3・愛されているうちに(6)
スーパーの閉店には間に合った。俺はそこで、いちばん高い大吟醸といちばん高い寿司(タイムセールで半額)を買った。もちろん、最後の晩餐、最後の晩酌とするためだ。
風呂に入らぬ不潔な体のまま死ぬことは気が引けたので、風呂道具一式を持って銭湯に行った。まあ、男の風呂なんぞ読者諸賢も見たくはないであろうから、描写は割愛する。
部屋に戻って遺書を用意した。前の遺書は日光から帰ってきてすぐに捨ててしまったが、幸いなことにパソコンにデータが残っていた。その日付だけを変えて印刷し直し、直筆の署名を書いて封筒に入れる。前回同様、家族宛て、友人宛て、編集宛て、バイト先宛ての四通を用意した。
それから最後の晩酌兼最後の晩餐である。高級な大吟醸を湯飲みに注ぎ、トロに醤油を付けて口に放り込んだ。
「なんだ、さび抜きか」
俺はわさびのがっつり効いた寿司が好物である。それこそ涙が出るくらいのものが嬉しい。仕方がないので冷蔵庫からチューブ入りのわさびを出して小皿にひねり出した。
「うん、まあまあ」
やっと好みの味に近づいた。大吟醸を一口含んだところで、少し寂しくなった。何かBGMでも掛けようかと思ったが、音楽CDの類は持ち合わせていない。仕方なしに、よせばいいのにテレビのスイッチを入れてしまった。
「あーっはっはっは」
同時にスピーカーから飛び出す、高飛車な高笑い。「またこいつか」と、俺はがっくりうなだれた。読者諸賢もご想像の通り、俺がここのところ目の敵にしている、あの萌えアニメである。
「あんたが女に好かれる顔か、下水のドブネズミとでも相談して出直してきな!」
「んなっ、なんたる言いぐさだ、名誉毀損で訴えるぞ!」
アニメの台詞に本気の突っ込みを入れながら、俺は湯飲みの大吟醸を一息に飲み干した。大体、下水のドブネズミに言葉が通じるものか。常識で考えろ。
「肥溜めで顔を洗ってこい!」
「貴様に言われたくないわ、この二次元平面性格ブスめ、貴様は硫酸で顔を洗え!」
俺はテレビを蹴り倒……せなかった。やはり、せっかく友人が好意でくれたものである。乱暴に電源を切るにとどめたのは、俺の紳士的配慮のおかげだ。感謝しろ、平面女。
部屋が静かになって、俺は「へっ」とテレビに向かって悪態をついた。
「なに、俺はもう死ぬんだ。平面女に何を言われようと屁でもないわ。死んだらきっと化けて出て、真っ先に貴様を呪い殺してやるからな」
くだくだと恨み言を口にしているうちに、やがて寿司のパックは
「よし、そろそろだな」
俺は立ち上がり、天井近くに備えられていたガス漏れ警報機のコンセントを抜いた。そしてコンロに接続されているゴムホースを引っこ抜き、コックをひねる。手をかざしてきちんとガスが出ていることを確認した。
いつもの代わり映えのない服であの世に行くのもなにかと思い、おしゃれ着に着替える。一張羅とまでは行かないが、ズボンは黒、シャツは青いストライプ。そしてチェック柄の夏用ジャケットを着た。いずれも少しは名の知れたブランド物だ。俺が少し気合いを入れて外出する時に着るもので、これならばあの世で敬愛する文豪たちに会っても恥を掻かずに済むだろう。不意の着信に邪魔されたくないので、携帯はマナーモードにして充電器に差した。
やがてこの部屋にはガスが充満し、その毒性が俺を静かにあの世へと誘ってくれる。
湯飲みに残った最後の大吟醸を飲み干し、枕元に愛用のカンカン帽を置いてポケットに扇子を押し込んだ。あの世がどんな気候かはわからないが、とにかく、この世は夏である。そうして、俺は聖域である万年床に横になった。胸にタオルケットを掛け、灯りを消して静かに目を閉じる。これでもう、俺は二度と目覚めることはない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます