携帯電話を尻ポケットに突っ込み、財布を逆のポケットに突っ込んだ。
「なに、どうしたの、ウサギさん」
「答えている暇はない。換気が終わったら戸締まりだけ頼む」
そう叫んで、俺はアパートを駆け出した。
※ ※ ※
「今朝やったみたいです。でも案の定でした」
「そうですか。お疲れ様でした」
「それより、だいぶ慌ててそっちに向かったみたいですから、どうか怒らないで優しくしてあげてくださいね」
「お、おはようございます!」
辛うじて開店には間に合った。だが、着替えて店に顔を出した時には、既に開店準備は終わっていた。言わずもがなの大遅刻である。フロアには気まずい沈黙が流れ、席ではオタク大学生二人がいつになく沈黙してこちらを見つめている。吉川さんと遊佐さんも、それまでしていたらしい会話を止め、俺を振り返る。そして店長は、そのイケメンをきりきりと引き締め、フロアの真ん中で仁王立ちになっていた。
「おはようじゃねえよ、今何時だと思ってんだ!」
つかつかと歩み寄り、まるで掴み掛からんばかりにして俺に顔を寄せた。背丈はほとんど変わらないが、俺はしおらしく縮こまった。
「お前、酒くせえぞ。次の日が仕事だってのにどんだけ飲んだんだ!」
ここでも、俺は年下に「お前」呼ばわりされることに対する怒りが勝った。だが、俺は大人だから喧嘩はしない。今度ばかりは悪いのは俺なのだ。
「申し訳ありません」
だがイケメン店長は眉をきりきりと逆立て、さらに声を大きくした。まるで某戦争映画の鬼軍曹である。
「申し訳ねえじゃねえよ、そんなんだからお前はいい歳してフリーターなんだよ」
ここでも俺は年下に「お前」呼ばわりされる(中略)。だが、俺は大人だから喧嘩はしない。心の中で7・62㎜フルメタルジャケット弾を装填するに留めた。
「お前、社会をなめてんだろ、昨夜お前と一緒に飲んでた吉川はちゃんと来てんだぞ」
ここでも俺は年下に(中略)。だが、俺は大人だから喧嘩はしない。
「遅れた理由があるなら言ってみろよ」
「あいや、その、うっかり目覚ましをかけ忘れまして」
「そんなのが理由になるか、このバカ。俺が何度も電話してんじゃねえか」
「それが、マナーモードにしてまして」
「寝ぼけた言い訳してんじゃねえぞ、お前!」
ここでも俺は年下に(中略)。だが、俺は大人だから喧嘩はしない。
「寝ぼけた奴は玉川上水でツラでも洗ってこい!」
そう、俺は大人だから喧嘩はしない。
「ほら、とっとと行ってツラ洗ってこいよ!」
年下相手に決して喧嘩はしないのだ。
「『僕は人間失格で~ちゅ』」
しない、断じて喧嘩なんぞしない!
「『生まれてしゅいましぇ~ん』ってな!」
喧嘩しないのだ!
「店長、時間です」
そこに突然、澄んだ声が響き渡る。遊佐さんだった。
「ちっ、お前ら、店開けろ」
呆然と見ていたオタク大学生二人に命ずると、彼らは顔を見合わせながら立ち上がり、入り口のブラインドを開けにかかった。俺は空気を抜かれた風船のように、へなへなと肩を落とした。
「もういい、ツラも見たくねえ。今日は俺に話しかけんな!」
そう言い捨てると、店長は俺を押しのけて休憩室兼事務室に入っていった。
荒々しく閉じられた引き戸の前で、俺はしばらく呆然としていた。
そこまで俺は悪かったのだろうか。たしかに遅刻は悪いことだ。しかし他のメンバーが遅刻することはたまにあるが、こんなふうに公開処刑された者などいないはずだ。これまでの勤務態度を思い出してみたが、この店で働き始めて四年間、俺は一度たりとも遅刻したことはなかった。他に奴の恨みを買うことをした覚えもない。
「ちょっと酷くない、今の」
とことこと近寄ってきたのは、吉川さんだった。思えば彼女も昨日、店長と一悶着あったばかりなのだった。
「あんなに怒ることないじゃないですか。ねぇ?」
「あ、いやいや、悪いのは俺だし、怒られても仕方ないさ」
「それにしたっておかしいですよ。先輩、遅刻したのは初めてじゃないですか。他の人が遅刻してもあんなに怒らないのに」
「そんな、たまたま虫の居所が悪かっただけだろ。俺は初遅刻のタイミングが少々悪かったに過ぎないのだ」
「ますます悪いですよ。ちょっと機嫌が悪いからって人に八つ当たりするなんて。大体、自分だってそんなに社会経験積んでるわけでもないのに」
「や、やめたまえ、聞こえてしまう」
最後の方は、ほとんど扉の向こうに居るであろう店長に聞かせるように大声でがなっていた。
「いいんです、聞こえても。あそこまで言われて喧嘩しなかった先輩の方がよほど大人ですよ。顔だけ良くて性格が悪い男なんて、サイッテー!」
「まあまあ、二人とも、もうお客さんが来ますから」
危ういところで、遊佐さんが止めてくれた。それから俺たちは平静を努めて仕事に励んだが、ついにその日、俺と店長は一言も口をきかず終いだった。
「やっぱりあの傲慢で高飛車なところがたまらんよねぇ」
「そうそう。でも、いきなり優しくなっちゃう」
「ありゃなんだろ、ツンデレとは違うんだよね」
「ツンデレじゃないね。傲慢でデレデレだからゴーデレとでも名付けようか」
「いいねぇ、ツンデレ、クーデレ、ヤンデレに続いて新しい萌え要素だ」
「広めよう、広めよう。さっそく掲示板に書き込もう」
俺を挟んで、二人のオタク大学生がアニメについて語る。その間で肩身の狭い思いをしながら、俺はお
場所は職場からほど近い駅前にあるチェーン店の居酒屋である。今日の飲み会の発起人は、俺を挟んでアニメ話に興じている二人の大学生らしい。なんでも今朝店長に公開処刑された俺を励まそうと開いてくれた飲み会らしいが、二人とも俺をそっちのけでアニメの話に興じている。そもそもこいつらはなんで俺を挟んで話をしたがるのか。男に体を挟まれて暑苦しいことこの上ない。
「ねえ聞きました? ゴーデレっすよゴーデレ」
「傲慢でデレデレ、ゴーデレゴーデレ!」
両側から肩を叩かれ、手に持ったお猪口から日本酒が数滴こぼれた。
「知るかそんなもの。そもそもツンデレとはよく聞くが、クーデレとかヤンデレとか、一体なんだ」
「萌え要素っすよ、萌え要素!」
「萌えですよ、時代は萌えですよ!」
「あのなぁ、君たちは学問を本分とした大学生だろう。最高学府に籍を置いている自分の立場を忘れちゃいかん。萌えだのなんだの言ってる暇があったら文学の一つも読みたまえ。学部はなんだ」
「僕は経済学部っす」
「自分は理工学部です」
「……それは失敬、文学とはあまり関係ないようだな。だが、文学作品は読んでおくべきだ、基礎的な教養だからな。そもそもアニメなんていけない。存在しないものに萌えだのなんだのと恋心を抱いているようでは日本の少子化が進行するばかりだ。いいか、絵に描いた餅は食えないのだよ。餅は自分で
現実を知っている年上らしく、俺は彼らに説教をした。だが、その直後、彼が放った言葉は俺の高説を吹っ飛ばす威力を持った爆弾であった。
「ああ、心配ないっす。自分、彼女いるんで」
「な、なにぃ!」これは不意打ちだった。だが、オタクのことだ。「まさか、壁に貼ったアニメの等身大ポスターを彼女だと言い張ってるんじゃあるまいな」
「違いますよ。ちゃんとした三次元の彼女っすよ」
「そうそう。二次元と三次元は別腹っすよ」
もう一人のオタクもからからと笑う。
「僕は彼女はいないっすけどね。でも、好きな子がいるんで、いま猛烈アタック中なんすよ!」
ここで、これまで敢えて避けてきたオタク大学生二人の容姿を説明しておこう。
世の中でオタクという言葉から想像するのは、真冬でもタンクトップ一枚で過ごしそうなほどでっぷり太った眼鏡にバンダナのニキビ面か、針金のようにやせ細った、やはり眼鏡の冴えない服装をした男だろう。背中にポスターでもはみ出たリュックを背負っていればなおよろしい。彼らに近寄れば自宅に籠もってひたすらゲームと漫画とラノベとアニメの鑑賞に費やすという無間地獄のような修行に陥った者特有の
「でも、文学かぁ。俺、壺井栄の『二十四の瞳』が大好きなんすよ、あれは号泣もんでしょ。大石先生萌えー! あんな人が担任になってくれたら俺、小学校に戻るわ」
「それもいいけどさぁ、俺はやっぱ森鴎外の『舞姫』好きだねぇ。あれこそ萌え小説の走りでしょ」
「萌えと言えば夢野久作も外せねえよ。『少女地獄』なんてめっちゃ萌えじゃん」
「『少女地獄』キター! 元祖ヤンデレ! 百合要素もあるしな!」
二人のオタクに自分の作品を「萌え」と評されて、文豪たちはあの世でどんな顔をしているだろうか。文学を語るには少々論点がずれているような気がするが、俺は彼らに対する印象に若干の修正を加えざるを得なくなった。
「萌えといえば」
ここで、意外な方向から声がかかった。
「島崎藤村の『破戒』に出てくるお志保なんかは、萌えじゃありませんか?」
「「遊佐さん、そこ来ますか!」」
二人のオタクが声を揃えて遊佐さんを指差した。
三人して「萌え萌え」と盛り上がり始めたので、俺は居場所をなくした。とは言え、目の前のお銚子にはまだ日本酒が半分以上残っている。席を立つわけにもいかない。何よりも、この飲み会はあくまで俺を励ますという名目で開かれているのだ。だが、その主賓を放り出して「萌え萌え」とはどういうことか。
もう一人、取り残されている人がいた。
俺は吉川さんと目が合い、どちらからともなく微笑んだ。
「いやはや、なんとも。文学は俺の最も得意とする分野なのだが、萌えを持ち出されてしまっては立つ瀬がないよ」
「ですよねー。萌えとか、キモイですよねー」
「そ、そうとも、萌えなんてキモイよ。そもそも文学作品に対して萌えだなんて、先人に対して失礼も甚だしい。そもそもだな」
俺が持論を発表しようと息を吸った時、時ならぬ電子音が響き渡った。
「あ、わたしの携帯だ。ちょっとすみません」
そう言うと、吉川さんはバッグから携帯電話を取り出して覗いた。どうやらメールであるらしい。それを一読するなり、吉川さんは「ごめんなさい」と席を立った。
「ちょっと用事ができちゃいました。悪いんですけど、お先に失礼しますね」
吉川さんは財布から千円札を数枚抜き出して遊佐さんに渡し、「それじゃ」と出口へ向かった。「おつかれさまでーす」の言葉を浴びつつ、彼女は手を振る。
吉川さんが出て行って間もなく、俺の携帯が鳴った。メールであるらしい。見ると吉川さんからのメールで、「今度は是非、二人きりで」と書かれていた。
次の自決はどうするか、それはまだ決まっていない。
しかし、川端康成をリスペクトした自決は失敗した。これは俺に何かを為せという天の意志かもしれない。それとはすなわち、最後に愛を得ることではないだろうか。
太宰治は正妻と多くの愛人に囲まれ、最期を遂げた。とは言え、まさか吉川さんに「一緒に死んでくれ」と頼むわけにもいかない。太宰のような贅沢は望むべくもないが、一人くらい俺を愛してくれる人がいて、それを確認してから死んでも遅くはないだろう。
太宰の後追いは御免被るが、死ぬのはそれからでも遅くはないと思った。
吉川さんからのメールには、俺の考えを変えさせるだけの威力があったのである。
※ ※ ※
「優しくしてあげました?」
「わたしなりには精一杯やりました。でも、どうだったかな」
「飲み会はどうでした?」
「萌えの話題ばっかりで居心地が悪そうでした」
「おっかしいなぁ」
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