3・愛されているうちに(5)

 翌朝、驚くべきことが起こった。

 俺の部屋に泊まって万年床を奪ったはずの兄貴の姿がどこにもなかった。かわりに、万年床の上に座っていたのは、見目麗しい女子高生(推定)だったのである。これを超常現象と言わずして何を言うのであろう。

「おはよ、ウサギさん」

「ああ、おはよう……じゃねえ! 兄貴をどこにやった?」

 それは超常現象などではなかった。万年床に座っていたのは死神だった。それが本当の死神ならば、それはそれで超常現象には違いないが、こいつは死神を名乗る変人であって、決して超常現象などではない。よもや彼女が兄貴に化けていたなどということはあるまい。

「知らないよぅ。あたしが来たときには誰もいなかったもん。それよりもさ、そんなところで寝てたら、いくら夏でも風邪ひくよ?」

「しょうがないだろ、兄貴が泊まりに来てたんだ」

「あ、兄貴って……もしかしてウサギさんって、そっち系?」

「貴様が腐女子だということはよくわかった。だが残念だったな。兄貴っていうのは実の兄のことだ。妙な勘違いをするな」

「冗談だよ、ウサギさん」

「ほどほどにしろ。朝一番から押しかけやがって、こちとら迷惑千万だ」

 携帯電話を充電器から外して液晶を見た。メールが一通届いているらしい。メールは兄貴からで、仕事のために俺が寝ているうちに部屋を出ることと、一晩泊めてもらった礼が、兄貴らしい無駄のない文章で書かれていた。

「ウサギさん、もうすぐ死ぬつもりなのに小説書いてるの?」

「俺は死ぬまで小説家だ、ぎりぎりまで書くさ。まあ、この小説は完成すまいが……」

 そこまで言って、俺はふと我に返った。昨夜はパソコンの電源を落とした記憶がない。恐る恐る振り返ると、かくして死神は、食い入るようにパソコンの画面を見つめていた。

「よ、よせ、見るな!」

 慌てて引っぺがすが、もう遅い。死神は突き飛ばされたまま畳の上に大の字になり、目を丸くしていた。

「萌え小説?」

「わ、忘れろ、いま見たものは全て忘れろ!」

 死神からパソコンを隠すようにして立ちはだかり、慌てて電源を落とした。

「ウサギさん、それが書き終わるまで死ぬのは延期したら?」

「やだ」

「どうして」

「俺はこんな小説を書いてしまう自分がほとほと嫌になったんだ。もう小説家としても終わりだ。今度こそ邪魔してくれるなよ」

 死神は「ふうん、そっか」としきりに頷いたあとで、俺を見た。

「ウサギさん、次に死ぬのはいつの予定?」

「さあな。今回はわざわざ遠くまで出かけるつもりもないし、手段もごく手軽だから、特に決めてはいない。今夜かもしれないし、来週かもしれない。まあ、近いうちとだけ言っておく。さて、仕事だ。お前も学校に行け」

「またそんなこと言う。お化けにゃ学校も~」

「試験もなんにもないってか。ふざけるのもいい加減にしろ。ちゃんと学校に行かないとろくな大人になれんぞ」

 昨夜は突然兄貴が訪ねてきたため、着替えをしていなかった。銭湯にも行っていないが、まあ、一日くらいは大丈夫だろう。それでも下着ぐらいは替えなければなるまい。

「女子高生に裸を見せる趣味はない。出て行け」

「もう、いちいち言葉がきっついなぁ」

 死神はへらへら笑いながら、のろのろと立ち上がり、何が入っているのか得体の知れないスポーツバッグを肩に担いだ。

「でも、ウサギさんがあたしのことを心配してくれてるのはわかるよ。なんだかんだ言って優しいもんね。ちょっとだけ好きだよ」

 出て行く間際に俺の肩をぽんと叩く。まあ、たしかにいちいち辛辣な言葉を投げたと思う。さっきだって、優しい言い方はいくらでもできたはずだ。それもこれも、彼女との異常な出会いのせいだろう。まともな現れ方をしてくれれば、俺だってもっと優しい言葉を掛けてやれただろうに。

 しかし、少なくとも嫌われているわけではなさそうだ。いよいよ、俺は愛されているうちに消えることができる。


「太宰治が入水したのは、実はこの近くなのだよ。俺もよく散歩に行くんだ。妻も子もあったというのに、愛人と手を紐で結んで心中するという、なんとも壮絶な死に方だ」

「へえ」

「しかし、その生き方自体は尊敬できるかというと、決してそうではない。これはあくまで俺個人の考えだがね。なにしろモテモテで小説も売れてるリア充だ。だがまあ、死に対する憧れは俺も理解が及ばないわけではない。太宰の繊細な心は彼の作品に絶妙な文章力でもってよく表現されている。能ある鷹は爪を隠すという言葉もあるが、太宰はただの天才ではなく、バカのふりをした天才と言える」

「そうですね」

 その日の夜、俺はまた吉川さんと、例の洋風居酒屋に落ち着いていた。

 今朝出勤すると、またもやなぜか、吉川さんは素っ気なかった。まあ、これはいつものことで、彼女なりの奥ゆかしさであろうと俺は解釈している。

 夕方の退勤時間間際、その吉川さんががなり立てる声が、店の裏から聞こえてきた。俺はすっかり帰り支度を済ませていたのだが、おかげで帰るに帰れない。おそらく吉川さんは、誰かと裏口で何事かを罵り合っているのだ。そんな場面に出くわすのは御免被るので、俺は休憩室でしばらく待っていた。

 休憩室は裏口に直結しているのだが、扉一枚を隔てているおかげで彼女が何についてそんなに怒っているのか、俺にはまったくわからなかった。気にはなるが、立ち聞きする趣味もないので、そわそわしながら待つしかないのである。

 だが、彼女も一人で怒鳴っているわけではないだろう。よく聞けば、彼女の怒声に混じって時々男のぼそぼそと喋る声も聞こえるが、やはり何を言っているかまでは聞き取れなかった。それにしても、なんだかわからんが早く終わってくれなければ帰れない。

「仕方ない、表から出るか」

 それは本来してはいけないことになっていたが、この場合は仕方ないだろう。そう思って立ち上がった時、裏口が開いた。

 そこにはなんだか恐ろしい顔をした吉川さんがいた。ばっちり化粧をされた目元はキツネのようで、眉毛もきりきりとつり上がっている。目は充血して赤かった。

「あ、先輩、もう上がりですか?」

 俺の顔を見るなり、吉川さんは突然笑顔になった。それこそ、分厚い雲の間から急に日が差したように。

「あ、ああ。いま帰るところだけど」

「ちょっと待っててください。飲みに行きましょうよ」

 常にはない、有無を言わせぬ口調だった。いつもだったら「飲みに行きませんか」だが、今回は「飲みに行きましょう」と来た。

 俺の返事を待つことなく彼女が更衣室に駆け込み、「女性使用中」の札を下げる。その時、裏口から苦み走った顔をした店長が入ってきた。いつもの爽やかなイケメンが台無しである。吉川さんと喧嘩していたのはこのイケメン店長だったのか。

「何かありましたか」

「ああ、ちょっとね。仕事のことだよ。お前は気にしなくていい」

 ここでも俺は年下にお前呼ばわりされることの怒りの方が(以下略)。

 まぁ、長く仕事をしていれば意見の衝突だって起きることだろう。おまけに吉川さんは、あのように奥ゆかしくありながらも思ったことははっきりと口にするタイプだ。言葉の取り方一つで口論になることだってある話だ。そんなことがあったっていいじゃないか、人間だもの。みつを。

「お待たせしました」

 やがて吉川さんが、夏らしいピンク色のキャミソールに薄いカーディガンを纏った姿で戻ってくる。彼女は「早く行きましょう」と俺の手を取り、店長を一瞥した。

「で、ではお先に」

 頭を下げる俺に、店長はただ「おう」とだけ言って、店へと戻っていった。

 そんな成り行きで、今、俺は吉川さんと差し向かいで飲んでいるのである。

「すごいなぁ、先輩と一緒にいると、どんどん賢くなるような気がします」

 俺の演説が終わると、彼女はそう言っていつも褒めてくれた。自分で喋っておいてなんだが、普通の女性だったら飽きてしまいそうな演説も、彼女は口を挟まずに静かに聴いてくれる。

「それにしても、今日は店長と一体何があったんだい?」

「あ、えっと、その」吉川さんは一瞬迷ってから言った。「カップを一つ割っちゃって、それで」

「なに、それだけのことで?」

「そうなんです。あんまりくどくど言うもんだから、わたしもちょっとキレちゃって」

 コーヒーショップはその仕事柄、割れ物を扱うことが多い。そんなさなかで、ふとした不注意で割ってしまうことも珍しくはない。

「君にあんな大声を出させるくらいだから、店長もよほどしつこく言ったのだろうね」

「そうなんです。もう、ほんと、マジむかつく。先輩はどうですか、カップを割るような女って嫌いですか?」

 吉川さんは身を乗り出し、上目遣いに訊く。俺はそんな仕草や目線に免疫があるわけもなく、酒の酔いとはまた別に頬が熱くなるのを感じた。

「何を言ってるんだ、番町皿屋敷じゃないんだぜ。ましてうちのカップは古伊万里やマイセンでもない。百円玉でお釣りの来るような安物のカップを割ったところでそんなにしつこく言うものか」

「よかったぁ。先輩、頭いいし、優しいから好きです」

「んがっ」

 俺は慌ててビールを飲んだ。

 ここで彼女の言う「好き」について若干の考察をしなければならない。そもそも俺の常識の中では愛の告白というものはもっと厳粛に行うべきものであり、決してこのような会話の途中でさらりとするものではない。よって、彼女の言う「好き」とは、英語に直すと「Like」であり、決して「Love」ではないと思われる。だが、彼女の顔は一体どうだ。身を乗り出し、上目遣いで、頬はかすかに赤い。

 いやいや待て、自惚れるな。彼女は俺を好きとは言ったが、愛してるとは言っていないじゃないか。

 もし彼女に真剣に愛を告白されたならば、俺は自決への決意が鈍るだろう。俺だってそうそう強い人間ではない。広義に解釈すれば、川端の言う「愛されているうちに消えるのが一番」の「愛」は、必ずしも「Love」を意味しない。間もなく死ぬつもりでいる俺に「Love」は重すぎる。

「しかしまぁ、あの店長もだね、カップを割ったくらいでそこまでネチネチ言うのはどうかと思うが、なに、たまたま虫の居所が悪かっただけだろう。たしかに口の利き方はなっていないが、あれで心根は優しいと思うのだね。それにイケメンだし、何より正社員だから仕事も安定している。俺なんかよりずっと頼りがいのある相手に違いないさ」

 敢えて店長のフォローをすることで、俺は吉川さんの気持ちを店長に向けようとした。だが、逆効果だった。

「あんな店長の心配までするなんて、やっぱり先輩って、優しい!」

 俺は覚悟を決めた。今夜中に死のう。

 ※ ※ ※

「入水もあり得ますね」

「ということは、玉川上水でしょうか」

「彼のことだから、きっとそうです」

「わかりやすくて助かりますね」

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