3・愛されているうちに(4)
連休明けの初日。すなわち自決に失敗した連休明けの初日である。
今日のバイトは遅番なので、俺は珍しく健康的に散歩に繰りだしていた。代わり映えのないジーンズにカッターシャツだったが、今日は朝からよく晴れていて日差しも鋭く、インドア派の文学青年である俺は
見慣れた住宅街を歩くことしばらく、やがて道は土が剥き出しの遊歩道へと差し掛かる。遊歩道は小川を挟んで二つあり、周りは木立で囲われていていくらか涼しい。そよ風が麦わらのカンカン帽を通り抜けて心地よいので、俺は家を出てから開きっぱなしだった扇子を閉じた。
休憩のつもりで遊歩道と小川を隔てる柵にもたれ、その水面を眺める。東京の川にしては澄んだ水がとろとろと流れ、目に涼しいことこの上ない。この小川こそ玉川上水である。
この小川は天然の川ではない。江戸時代に江戸市中への水の供給を目的に整備された上水道であり、その長さは上流の羽村市から新宿区の四谷まで、およそ四十三キロに及ぶ。
江戸の市民の喉を潤す上水道の役目を果たした一方、この玉川上水はかつて自殺の名所であった。この小川に身を投げた多くの人の中の一人に、「走れメロス」や「人間失格」で有名な太宰治がいる。太宰は昭和二十三年の六月、愛人と両手を紐で結んでこの川で死を遂げた。
「美しくないな」
「なにが美しくないの?」
答える者のないと思われたところに現れた突然の答えに、俺は飛び上がった。危うく愛用のカンカン帽が川に落ちそうになり、慌てて右手で押さえた。
「また貴様か」
もはやこいつがいきなり現れても意外でも何でもない。案の定、そこにいたのは死神である。彼女もさすがに暑くなったと見えて、黒いパーカーを黒いノースリーブのシャツに替えていた。肩も露わなその両腕は、この真夏にあっても驚きの白さだ。
「なぜ、俺がここにいるとわかった」
「死の匂いがあるところに死神は現れるんだよ」
「そんなに匂うか? 昨夜銭湯に行ったばかりなんだが」
腕の匂いを嗅いでみるが、自分の匂いとはわからないものだ。
「こんどは玉川上水に身投げするの? ここって太宰治が身投げしたところでしょ?」
「いや、そうじゃない。俺は太宰の文学的才能は尊敬するが、人間的にはどうも好きになれんのだよ」
「へえ、どうして?」
死神が小首を傾げる。その動作につられて揺れる黒髪があまりにも美しくて、俺は思わず目を逸らした。
「一体、太宰は贅沢に過ぎるではないか。正妻の他に多数の愛人を囲っていたし、おまけに小説はバカ売れ。リア充にもほどがある。そのくせ自殺未遂四回。五回目にしてやっと成功だ。どんだけ死にたいんだって話だが、それに対して俺は小説は売れず、愛人どころか妻も恋人もいない。おまけにせっかくの覚悟は貴様によって邪魔された。共通しているのは死への憧れだけだ」
死神は「えへへ、それほどでも」と頭を掻いた。どこをどう取れば褒め言葉に聞こえるんだ。
「でも、好きな人はいるんでしょ?」
「ああ、いる。しかし彼女に一緒に死んでくれと頼むわけにもいくまい。この恋は成就させてはいかんのだ。俺の目的は断じて痴情のもつれなどではなく、一命を以て文学再興の
死神は答えるかわりに、俺の隣に並んで柵にもたれかかった。黒いスニーカーで蹴飛ばした小石が、玉川上水の水面に波紋を作る。
「けっこうな気概だわね。でも、太宰治にとっては、文学よりも恋の方が重かったってことでしょ。ウサギさんは逆なんだね。それってどうなの。ウサギさんのことを好きっていう人もいるんだよ。お付き合いしたいっていう人もいるんだよ。できれば結婚したいとも言ってくれる人もいるんだよ。そういう人には申し訳ないと思わない?」
俺も小川の方に向き直り、足下の小石を蹴った。しかしそれは当たり所が悪く、あさっての方角に飛んでいってしまった。
「吉川さんのことを言っているのか」
吉川さんの名前を出して、ふと俺は言葉に詰まった。先日のことと言い、この死神もまた俺に何らかの気があるのではないか。だからこそ、死神なんぞという突拍子もない嘘を吐いてまで俺に付きまとっているのではないのか。
だが、すぐに、そんなわけはないと打ち消す。ついこの前まで全く面識のなかった女子高生(推定)が俺を好いているなど、自惚れも甚だしい。これが顔出しもしている売れっ子の作家だったら話は違ってくるのだろうが、俺のような売れない小説家が見も知らない少女から愛されるなどということがあるわけがないのだ。そもそも女子高生は俺の守備範囲から外れる。
「なに、彼女はまだ若い。俺のような売れない小説家なんぞよりも似合った相手がいるさ。よしんばそれが吉川さんでなかったとしてもだ。それよりも、死神のくせに自決を思いとどまらせるようなことを言うんじゃない」
「別に止めはしないけどさ。ただ、正しく死んでもらわなきゃ困るっていう話だよ」
「なんだそりゃ。それよりも、そろそろバイトの時間だ。戻らないと遅刻してしまう。付いてくるなよ」
いつも「付いてくるな」と言っても付いてくるのが死神だ。だが彼女は「お仕事頑張ってね~」と手を振った。俺も軽く手を振り、その場をあとにした。
もう二度と来ることはないと思った職場である。裏口を開けると、見慣れた休憩室兼事務所兼在庫の豆置き場が現れる。見慣れているはずなのに、なぜか初めてここを訪れたような気持ちになった。
「おはようございます」
昼でも夜でも「おはようございます」と挨拶するのがこの店の習わしだ。こと、これはこの店に限ったことではなく、芸能界はもちろんのこと、多くの店舗で使われているらしい。無論、正しい日本語ではない。それでも、そうしろと言われているからには従わねばならないのは
「おはよござーっす、おつかれーっす」
俺と入れ違いに、オタク大学生のバイトが私服に着替えて出て行った。俺は「ああ、お疲れさん」とそぞろに返して更衣室に入る。店のユニフォームである黒のスラックスと白いワイシャツを身につけ、さらに黒いエプロンを掛けて更衣室を出ると、イケメン店長がいた。店長は棚からコーヒー豆を取り出している。
「おはようございます。これ、日光のお土産です」
「おおサンキュ。なんだお前、日光に行ってたのか」
礼を言われたことよりも年下にお前呼ばわりされたことの怒りの方が勝った。だが、俺は大人なので喧嘩はしない。
「ええ。遊びではなかったのですが、旅行には違いないので」
菓子の包みをテーブルに置き、俺はフロアへと出た。
「先輩、昨夜はすみませんでした、おごってもらっちゃって」
フロアへ出るなり声を掛けてきたのは遊佐さんだった。彼女は少しはにかみながら、上目遣いに俺を見た。
「ああ、なんでもないさ。日光のお土産があるから、食べたまえ」
彼女の横を通り過ぎながら、俺はフロアに目を配る。そしてカウンターの奥に、吉川さんを見つけた。俺は努めて何気ない風を装って彼女に近づく。
「やあ、吉川さん。昨夜はどうも。日光のお土産があるからね」
だが彼女はコーヒーメーカーから顔を上げず、ただ「はあ、どうも」と小さく頷いただけだった。素晴らしい。職務に忠実だ。
それにしても、この店のスタッフは全員、俺が四日の連休の間に死地を彷徨ったなどとは想像だにするまい。奇妙な優越感に浸りながら、俺は仕事をこなす。仕事そのものについて語ることはほとんどないので割愛する。
遅番の仕事が終わるのは、店の閉店と同時の午後十時である。それよりも前の夕方に遊佐さんも吉川さんも帰り、残るは俺とイケメン店長のみになった。客のいなくなったフロアにモップを掛け、閉店作業を行う。するとどうしたことか、カウンターの奥で金の勘定をしていた店長が、珍しく俺に話しかけてきたのだった。
「お前、最近吉川とはどうなの?」
俺の心臓がひときわ大きく膨らんだ。しかし、ここでも、俺は年下にお前呼ばわりされたことの怒りの方が(以下省略)。なので、俺はせめて年上らしくとぼけてみせた。
「どう、と申されますと?」
「何度か二人で飲んでるみたいじゃん。あそこの店で見たぜ?」
そう言って店長が指差す先には、例の洋風居酒屋があった。
「ああ、たしかに彼女とは何度か酒席を供にしていますが……いやしかし、自分と彼女とはお互いに知的好奇心を満たすだけの間柄でして、これといって何があったわけでもありません」吉川さんとの仲は、人に話すほどまでに進展しているわけではない。よって、俺が話したことの大部分は真実である。「いけませんな、店長。もし勘繰っておられるなら、吉川さんにお訊ねになるとよろしい。彼女はあれでなかなか知識に理解があり、その意欲も旺盛なのです。ただ自分は彼女の賞賛すべき知識欲を満たす役目を負っているにすぎませんよ」
「ふうん。なら、いいんだけどさ。でも、どうだろ。お前には吉川より遊佐の方が似合う気がするなぁ。趣味も合うみたいだし、いいんじゃね?」
そう言って、店長はにんまりと笑った。そこで、俺は察した。
このイケメン店長、吉川さんに惚れていやがるのだ!
ならば、俺は喜んで彼女を譲ろう。俺はこれ以上、吉川さんとの仲を進展させるつもりはない。吉川さんも俺のような売れない小説家よりも店長のようなイケメンの正社員と添い遂げた方が幸せだろう。だが、イケメン店長にはもう少し我慢して貰わねばならない。そう、俺がこの世を去るまでは。喜べ店長。それは間もなくだ。
遅番になると、帰る頃にはスーパーは閉まっている。少々割高だが、コンビニでカップ酒を買った。コンビニ袋を提げつつたどり着いた俺のアパートには、灯りが点いていた。
「またあいつか!」
時刻は既に午後十一時を回っている。こんな時間に女子高生を部屋に連れ込んでいるなどと知れてはあまりにも外聞が悪い。
「おいこら、貴様!」
玄関を開けるなりそう怒鳴りつけたが、万年床の上であぐらを掻いていたのは、意外な人物だった。
「なんだなんだ。いきなり貴様呼ばわりとは御挨拶じゃねえか。一晩泊めてくれや。それよりも、合い鍵の隠し場所はもうちょっと工夫したほうがいいぜ」
「あ、いや、ちょっと知り合いと勘違いしちまってな。何をしに来たんだ、兄貴」
俺の聖域である万年床にあぐらを掻いてタバコを
兄貴は俺よりもほんの少し身長が低いが、俺と同じ大学を卒業して四年ほど自衛隊で鉄砲を撃った後、現在でも予備自衛官として自衛隊に籍を置きながら地元で名の知れた企業に就職し、同い年の幼馴染みを妻に迎えて順風満帆の人生を送っている、俺とは対極をなす存在だ。つまりリア充である。そして、俺の何より苦手な人物だ。
「出張で東京まで出たはいいんだけど、宿を取るのを忘れちまってさ。というわけで、一晩世話になるぜ」
いいや、そうではない。出張というのは本当だろうが、きっと兄貴はそのついでに両親に言われるかなにかして俺の様子を見に来たのだ。これまでも何度かそんなことがあった。
兄貴は短く刈り揃えたいかにもスポーツマン的な髪を一撫でして、ネクタイを緩めた。上着は既に脱いでいる。ワイシャツを通してさえ感じられる隆々とした筋肉は、少し腹が出た以外は自衛隊にいた頃からまったく衰えてはいない。
「いいもん持ってるな。一つよこせよ」
「あ、ああ」
コンビニ袋からカップ酒を一つ渡すと、兄貴は遠慮無くその蓋を開けてぐいっと呷った。酒豪はうちの家系だ。俺も兄貴の前に正座して、タバコをくわえつつカップ酒を開けた。お互い、乾杯もなく安い酒を呷る。
「お前、まだ小説なんか書いてるのか? 二冊目が出たって話以来、何年経つんだよ」
兄貴がパソコンとプリンターを見て言った。
「なんかとはなんだ。それより、美鈴さんと龍之介は元気か?」
「おう、元気だよ。龍之介は
「暇じゃないし、自衛隊で四年も心配を掛けた兄貴に言われたくないぜ」
「ばっか、それとこれとは話が違うだろうが。まして自衛隊ほど立派で堅実な仕事もないし、心配もされてねえ。それに今は転職している。だが、お前のは七年越しの不安定で現在進行形だ。お前、フリーターだろ」
「し、失敬な。小説家だ!」
「小説とバイト、どっちの稼ぎが多いんだよ?」
「そ、それは……」
「大体、小説なんてだめだね。言いたいことなんてほんの二三行なのに、それを言うために何百枚も紙を使うんだぜ? 環境に優しくねえ。それだって売れてりゃ話はわかる。たとえば京極夏彦や松岡圭祐や晃昭錬太郎みたいにな」
「ま、また晃昭錬太郎! あんなのを読むと痔になるぞ」
「ならねえよ、現に俺がなってねえ」
あのように言ったが、兄貴は作家の名前をよく知っている。実際のところ、兄貴だって小説が好きなのだ。ただ、俺は書くのが好きで、兄貴は読むのが好きなのだ。好きな小説を
兄貴が俺の足を指差して「なに正座してんだ」と言うので、俺は足を崩した。
「はっきり言うけどさぁ、お前の小説、ありゃ売れねえよ。もうすぐ三十だろ。ここらで見切りを付けないと痛い目を見るぞ。そうなってから後悔したって遅いぜ? 心配してんのは俺だけじゃねえんだぞ?」
兄貴の何が苦手かと言うと、こうして親族の目線で小説家たる俺を否定することだ。しかも親族だけにその言葉には遠慮がない。多くの人がなかなか面と向かって言えないことを、まるでタバコを踏み消すように言う。
「し、しかし、この文学不在の世の中で文学に身を捧げる者が一人くらい居たっていいじゃないか」
「それがおかしいって言うの。なんでそれがお前なんだよ。自分の才能も活かせない人間が文学だなんて、森鴎外や夏目漱石に申し訳ねえと思わねえのか?」
果敢に抵抗する俺を、兄貴は無碍に否定する。俺が死ねば、こんな兄貴の考え方も変わるのだろうか。
「つ、次こそは、次こそは、だ。日本の文学史に俺の名前を刻んでみせる」
死ぬことによってな。
「本当にお前はバカだな。どんだけの人間に心配かけてるんだって言うの。バカだが頭が悪くないことと真面目なことが取り柄なのになぁ」
そう言って、兄貴はカップ酒を飲み干し、俺の万年床に横になった。
「おい、そこは俺の寝床だ」
「たまに来てやった兄弟だ、いいじゃねえか」
「来てくれと頼んだ覚えはないぞ。おい、兄貴!」
俺が言い終えるよりも早く、兄貴は高いびきをかき始める。そういえば出張と言っていたが、よほど疲れているんだろう。俺は兄貴の腹の上にタオルケットをぶん投げてやって、パソコンの電源を入れた。
「なんで俺はこんなものを書いてるんだ」
そこに書き綴る小説は、俺にとっては誠に不本意なものだった。それは以前、酔った勢いでプロットを作った俺なりの萌え小説だった。しかし、不本意なはずなのに、やたらと筆が進む。キーボードを滑るように動く自分の指を切り落としたいと思ったが、実行はさすがに躊躇われた。こうなるともはや、自分という存在がわからない。俺はなぜ、あれほど忌み嫌った萌え小説を書いているのだ。俺が目指しているのは、そして命を捨ててまで守ろうとしているのは、現代では途絶えて久しい明治や昭和初期頃に存在した、美しい文学ではないのか。俺自身が文学の破壊者となってどうするというのだ。
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