3・愛されているうちに(1)
「一体貴様は仕事をする気があるのか?」
「仕事っていうと?」
「死神の仕事ってのは人の魂をあの世へ連れて行くことじゃないのか?」
「お化けにゃ会社も~仕事もなんにもないっ」
そう歌って、死神はけたけたと笑った。
「ニート死神め、朝は寝床でぐうぐうぐうで、昼はのんびりお散歩か。じゃあ、これから墓場で運動会でもあるのだろう。行かなくていいのか? むしろ行け。ていうか、出て行け」
座卓を挟んで向かい合い、俺は滝から飛び降りる前に飲もうと買っておいた大吟醸を湯飲みに注ぐ。
「つれないこと言わないでよぉ。あ、それおいしそうだねぇ。あたしにも飲ませておくれよ、ウサギさん」
「未成年だろ」
「固いこと言わないでよぉ」
「未成年に酒を飲ませたら罪が一ポイント加算されるに違いない。そしたら俺は地獄行きなんじゃないのか?」
「あ、う、むぅ~」
「ほれみろ、貴様が言い出したことだ。子供はオレンジジュースでも飲んでろ」
いろは坂を下った俺と死神は、そのまま東京まで引き返すのも億劫で、再び昨夜のドリフ旅館に落ち着いたのだった。ただ、今回は死神が同伴だ。
「あれま、あんちゃん、お帰りじゃなかったんけ?」
玄関で出迎えた婆さんが目を丸くする。
「いや、事情が変わりまして、もう一泊お世話になります」
婆さんは俺の後ろにぴったりくっついてきた死神を見ると「ははぁ」と満面の笑みを浮かべ、俺に耳打ちする。
「あんちゃんも隅に置けねぇない」
「……は?」
「おおやだ、娘連れて、ちっと歳が離れてるみてぇだけんど、あら、あんちゃんのコレだんべ?」
そう言って、婆さんは小指を立ててみせる。
「これはたいへんな誤解だ、そんな仲ではありませんよ。彼女は……」
説明しようとして言葉に詰まった。どう説明したものだろう。友人でなければ、まして妹でもない。正直に「俺に付きまとっている死神だ」などと説明しようものなら鉄格子の付いた病院に送り込まれかねない。
「えっと、その~」
「隠さなくてもよかんべよ。あんちゃん、まさかいい男だかんなぃ。うちはお客さんの事情にゃ干渉しねぇからよ。心配しなぐても今日の泊まりはあんちゃんたちだけだから、ちっとでげえ声出したって大丈夫だ。ああ、うちには置いてねえから、薬局はあっちだ」
じゅうぶん干渉してるような気がするが。そもそも「でげえ声」ってどんな声だ。それに、薬局に一体何の用があるというのだ。婆さんは「かっかっか」と笑いながら俺たちを奥へと
「ほわー、すっごいね。こんな旅館、まだあるんだねぇ」
死神は珍しそうに、玄関のあちこちを眺め回す。
「失礼を言うんじゃない。趣があっていい旅館じゃないか」
「かっかっか、気にせんでいいよ。昨夜と同じ部屋だけんど、
婆さんが案内してくれた部屋は、なるほど昨夜と同じ部屋で、床には藤村操の「巌頭之感」の書が相変わらず掛けてあった。思わずその掛け軸に向かって「すまん」と謝ってしまう。
「いやー、疲れたねぇ、ウサギさん。でも、せっかくだからちょっと観光しようよ」
黒いスポーツバッグを置いた死神が提案する。確かにまだ日も高い。自決が頓挫した今は、ただ時間を持て余すだけだった。薄暗いドリフ旅館の一室でうだうだしているのももったいなかろう。宿からは日光東照宮が近い。東照宮といえば国宝と重要文化財の塊のような神社だ、さぞかし見るものも多いであろう。今日は気が急いてそんな余裕もなかったが、生きて帰ってきた今とはっては次の自決の前にそういったものに触れておくのも悪くはあるまい。
そう思って宿を出たのだが、どうにも調子が狂う。その理由は、やはり死神にあった。死神は俺の左側にぴったりくっついて腕を絡めていたからだ。
「おい、よせよ。人が見たら誤解するだろ」
「えへへ、ウサギさんが自殺しないように見張ってるんだよ」
「それなら心配ない」
そう言うと、死神はぱっと顔を輝かせた。
「ほんと? 自殺は諦めるの?」
「誰がそう言った。俺の最終的解決に向けた決意は揺らいでいない。ただ、自決は自殺とは違って死ぬ時と場所を選ばなければならん。死ぬのは簡単だ、旅館の鴨居に帯をかけて首を吊ることも橋から川へ身を投げることもできるんだ。ただ、それではつまらんだろ」
「へぇ、こだわるねぇ」
「当然だ、俺は自殺するのではない、自決するのだからな」
そんな穏やかでない会話を交わしながら東照宮を見学し、適当な店で飯を食った。よもや連泊することになるとは思わなかった俺はそれほど潤沢な資金を持っていなかったため、宿は素泊まりとしたのだった。
しかしこの死神、いつまで腕を組んでいるつもりだ。女子高生は俺の守備範囲外、迷惑以外の何者でもない。三十手前の男に腕を組んだ女子高生という組み合わせは、常に紳士たらんとしてきた俺の価値を著しく下げるのではないか。つまり、人から不健全な関係に見られはすまいか。
しかし、そう、これが死神ではなく、吉川さんだったらどんなに嬉しいことだろう。二人で腕を組み、「あれが有名な三猿だよ」「これが国宝の陽明門ですね」と知識を交換しながら歩けたら、きっと楽しいに違いない。彼女とは歳もそう離れてはいないし、全く健全なカップルに見えることだろう。しかし俺と腕を組んでいる死神は一人で何が楽しいのか、にへらにへらと笑いながら、うっかり砂場に落とした磁石に付いてなかなか離れない砂鉄のように取り憑いているだけなのだ。国宝と重要文化財に囲まれながらも、俺は少しも楽しくない。
宿に帰って部屋を見るなり、俺は「おいコラ、ババア!」と叫びそうになった。しかしその言葉を慎み、「ちょっとお婆さん」と変換したのは俺の紳士的配慮によるものだ。ババアは俺が紳士であったことを感謝せねばならない。
部屋の真ん中には布団が敷いてあった。ただし一組。にもかかわらず、枕は二つ。ご丁寧に枕元にはティッシュ箱と水差しが置いてある。
「ちょっと、これは困りますよ。僕たちのことを誤解されてはいけません」呼びかけに応じてやってきた婆さんに、俺は苦情を言った。「布団はできるだけ離して、できれば間にその座卓を挟んでください」
「かっかっか、そんなに照れんでも。そんなに仲良くしちゃって、まさか
言われて気づいたのだが、俺の左腕には死神が右腕を絡めたままだった。俺は慌てて振り払い、「ご冗談を」と言った。なんだかんだ言って俺の望み通りに布団を配置し直してくれた婆さんは、最後に「照れちゃって、まさかかわいいない」と栃木弁で言って、部屋を出て行った。出る間際に「これはサービスだ」と赤マムシドリンクを置いていったが、無視を決めた。
「スケベなババアめ。見ろ、貴様のせいで妙な誤解をされた」
押し入れからタオルを取り出しながら、俺は死神に言った。
「ふへへ。悪い気はしないね。でも、あたしに手を出したら罪が一ポイント加算で地獄行きだからね」
「誰が手を出すか、俺は女子高生は守備範囲外だ」
「だから死神だってば」
「だったら、なおさらだ。それよりも風呂を浴びてこい」
そうして風呂を浴びた。読者諸賢にお断りしておくが、無論、風呂は男女別である。ゆえに女子高生の入浴を描写できないことを読者諸賢、特に男性には深くお詫びする。まして男が風呂を浴びているシーンはいかにもむさ苦しいであろうから、その描写も割愛する。俺は部屋に戻り、死ぬ前に飲もうと買っておいた大吟醸を湯飲みに注いだ。それから少しして、死神も「はあ、さっぱりした」と戻ってくる。そして、話は本章の冒頭へと至るのである。
「ねえ、ウサギさん」
座卓の向こうで、死神がもそもそと布団を被る音が聞こえる。俺は四号瓶を一本飲み干し、良い加減になったところで「そろそろ寝るか」と提案した。死神もその提案に異存はなかったらしいが、部屋の灯りを消した頃になってもなお話しかけてきた。
「これからどうするの?」
「バイトを辞めたわけではない。明後日から何食わぬ顔でバイトに行って、小説を書きながら次の最終的解決について検討するに決まっている」
「ウサギさん、その最終的解決っていうの、やめない?」
座卓の向こうで死神がこちらを向いた気配がする。
「なぜだ」
「最終的解決って、何を解決するの?」
「最前から話してあったじゃないか。文学不在の世の中に一命を以て警鐘を鳴らすのだ」
「それで最終的に何が解決するの?」
「俺の哲学だ。いいからもう寝かせろ。そんで、貴様も寝ろ。不埒な気分を起こすなよ」
「こっちの台詞だよ。でもね、ウサギさん。人間は愛されてるうちが華だよ」
死神は俺の予想だにしなかったことを言った。だが、俺は笑い飛ばす。
愛されている、と言われて、咄嗟に思い浮かべた顔は吉川さんだった。いつもどんなにマニアックな話題を振っても真剣に聞いてくれる彼女ならば、確かに俺を愛してくれるに違いない。ただ、ここに至ってはその想いを打ち明けることは自分に対しても彼女に対しても残酷であろう。今日のところは死神のために失敗したが、まだまだ次の手段が残されている。死を諦めたわけではないのだ。
ふう、と一つため息をついて、俺は目を閉じた。今後は死神が何を言おうと答えないつもりだ。なんだかんだあって、今日はやっぱり疲れている。死神もまた、「まあ、いいけどさ」と諦めたように呟いて、沈黙した。
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