3・愛されているうちに(3)

 銀座線の車両に乗り込むなり、死神はがっくりとうなだれてすやすやと寝息を立てはじめた。これは助かる。このまま終点の渋谷まで乗らなければならない。しかし、こいつは一体どこに住んでいるのだ。住んでいる場所さえわかれば送って行ってやるのだが、そんな質問をしてもこれまで通りはぐらかされるだけだろう。

 結局、誠に不本意ながら、俺はまた死神をアパートに連れ込む羽目になった。なかば意識を失っていた死神を担いで電車を乗り換えるのは難儀だったため、タクシーを使った。手痛い出費だ。

 死神を万年床に寝かせ、いまいち飲み足りない俺は冷蔵庫から買い置きのビールを出した。プルタブを開け、その手で本棚から一冊の本を抜きだして開く。その後ろで、「ふむぅ~」と「もにゃぁ~」を足したような、おかしなうなり声とともに、もそりと寝返りを打つ音が聞こえた。

「うー、頭痛い~、ここどこ?」

「俺のアパートだ。冷蔵庫に水が入ってるから飲め」

「ふうん、そっか。わざわざ連れてきたの? 浅草から?」

「あんな状態で放り出しておけるか。貴様の家を知っていれば送っていってやったものを、これじゃどうにもならん。それに、これで二度目だが、三十手前の男が女子高生を連れ込んでいるってのはどうにも外聞が悪い。今後はしてくれるな」

 俺の呟きのような言葉には答えがなく、かわりに背後で立ち上がる音が聞こえた。死神は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出したらしい。その蓋を開けてぎゅぽぽぽと水を飲む音を立てながら、彼女は俺の背後に立った。

「やっぱり、なんだかんだ言って優しいよね、ウサギさんって。ちょっと好きかも」

 そう言って、死神は俺の後頭部に額をこつんと当てた。

「じゃあ、帰るね」

「もう大丈夫なのか? 吐き気はしないか?」

「うん、大丈夫。またね」

 玄関を開けて閉める音。そして廊下を走り去って行く音。ついぞ、彼女の顔は見なかった。それにしても女とはお得な生き物である。男が女に同じことをしたならば変態呼ばわりは避けられないだろう。ただし、イケメンを除く。

「愛されているうちに消えるのが一番、か」

 死神を名乗る変人女子高生(推定)とは言え、悪い気分ではなかった。読んでいた本に栞を挟んで閉じ、タバコに火を点けた。手元の本は新潮文庫の「山の音」である。鎌倉の美しい風物とともに描かれるこの物語は文芸評論家の山本健吉をして「戦後の日本文学の最高峰」と言わしめた川端康成の作である。この作品の中に、「人間は愛されているうちに消えるのが一番よい」との名台詞がある。ここで俺は文学と恋を天秤に掛けねばならなかった。


「まったく、川端康成の作品というのはどれも美しいのだよ。川端の作品といえば『雪国』や『伊豆の踊子』なんかはみんな知ってるだろうが、俺はどちらかというと『山の音』や『むすめごころ』の方が好きだね」

「へえ」

「しかし、川端の繊細な文学は短編にこそよく現れていると思うのだ。特に『化粧』なんかはほんの数ページで終わってしまうような短い小説だが、川端らしさがよく現れた実に美しい、秀逸な作品だ」

「そうなんですか」

「ノーベル文学賞の授賞式には燕尾服ではなく、紋付き袴で出席したそうだよ。その時の記念講演の演題は『美しい日本の私、その序説』という。本当に川端は日本を愛し、日本語の美しさを究めた作家と言えるのだろうね」

「すごいですね」

 俺の目の前には吉川さんがいた。いつもの、バイト先のコーヒーショップのはす向かいにある洋風居酒屋である。

 この世を去るべく四日間の連休を取ったが果たされなかったため、連休最後の今日は丸一日が空いてしまったのである。昼間は小説を書いていたが、夕方には行き詰まり、さてどうしようかと思っていたところに吉川さんから飲みの誘いのメールが届いたのであった。検討するまでもなく承諾した。その結果、俺はここで川端康成についての持論を展開している。

 じっとしていても、明日にはまた彼女とは会えるのだが、仕事で会うこととプライベートで会うことではだいぶ意味が違う。何より、死ぬまでに一日分多く彼女と会えるという事実が嬉しかった。

「吉川さん、少し酔ったかい?」

 彼女の目があらぬ方向を向いていたので訊ねると、彼女はぱっと可愛らしい笑顔を浮かべ、「いえいえ、なんでもないんです。すごいなぁ、先輩と一緒にいると、どんどん賢くなるような気がします」と言った。しかし、彼女の左手には携帯電話が握られている。「すみません、急にメールが来ちゃって」

「ああ、メールか。構わないからゆっくり打ちたまえ、誤字があっては相手に失礼だからね。しかし、俺は自分の知っていることを喋っているだけで、たいしたことはないのだよ」

「そんなことありませんよ」そこで一度言葉を切り、吉川さんは携帯電話から顔を上げ、上目遣いにして「わたし、もっと賢くなりたいです」と言った。

 俺の胸が大きく鳴った。胸の筋肉がもう少し薄かったならば、俺の心臓は自爆テロを起こして店中を鮮血に染めるテロリストとなったことだろう。

「知識は共有すべきものだ。自分一人に収めておいても仕方がないからね」

 お付き合いしましょう。受け取りようによってはそうとも聞こえる言葉を残して飲み会を締めるのは、いつものことだった。

 しかし、この恋は進展しないに限る。間もなく死のうとしている俺が、この世に恋愛感情を残すことはあってはならない。

 文学と恋。どちらが重いかといえば、やはり文学だった。恋は俺個人のことにすぎないが、文学は違う。このまま腐らせていたら日本全体の損失になる。俺は命を懸けてその腐敗を止めねばならないのだ。


 店の前で吉川さんと別れ、彼女は駅の方へと歩いてゆく。気分がいいし、バイト代も振り込まれたばかりなのでどこかでもう一杯ひっかけてやろうかと、駅前通りをぶらぶら歩いた。吉川さんはそれほど酒が強くないので、いつも終わりは早い。時間はまだ夜の八時といったところで、酒飲みにとってはこれからが本番である。

 駅前通りとあって、飲み屋は何軒か存在する。ちょうど目の前に赤い提灯をぶら下げた居酒屋があったが、今日は日本酒よりも洋酒の気分だ。その店を通り過ぎようとしたとき、扉が開いた。

「あっと、失礼」

 出てきた人物と危うくぶつかりそうになって、俺と彼女の目が合った。

「先輩?」

「遊佐さんじゃないか」

 彼女の出てきた居酒屋を見た。濁ったガラスから覗き込むと、近所のおやじとおぼしき中年の男たちがテーブルを囲んで酒を呷っている。黄色みのかかった、元は白かったであろうカウンターには中年の男が酔いつぶれて突っ伏し、壁紙の剥げた調理場ではねじり鉢巻きをしたおやじが焼き鳥を焼いていた。俺自身は嫌いな雰囲気の店ではないが、遊佐さんのような女性が一人で入るには少し抵抗がなかろうか。

「意外だね、遊佐さんはこういう店が好きなの?」

「いいえ、そういうわけでも。なんでもいいから、お酒が飲みたかったのです」

「そりゃまた一体……」

 いつも冷静で知的で清楚な彼女が、なんでもいいから酒を飲みたいと言うほどまでやさぐれるとは、一体何があったのだろう。

 見れば、彼女はこの暑いのに、紺色のパンツスーツをぴっちりと着こなしていた。いつもバイトに来る時に着ているような普段着ではない。その理由におおかたの予想は付いたが、俺は敢えて言った。

「話があるなら聞くよ、場所を変えようじゃないか。なに、俺なら心配することはない、人畜無害なのは君も知っているだろう」

「人畜無害かは知りませんが、信用はしています」

「どれくらい飲んだの?」

「ビールを大瓶で二本と、日本酒を四合ぐらいでしょうか」

「……こいつは驚いた」

 けっこうな量だ。にもかかわらず、彼女の足取りはしっかりしているし、顔も赤くはない。もはや酒豪の域だ。これならもう少し飲んでも心配あるまいと思い、俺たちは小さなバーに落ち着いた。

「いらっしゃい」

 ドアベルの音とともに、カウンターの奥でグラスを磨いていたヒゲ面のマスターがこちらを向く。思えば妙な組み合わせだ。かたやリクルートスーツに身を固めた、長い黒髪の知的清楚な女性、かたやジーパンにカッターシャツというラフな格好の男。店主はどう思ったかわからないが、もちろん、敢えて訊ねられることはない。カウンターしかない、ウナギの寝床のような細長い店ではあるが、店は薄暗く、五つあるスツールの上から、それぞれピンスポットのように白い照明が照らす。大量のボトルが並んだカウンターの奥は、セピア色の落ち着いたほのかな灯りで彩られ、かすかにジャズの流れる店は小さいながらも洒落ていた。そういえば、遊佐さんとサシで飲むのは初めてだ。

「ブラッディマリーをお願いします」

「えっと、じゃあ、自分はカミカゼを」

御意ぎょい

 注文を述べると、マスターが俺たちに背を向けて棚から酒の瓶を拾う。ってか、「御意」ってなんだよ。

「それで、君らしくもないが、どうしたっていうんだい」

 マスターがシェーカーをかたかたと振る音を聞きながら、俺は遊佐さんに訊いた。

「今日、面接に行ったのですが」

「ほう。で、結果は? どんな会社なの?」

「京都の玩具メーカーの、東京支社です。面接の後でお茶漬けを出されました」

「そりゃまたずいぶんと手の込んだ嫌味だな、おい」

「これまでで一番ショックでした」

 聞いた話では、京都でお茶漬けを出されると「早く帰れ」という意味らしい。彼女もこの東京で、しかも面接でお茶漬けを出されるなどとは予想だにするまい。

「うん、それはたしかに、俺でもやさぐれたくなる」

「おいしかったです」

「食ったんかい!」

「わたしの一体何がそんなにいけないのかしら」

 そう言うと、遊佐さんはカウンターに突っ伏した。白いピンスポットに豊かな黒髪が照らされる。

「お待たせしました、カミカゼでございます」

 俺の前にカクテルグラスが差し出される。ライムのスライスが浮いた酒をちびりとすすると、ウォッカベースの強いアルコールが舌を刺激する。アルコール混じりの吐息を鼻からふうっと吹いた。

「なんだい、面接に一つ落ちたくらいでそこまで落ち込まなくたっていいじゃないか。また次があるさ。まあ、さすがにお茶漬けはへこむだろうが」

「先輩は、わたしがどれだけたくさんの面接に落ちているか知らないからそう言えるんです」

 慰めるつもりで言った俺の言葉に顔を上げ、睨まれた。切り揃えた前髪から覗く切れ長の瞳には妙な迫力がある。そして桜色の唇から低く唸るような独白が紡ぎ出された。

「面接だけじゃありません。大学三年の半ばから就職活動を始めてやっと内定を取って新卒で入社した会社は半年で倒産、その前にも、高校生の頃にバイトをしていた本屋は店長が中学生の万引きを追ったら中学生が車に撥ねられて即死、世間の理不尽な非難を浴びて閉店。大学一年生で始めたファミレスのバイトは店が謎の爆発炎上。学習塾では塾長が生徒にセクハラをして問題になり閉鎖。ブティックで働いてみれば店に十トントラックが突っ込み、冬のスキー場では雪崩が起きてその年の営業は中止。信じられますか? もしかしてわたしは不幸を運ぶ女っていうことでブラックリストに載ってるんでしょうか」

「にわかには信じがたいが、しかし、それは遊佐さんのせいではないだろう。たしかに仕事運は悪いかもしれないが、君は頭もいいし、仕事もできない人間とは思えないのだが」

 しかし、彼女には申し訳ないが同時に思う。ということは、あのコーヒーショップがいまだに存続しているのは奇跡と言えるのだろうか。

「仕事運だけではないんです。恋愛運もです。わたしも人並みに恋はしてきました。でも、中学生の頃の初恋だった山下くんは、告白したその日の夜に交通事故で長期入院。高校一年の頃にちょっといい感じになった鈴木くんは家が破産して夜逃げ、三年生の頃ラブレターを送った桜井くんは受験ノイローゼで登校拒否、大学生の頃に友達に紹介された横田くんはその日のうちにストーカーに刺されて女性不信。わたしが告白した相手や紹介された相手は、みんな何らかの不幸に見舞われるのです。おかげでわたしは生まれて四半世紀近く経ちましたが、いまだに恋愛経験はゼロです。いつしか男性はわたしに近づかなくなりました。付いたあだ名は、血塗れのブラッディ・ユサ」

「お待たせしました、ブラッディマリーです」

 遊佐さんの前に、ウォッカとトマトジュースを混ぜた真っ赤なカクテルが差し出される。グラスの縁に添えられたカットレモンをぎゅっと絞り、彼女はそれを一口飲んだ。それなりに酔っているのか、唇の端から赤い酒がどろりと一筋垂れ、自嘲気味に微笑んだ彼女をなお妖しくする。

「そ、それも決して君のせいではない。なんというか、不幸が重なっただけではないか。ええと、そのぅ、そうだなぁ」

 俺もカミカゼを一口呷る。思えば、遊佐さんとは仕事と文学以外の話をするのはほとんど初めてだ。そんな彼女に掛けてやれる慰めの言葉はなかなか見つからない。

「無理に慰めてくれなくてもいいんです」

 小説家としての語彙の少なさに落ち込みそうになったとき、遊佐さんは目を伏せて言った。

「もう、誰もわたしを必要とはしないんです。私が必要としても、みんな消えていくんです。わたし、このままずっとフリーターでバイト先を潰しながら、誰にも愛されずに孤独に死んでいくんですかね。川端康成は『人は愛されているうちに消えるのがいちばん』と言いましたけど、誰にも愛されていないわたしはどうやって消えればいいんですかねぇ!」

 最初はぼそぼそとした語りだったが、最後のそれはもはや叫びに近い。カウンターに伏せてしゃくり上げはじめた遊佐さんの背中を、俺は遠慮しいしいさすった。

「ば、ばか、滅多なことを言うもんじゃない。まさか遊佐さん、な気持ちを起こしちゃいないだろうね?」

 しかも、自分を棚に上げた。うっかり高いところに上げすぎたせいで下ろせなくなってしまった。

「確かに、人は愛されているうちに消えるのがいちばんだ、川端の言葉には真理がある。しかし、愛されていない者はどう消えるかではない。どう愛されて消えるかだ。愛されるための努力を怠ってはならないよ、君にはその才能もある。だが、才能という花は努力なくしては開かないのだ。そうさ、愛されないうちに消えてたまるものか。結論はあと百年のうちに出せばよいではないか。とにかく、軽々しく消えるだの死ぬだの考えてはならない。努力を諦めるのはまだ早かろう!」

 いつも凛として清楚な遊佐さんが突っ伏して泣く姿を見て、俺も多分に動揺していた。次から次へと「お前がそれを言うか」と突っ込まれそうな言葉が飛び出してくる。きっと死神が隣で聞いていたら大笑いするだろう。

 俺の言葉を聞いているのかいないのか、遊佐さんはカウンターでひとしきりすすり泣いた後、やっと顔を上げた。白い頬に黒い髪を一筋貼り付け、それこそウサギのような真っ赤な目で俺を見た。だが、桜色の唇には微笑が戻っている。俺はほっと胸をなで下ろした。

「ごめんなさい、取り乱しました。今の先輩は、川端康成よりも立派に見えます」

「それは恐れ入る、ノーベル文学賞は難しかろうがね。まあ、ここは残念会ということで、俺がおごるよ。何度でも当たって砕けたまえ。いずれは砕けぬ時が来る」

 俺がカミカゼを差し出すと、遊佐さんもブラッディマリーを差し出した。改めて乾杯し、文学談義に花を咲かせながら、それから立て続けに二杯のカクテルを呷った。その後は俺の部屋に場所を移し……などという展開にはならなかった。俺たちは「ではまた明日」と、店の前で手を振って別れたのみであった。

       ※ ※ ※

「おそらく、次はガスで自殺するつもりです。場所は自宅でしょう。それ以外に考えられませんから」

「困りましたね。場所が自宅となると、日にちを特定するのが難しいです」

「監視を強化するしかありませんね」

「それにしてもガスなんて、思ったよりものを知らないんですね」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る