3・愛されているうちに(2)

「おはようございます。昨夜はお楽しみでしたか?」

「いえ、特には」

 古いゲームで聞いたような台詞を言う婆さんに「お世話様でした」と礼を言い、俺と死神はドリフ旅館を辞した。

 なんとなく気分を変えて、帰りは東武日光線に乗った。終点は浅草である。

 なんのことはない、俺は四日の休みのうち三日間を無駄に過ごしただけであった。死ぬこともままならぬ俺の脳裏には、吉川さんの姿が浮かんでいた。今は少しでも早く東京に戻り、吉川さんと酒を飲みながら知的な話題に興じたかった。

 やがて電車は東武線の浅草駅に到着する。改札は土曜日ということもあって人でごった返し、浅草という土地柄ゆえか、外国の観光客も多い。吉川さんのもとへ馳せ参じたかったが、今はコーヒーショップで仕事中だろう。休みの日にまでバイト先に顔を出すのは、たとえ客としてでもその気にはならない。

「浅草か」

 せっかく生きて帰れたのだという気持ちと、死に損なったという気持ちが混じり合い、妙にむかむかしていた。こういう時には酒に限る。

「一杯やっていくとするか」

「こんな昼間から?」

 俺に腕を絡めた死神が不思議そうに見上げる。つられて俺も腕時計を見たが、時間は午後二時を少し回ったところだった。

「昼間からやっているところがあるんだ。ほれ、すぐそこだ」

 指差した先は、東武浅草駅のほど近く。周囲に新しい建物が建ち並ぶ中で、やけに煤けた三階建ての古いビルだった。しかし、そのビルは古いなりに趣がある。今でこそレトロという表現がぴったりだが、明治時代ならばさぞかしモダンな、それこそ現在で言う渋谷のロフトのような建物だったことだろう。聞けば関東大震災でも東京大空襲でも焼け残ったのだという。

「神谷バーだ、知らんのか?」

 死神がふるふると首を横に振る。長い黒髪が揺れて俺の肩にぶつかった。

 神谷バーは、明治十三年にその起源を発する、日本初の西洋風バーである。バーとは言っても店の構えはレストランのそれに近く、バーカウンターは存在しない。しかも多くの人が訪れるので相席となるのが常である。そこではこれまた日本最初のカクテルである「電気ブラン」が、一杯二百七十円で供される。かつては川端康成や太宰治といった文豪も愛した店であり、酒である。

「別に付き合う必要はないぞ」

「うさぎさんの行くところなら、どこでも付き合うよ」

「殊勝な心がけだが、後悔しても知らんぞ」

 ビルの一階入り口を開けると、人の声がまるで壁のように押し寄せてくる。店内は広い。テーブルを埋め尽くす人々は皆、逆三角形の小さなグラスに満たされた琥珀色の液体を傾けている。それこそが電気ブランである。無論、この店に来るのは初めてではない。酒を愛し、文豪を敬愛するこの俺が、この店に来たことがないわけがない。いつもここに来る時は一人だった。一人で来れば相席した人と自然と仲良くなり、会話も弾む。そこでなかなか聞けない話を聞いて小説に活かすのが常だったが、残念ながらその大部分は日の目を見ぬまま、文学墓場に埋葬されている。

 しかし、一緒に連れ立って入ってきた死神は、先ほどの会話でも推察される通り、初めてのようだった。彼女は多くの人々と、大声でなければ隣との会話もおぼつかないような人のざわめき、そして店中に立ちこめる電気ブランの独特な香りに圧倒されているようだった。

 この店は食券制であり、入店時には入り口のカウンターで最初の注文を食券で買うことになっている。俺は電気ブランと生ビールの中ジョッキ、そして煮こごりを注文した。

「俺が飲んでるところを眺めてるわけにもいくまい、貴様も何か飲め」

 腕を組んだ死神の耳に大声で言うと、彼女も大声で返す。

「おごってくれるの?」

「社会人として子供に財布を開かせるわけにいくか。それに、貴様には邪魔されたとは言え、一応、命を救われたらしいのだからな」

「うは、やっぱりウサギさん、いい人だ。じゃあ、あたしも電気ブラン!」

「それはだめだ。子供はオレンジジュースでも飲んでろ」

「……カタブツ」

 食券を買い、空席を探す。土曜日の昼間ともなれば、地元の江戸っ子の他にも「噂に聞く電気ブランをひとつ飲んでやろう」と遠方からも人が訪れ、二つ並びの空席を探すのは容易ではない。しかしそこへ「おおい、こっちこっち」と招く人があった。見ればまったく知らない人である。その中年のおじさんは赤い顔をして「俺たちは今帰るから、ここに座るといいよ」と言ってくれた。遠慮なくお言葉に甘えることとする。こういった触れあいも、神谷バーならではである。

 ウェイターに食券を渡すと、ほどなくして生ビール、電気ブラン、そしてオレンジジュースが運ばれてきた。煮こごりはもう少し後になるらしい。

「乾杯」

 と、逆三角形のグラスを突き出してきたのは、向かいの席に座った爺さんである。これまた見知らぬ人だが、この店ではこれが普通だ。

「やあ、これはどうも、乾杯」

 俺がグラスを突き出すと、死神も「乾杯」と生ビールのでかいジョッキを突き出してくる。って、ビールだと?

「お前はこっちじゃないだろ」

「ふむ~」

 死神は面白くなさそうにオレンジジュースに持ち替え、「乾杯」と小さく言った。

「そっちの姉ちゃんは飲まねえのかい?」

 江戸っ子訛りの爺さんが死神を見て言う。

「彼女は未成年ですから。隙あらば酒を飲もうとしますが、阻止せねばなりません」

「ほ、未成年!」

 爺さんは目を丸くして俺と死神の顔を見比べた後、急ににやりと笑った。

「兄さん、うまいことやったねぇ」

「は?」

「こんな若い美人を捕まえて、憎い野郎だねぇ、こんちくしょう」

「ま、また妙な誤解が! こいつはちょっと成り行きで知り合っただけで、決して妙な関係ではありません」

 電気ブランをちびりとすする。ほろ甘い味と、舌をぴりりと刺激する三十度のアルコール。そして、薬草のような匂い。その独特な後味が消え失せぬうちに、ビールをぐびぐびと流し込んだ。これが電気ブランのつうな飲み方である。

「少し前から付きまとわれていますが、こちとらは未成年は守備範囲外なもんで。はなはだ迷惑しとるんです」

「いやぁ~、でも、人間は愛されてるうちが華だよ。ねえ、おじさん!」

 とは、死神の言である。

「なるほど、いいこと言いやがらぁ、この姉さんは。ほれ、一杯飲みねぇ」

「たしかに、愛されているうちも華ですが、愛されているうちに消えるのが一番ですよ」

「おっと、川端康成だね。兄さん、文学青年かい?」

「左様、文学を志しています」

 ここで小説家と名乗るのは少々憚られた。以前、この神谷バーで「自分は小説家だ」と名乗り、サインまで求められて些か恥ずかしい思いをしたことがあるのだ。デビューから七年で重版のかからない本を二冊しか出版したことがないと知ったら、自分にサインを求めた人たちは落胆するであろう。紙とインクの無駄である。もしここで堂々と小説家を名乗って恥じない立場にいれば、俺は自決など考えもしなかったに違いない。

 電気ブランが二杯目と半に差し掛かった時、俺は席を立った。酒を飲むとき小用が近くなるのは良い傾向である。そのぶんアルコールの代謝が早いということだ。トイレは混んでいて少し並んだが、あの何をしでかすかわからない死神のこと、可能な限り手早く用を済ませて席に戻った。だが、悪い予感は的中していた。

「お化けは死なない~病気もなんにもないっ」「ないっ!」

 向かいの席の爺さんと声を合わせて上機嫌で歌っている死神。その手には電気ブランのグラス。とんでもない女子高生(推定)があったものだ。慌てて席に戻ろうとするが、ちょうど店に入ってきた一団に遮られ、俺の足が止まる。

「ささ、あの兄ちゃんが帰って来る前に行こう」

「ふえぇ~? どこ行くのぉ?」

「おじさんの家、すぐそこだから。一人暮らしだから心配ねえって」

「心配も問題も大ありだ!」人をかき分け、大急ぎで席に戻った。「あなた、犯罪ですぞ」

 睨み付けると、爺さんは「えへへ、こいつぁ勘弁」と頭を掻き掻き、退散していった。女子高生(推定)を酒に酔わせて自分の家に連れ込もうとは、とんでもないエロ爺だ。江戸っ子の風上にも置けねえ野郎でい、てやんでい、べらぼめい、ちくしょうめい。 

「まったく貴様という奴は。未成年のくせになんで酒を飲みたがる」

「連れてきたのはウサギさんだよぉ」

「酒は飲むなと言うのに。あーあ、こんなに飲みやがって」

 死神の手には半分まで減った電気ブランのグラス。彼女の前にはもう一つ、空のグラスがあった。多少並んで手間取ったとは言え、俺がトイレに行ってから戻ってくるまでにそう時間はなかったはずだ。その間にこいつは一杯半もの電気ブランを飲んだのだった。

「貴様、これがどんな酒かわかってるのか?」

 もちろん、わかっていないからこんな飲み方をしたのだろう。電気ブランは三十度という度数の割に口当たりが甘く、初心者はつい飲み過ぎ、白地に赤い線の入った緊急車両のお世話になることもある。こいつにこれ以上飲ませたら命に関わると思った俺は、その手からグラスをもぎ取り、強引に席を立った。

「ういぃ、あのおじいちゃんがぁ、飲め飲めってぇ」

「そうかそうか、あの爺は罪が一ポイント加算で地獄行きだな」

 立ち上がった途端、死神は俺の肩にもたれ掛かった。これは役得……じゃなかった、不愉快だがやむを得ない。俺は彼女の体を支え、よろよろと店を這い出した。

 店を出ると、途端に夏の猛烈な熱気が襲いかかる。かわりに、むせかえるような電気ブランの匂いが去り、狭い場所での人のざわめきが雑踏に変わる。

「まったく世間を知らない奴だな。相手の言うままに酒を飲むと潰されるぞ。まして貴様は見てくれはいいのだ、そのまま相手に持ち帰られて純潔を見知らぬ爺さんに捧げることになってもいいというのか?」

「あー、そりゃ勘弁だねぇ。酔っ払って初体験なんてやだよ、あたしゃ」

 俺の肩に顔を埋めた死神が、呂律ろれつの回らない舌で答える。手を離すと倒れるであろう死神を放り出すわけにもいかない。俺よりも頭一つほど背の低い死神が、俺の肩に手を回す。俺は彼女が倒れぬように……繰り返して申し上げるが、あくまで彼女が倒れぬように、腰に手を回して地下鉄銀座線浅草駅の入り口を目指した。それにしても、温かい感触……いや、暑苦しい。人目がひどく気になったが、ぐっと堪えた。

 普段ならほんの数十メートルの道のりを数キロにも感じながらたどり着いた地下鉄銀座線浅草駅の入り口だが、その横では手相見の辻占つじうらが店を出していた。思えば、俺も素面しらふではない。思いがけぬ運動で少し酔いも回ったか、急に疲れてしまった。

「ひとつ手相見をお願いします」

 休憩がてら、辻占の椅子に腰掛ける。死神は案の定、その隣で俺にもたれるようにして座り込んでしまった。辻占は初老の男だったが、俺と死神を不思議そうに見比べたあと、「では右手を拝見」と虫眼鏡を構えた。

「いかがなもんです」

 辻占はしばらく俺の右手の平を観察したあと、「ほぉ」と感心したようにため息を吐く。

「これは良い手相をしてますなァ。あなた、たいへん長生きしますぞ」

「…………」

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