2・死ぬためには死ぬしかない(6)
いざ、決行を翌日に控えるとなると、なかなか寝付けるものではなかった。今さらになって死への恐怖がむくむくと頭をもたげ、まるで湖面を漂う濃霧のように俺の胸の中へと侵入を開始した。そのどす黒い霧を追い払うように、暗い部屋の中でむくりと体を起こす。そうした途端、腹がぐうと鳴った。わざわざ日光まで来て晩飯に食ったのは、コンビニのサンドイッチだった。最後の晩餐と言うにはあまりにもお粗末だ。いくら気合いを入れて寝ようとしても寝られず、俺は部屋の灯りを点けた。着慣れない浴衣の前を合わせ、部屋に備え付けの冷蔵庫を開ける。そこには華厳の滝に飛び込む前に景気づけに飲もうと奮発して買っておいた、日光の地酒があった。四合瓶で五千円もする大吟醸だが、これから死のうとするにあたってその程度の出費は痛くもかゆくもない。なに、明日また買えばよいだけの話だと思って、これを寝酒とすることに決めた。
栓を開け、透明な液体を茶碗に注ぐ。とくとくという静かな音とともに漂う、まるで果実のような大吟醸の香りが、束の間だが死への恐怖を忘れさせてくれた。
日光の誇る地酒だけあって、さすがにそれはうまかった。
時計を確認したわけではないが、日付は変わっているだろうという確信がなぜかあった。そして、これだけはやめておけばよかった。しかし、あまりにも手持ち無沙汰だった。なにしろ「あとは死ぬだけ」という気持ちでここまでやって来たので、暇を潰す道具というものは何もなく、本の一冊も持ち合わせていなかった俺は、時代錯誤なほど古いブラウン管のテレビに手を伸ばす。そうして画面に現れたのは、あり得ない髪の色とあり得ない髪型とあり得ない大きな瞳をした、現実にあったら相当に気持ち悪いであろう、こんな制服を採用するその常識を疑うような高校の制服を着た美少女だった。
「ふおおおおおおおおお!」
隣室への迷惑も憚らず、俺は咆哮した。
なぜだ、なぜこの萌えアニメはこうまでして俺に付きまとうのだ。滅多にテレビなぞ見ない俺が、気まぐれにテレビのスイッチを入れるたびにこのアニメと遭遇する。これは実際、嫌味なことだ。だが、一体誰が、俺にこの嫌味を放っているのか。
「ひれ伏せっ! あんたは全てにおいてアタシに劣っているのよっ!」
「なんだと、この!」
俺はテレビに掴み掛かった。無論、先の傲慢な言葉はアニメの台詞でしかないのだが、それはなんとも絶妙なタイミングで俺の耳に飛び込んだ。画面を抱え込み、鼻持ちならない顔だけ良い性格ブスに頭突きを喰らわす。直後、俺は額を押さえて畳の上に転がった。憎き萌え少女はブラウン管の奥で「あーっはっはっは、ばーかばーか、ざまぁみろ」と高笑いをした。痛んだのは俺の額だけである。この萌え少女、なんて石頭だ。
それにしても、この傲慢で不愉快きわまりないキャラクターを持てはやす連中の気が知れない。どこが萌えだ、腹が立つだけではないか。
「ちくしょう、俺は死ぬぞ、絶対に死ぬぞ。華厳の滝に飛び込んで、化けて出て貴様を呪い殺してやる」
四合瓶を鷲掴みにしてラッパ飲みをした。五千円もする大吟醸にするにはもったいない飲み方だが、こうなれば自棄だ。
翌朝。
俺は酒の瓶を片手に、畳の上で大の字になっていた。俺は元来、酒には強い
テレビを消しながら、自分の意志を確認する。昨夜はたしかに、いよいよ決行を明日に控えて怯えていた。しかしそもそも、最初から最終的解決を決めた時からこの日が来ることは当然だった。今さら何を怯える必要がある。それに、昨夜のあの萌え少女の台詞。思い出すだけで腹が立つ。俺はこれから一命を以て、あの傲慢な台詞に報いるのだ。
「よし、決意は揺らいでいない」
浴衣を脱ぎ捨てて着替える。そこにちょうど、婆さんが朝食のお膳を運んできた。
「昨夜は苦情が出ませんでしたか」
婆さんに訊ねると、彼女は「はぁ?」と小首を傾げた。
「いえ、昨夜はちょっと酔って取り乱したものですから、もしかしたらご迷惑でもおかけしたかと思いまして」
「ご迷惑もなんもねえよ。いま泊まってんのはあんちゃんっきりだから」
なんだ、それならもうちょっと暴れておけばよかったな。
奇妙な後悔の念とともに、朝食をいただいた。朝食は白飯にナメコの味噌汁、白菜の漬け物、川魚の焼き物と質素なものだったが、うまい。目の前では「巌頭之感」の書が、俺の食事を見つめていた。
朝食を終え、ひとっ風呂浴びた。そもそもが日光連山の中で最も有名な
「また来てくんなまし」
婆さんが旅館の玄関まで見送ってくれ、深く頭を下げた。だが悪いな、婆さん。俺はもう二度と来ないのだ。
日光の街で、昨夜飲んだものと同じ大吟醸を一本
夏休みの行楽シーズンにはまだ間があると思ったが、バスは思いの外混んでいた。それでも座れないほどではない。俺はバスの中ほどの二人がけの席に座る。俺に続いて何人かの観光客が乗ってきたが、俺の隣に座る人はいなかった。
やがてバスが出発し、途中で何度かの乗降を挟みながら、第二いろは坂に侵入する。いろは坂は第一いろは坂、第二いろは坂に分かれ、それぞれが一方通行である。第二いろは坂が上りで、第一いろは坂が下りという寸法だ。いろは坂には第一、第二合わせて四十八の急なカーブがあり、それぞれのカーブに「い」「ろ」「は」の順にひらがなの標識が立っている。
バスが上っている第二いろは坂には二十のカーブがあり、最初は「い」で始まり、「ね」で終わる。第一いろは坂は「な」で始まり「ん」で終わる。全部合わせて「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」の四十八文字が順番に並んでいるわけだ。小粋な趣向である。もとは七五調の短歌で、「色はにほへど 散りぬるを 我が世たれぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」と書くらしいが、五十音のうち一音も重ねない、非常に精巧な作りの歌である。詠み人は不明だが、かつては「あいうえお」の五十音のかわりにこの「いろは」で音を覚えたのだという。まことに日本の文学というものは奥が深い。
しかし俺は「な」から先を見ることはできない。俺の終点は「ね」と「な」の間にある華厳の滝だからだ。いろは坂の両脇に生い茂る原生林。その向こうには男体山を望む。この大自然に抱かれて死ねることを、俺は喜ばねばならない。
九十九折りの坂を上ること数十分、やがてバスは中禅寺温泉に到着した。バスを降りると同時に、高原の涼やかな空気が俺の身を包んだ。空はよく晴れている。
「いやぁ、絶好の自決日和だ」
冷たい空気を胸一杯に吸い込み、俺は思わず呟いたが、一緒にバスを降りた親子連れが怪訝な顔をしていたので、慌てて口をつぐんだ。
さて、周りに目を巡らせれば、周囲には無数の土産物屋、そして広大な中禅寺湖。日光連山をこれほど間近に望んだのは、高校生の頃に家族と訪れて以来だろう。多くの観光客、修学旅行らしい小学生の群れ、そして、死神。
……死神?
「待ってたよ、ウサギさん」
彼女は相変わらずの黒いパーカーに黒いジーンズ、黒いスポーツバッグ。高原のそよ風に長い黒髪をさわさわと靡かせ、死神はにこにこ笑いながら俺に歩み寄ってきたのだった。
「お、お前、なぜここにいる!」
「そりゃ、死神だからね」
高原の陽光にその美しい瞳を細めながら、彼女は俺の隣に並んだ。さも待ち合わせをしていた恋人のように、である。
「ウサギさん、これからのご予定は?」
「予定もなにも、死ぬのだ」
「まあまあ、そう急がない。とりあえず、その辺ぶらぶらしようよ。あたしゃ日光ってはじめてだよ、ウサギさん!」
言うが早いか、死神は俺の腕に自分の腕を絡めて走り出した。冗談ではない、三十手前の男がどう見ても女子高生の少女に腕を絡められているのは外聞が悪い。
「は、離せ、離さんか!」
ようやくその手を振り解いたのは、中禅寺湖畔のボート乗り場の前だった。華厳の滝とは逆方向にあたる。
「ボートに乗ろうよ、ウサギさん」
「ばかたれ、これから死ぬってのにそんな暇があるか!」
怒鳴りつけると、死神は「むぅ」と頬を膨らせた。かわいいと感じてしまったのは俺の不覚である。
「せっかく来たのに。じゃあ、死ぬ前に冥福でも祈ったら?」
「冥福だと?」
「うん。すぐそこに
「ほう、そうなのか」
来たらすぐに飛び降りるつもりでいたので、観光情報はチェックしていない。見回せばたしかに、二荒山神社中宮祠の案内板も見える。中宮祠というのは、つまり、神社の出張所みたいなものとでも言えばいいのだろうか。
死神と連れ立って中禅寺湖の湖畔を歩く。死神は何が楽しいのかにこにこしているが、俺はこれから死ぬにあたっての緊張と、突然現れて俺を引っ張り回している死神に対する苛立ちで仏頂面だった。
やがて二荒山神社中宮祠に到着した。参道を上ると現れたのは、出張所とは思えないほど立派な神社だった。鳥居を潜った先にある朱塗りの神門は、その向こうに男体山を望む。
頭を二度下げ、柏手を二回。その手を合わせて願いを呟く。
「どうか我を天国に
小声で呟き、最後にもう一度頭を下げる。隣に並んだ死神は、俺が頭を上げてもなお、両手を合わせて何かをぶつぶつ呟いていた。残念ながら、何を願っているのかまでは聞き取れなかったが。
やがて頭を上げ、深くお辞儀をした死神に、俺は訊いた。
「お前、お賽銭は入れんのか?」
「えっと、ウサギさんの五百円の中に含まれてる、ってことで、ひとつよろしく」
「ちゃっかりしてら。そもそも今日は平日だろ。貴様、学校はどうした?」
「お化けにゃ学校も~試験もなんにもないっ」
そう歌いながら、死神は拝殿前の石段を身軽に飛び降りる。
「死神ってお化けなのか?」
「細かいことは気にしない。それよりもさ、ウサギさん」
「なんだ」
「知ってる? 二荒山神社って、縁結びの神様なんだよ」
「は、縁結び?」
死神の後を追いながら、俺は拝殿を振り返った。拝殿の向こうには男体山が、滴るような緑の木々をその身に纏って聳えている。二荒山神社のご神体はあの男体山じゃなかっただろうか。「男体」という名にふさわしく、雄々しく屹立するそのご神体が、縁結びだと?
「そう、縁結びだよ」
そう言って、死神は腕を絡めてくる。
しかし俺の心は、腕を絡めてくる女子高生(推定)とは別のところにあった。
思い出したのは、吉川さんの顔だった。一見すると頭の緩いギャルのような見てくれだが、その実、知識に対して貪欲な褒めるべき姿勢、そしてあの太陽のような笑顔。最後にもう一度、二人で飲みたかった。語り合いたかった。吉川さん宛てにもう一通の遺書をしたためておくべきだった。そしてもう一人、どういうわけか遊佐さんの顔も浮かんだ。あの職場において俺と対等に話し合えるのは吉川さんの他に遊佐さんだけだった。
「ウサギさん、いま何を考えてるか当ててあげようか」
腕を絡めたまま、死神が俺の顔を覗き込む、。
「当ててみろ。当たったら
「んじゃ、当てちゃう。吉川さんのことだね?」
「!」
「ありゃ、図星?」
「……なぜ吉川さんのことを知っている」
「それは、あたしは死神だから」
「……死ぬ前に蕎麦でも食うか」
そうして、俺は死神に蕎麦をおごる羽目になったのである。どういうわけか、観光地に蕎麦は付きもので、中禅寺湖畔もその例に漏れなかった。しかも、その蕎麦がやけにうまかった。死神と差し向かいで手繰る蕎麦が、俺の最後の食事となった。
蕎麦を食い終え、俺と死神は華厳の滝の観瀑台にいた。観瀑台の対岸には日本三大名瀑の一つに数えられる華厳の滝が、どうどうと唸りを上げている。中禅寺湖から注ぐ華厳の滝は、落差九十七メートルにも及ぶ日本有数の滝である。華厳の滝は有名なわりにその姿を見ることができる場所は少なく、この観瀑台の他には第二いろは坂を登り切ったところにある
記録に残っている最初の自殺は明治三十六年の藤村操のそれだが、その後は後追い自殺が相次ぎ、藤村の死後四年間のうちにこの滝で自殺を図った者は百八十五名に及ぶという。そのうち成功したのは四十名だそうだが、これはたいへんな人数に違いない。昨夜宿泊したドリフ旅館の婆さんによれば、最後にここで命を絶った者は数十年前だそうだから、少なくとも昭和の頃であろう。ということは、俺が平成第一号となるわけだ。
観瀑台には売店があり、周りには平日にもかかわらずけっこうな数の観光客が存在する。これから彼らにショッキングな光景をお見せせねばならない。心の中で彼らに詫びつつ、俺は「よし」と背筋を伸ばした。
「そろそろ逝くか」
相変わらず腕を絡めたままの死神が、美しい双眸を見開いてぎょっと俺を見上げる。
「ちょ、マジ?」
「マジもマジ、大マジだとも。貴様も死神なら、ちゃんと見届けろよな」
「いやでも、ほら」
死神が指さす先は、観瀑台の入り口だった。そこからガイドさんと教師に引率された小学生の行列が、黄色い声を上げながらぞろぞろと入ってくるところだった。
「ここから丸見えだよ。あんなに大勢の小学生にトラウマを残してもいいの?」
「連中だってずっといるわけじゃない。帰ったのを見届けてから飛び降りればいいだけの話じゃないか」
「でもでも」と抗議する死神を引きずるようにして、俺は観瀑台を出た。
とはいえ、どうやって華厳の滝まで近づいたらいいものか。
いざ滝に近づいてみようと観瀑台周辺を歩いてみた俺だったが、そこは歩道に沿ってぐるりとフェンスで囲まれていた。乗り越えようとも考えたが、あまりにも人目が多く、誰かが止めに入ってこないとも限らない。おまけに、俺の腕には相変わらず死神がしがみついていた。それらの事情によって、乗り越えるのは困難と思われた。
「はて、こいつは困った」
腕にしがみつく死神を引きずりながら、俺はフェンス沿いに歩いた。そしてとうとう見つけたのは、「中禅寺ダム管理所」の看板だった。看板の脇はフェンスから続く門になっている。周囲の自然と溶け込むように配慮されたものか、木材を模したコンクリートの柱で作られたその門扉は固く閉じられていた。
事前に調べたところによると、なんでも華厳の滝の二百メートルほど上流は水門になっていて、その開け閉めによって滝の水量を調節できるのだという。その水門は、この管理所の中にある。ということは、この管理所に侵入すれば滝まで行けるはずだ。問題は、管理所の正門がぴたりと閉ざされ、ご丁寧に「関係者以外立ち入り禁止」の標識が立っていることだ。
しかし、もはや躊躇してはいられない。この門の他は全てフェンスに囲まれている。出入り口はここしかないのだ。俺は「よし」と頷き、閉じられた門に足をかけた。
「ちょ、ちょっとウサギさん、何をするつもり?」
「何をするもなにも、ここを乗り越えなければ滝まではたどり着けないのだ」
「でもほら、立ち入り禁止って書いてあるよ?」
「死ぬにあたって立ち入り禁止もへったくれもあるか!」
「ちょっと待ってってば!」
いきなり大声で叫ぶと、死神は俺の腕を強く引いた。不安定な姿勢だったこともあって、俺は登りかけていた門から落ち、目から火を噴いた。
「な、何をする!」
「その前に、ちょっと確認しなきゃいけないことがあるの」
腰をさすりながら見上げると、死神はポケットからスマートフォンを取り出した。何を見ているのやらわからないが、彼女は画面を見つめながら「ふんふん、なるほど」と、さも深刻そうな顔つきで頷いた。
「えっと、『デスペディア』によると、ウサギさん。あなたは基本的に善人だから、普通に死ねば罪と善行の差し引きで天国に行けるはずだったのね。でも、自殺はとても罪が重いから、現段階では善行と相殺されて人間に生まれ変われるギリギリのラインなんだよ」
「なんのこっちゃ」
死神は相変わらず、スマートフォンを操作しながら続ける。
「でも、えっと、この場合は……ああ、やっぱり!」
「なにがやっぱりなんだ」
「最後に、この『立ち入り禁止』の規則を破ることによって罪が一ポイント加算されるの。よってウサギさん、あなたはここを乗り越えて死んだら、ギリギリで地獄行き決定だわ!」
「じ、地獄だと?」
一瞬、俺は想像した。針の山に転がされ、大釜で茹でられ、鬼に金棒で小突かれる自分の姿を。門から引きずり落とされてもこれほど痛いのだから、針の山に転がされたら苦痛も相応であろう。
「俺はさっき二荒山神社で天国行きを願ったのだぞ、それでなんとか相殺の相殺にならないのか?」
「でも、二荒山は縁結びの神様だよ、意味なくない?」
言われてみれば、縁結びの神様に極楽往生を願うのはバスの運転手に電車を運転してくれと頼むようなものではないか。確かに意味がない。
そう思った直後、俺はふと我に返った。そもそもこいつは死神などではなく、ただの女子高生(推定)ではないか。何をこんな茶番に付き合う必要があるのだ。俺は痛む腰をさすりながら立ち上がり、砂埃を落とした。
「だからほら、今は諦めてさ、帰ろうよ」
諦めるものか。死神を無視して、俺は再び門に足をかける。
「だめだって言ってるでしょ!」
直後、再び俺の目の前に火花が散った。二度もしたたかに腰を打ち付け、俺はその場で悶絶した。
「いってえええ! いい加減にしろ、貴様が死神だなどと俺が信じてると思って……」
「ウサギさんっ!」
途中で言葉を切ってしまったのは、俺の弱さであることを認めよう。死神は倒れた俺の上に覆い被さって、ぽろぽろと涙をこぼしたのだった。変人だが美しい彼女の長い髪が頬を撫で、双眸から流れ落ちる温かい滴が、俺の顔にほたほたと落ちた。
「お願いだよ、うさぎさん。あなたみたいないい人が地獄で苦しんでるところなんて、あたしは見たくないよ。少なくともこの場では、ちょっと考え直しておくれよ」
そう言うが早いか、死神は俺の首っ玉を抱きすくめておいおいと泣きはじめたのだった。
「おい、ちょっと、退けよ」
そう言いながらも、俺は何年かぶりに感じる人の重みと人肌の暖かさを感じていた。しかも上に乗っているのは美しい女子高生(推定)なのだ。守備範囲外とは言え、このままではエトセトラが反抗期に入ってしまう。
しかし、辺りを見回してふと頭が冷めた。反抗期に入りかけたエトセトラも瞬時におとなしくなる。
「おい、退け」
さっきよりもややきつめに命じる。だが、死神は強情だった。
「退かない!」
「退けってば」
「いや、退かない!」
「頼むから退け!」
「退いたら死んじゃうでしょ」
「死なないから退け」
「嘘、死んじゃう」
「周りで! 人が! 見てるんだよ!」
ここは日本有数の観光地なのである。周囲には中禅寺湖や二荒山神社中宮祠、そして華厳の滝と、景勝地がひしめいている。そんな場所を訪れる人は多い。多くの観光客が、俺と俺の上に覆い被さっておいおい泣く女子高生(推定)を取り囲んで見つめていた。
「地獄に行かないでよ、うさぎさん!」
「行かない、行かないから退けってば!」
俺はなかば強引に死神を引きはがし、急いで立ち上がった。
「わかった、藤村操の後追いは諦める。他の手段を探すことにしよう」
人々に見つめられ、俺は死に対するモチベーションが一気に下がった。引きはがされたことで俺の隣に転がった死神も立ち上がり、黒いジーンズに付いた砂を払った。
「よかった、これでウサギさんを地獄に送らなくて済むよぉ」
そう言って、彼女はまたぽろぽろと涙を流した。どうやら先ほどの涙とは別種であるらしい。
が!
その涙がどんな種類のものであるにせよ、観光客に囲まれた中で女子高生(推定)と白昼堂々衆人環視の中で体を重ね、あまつさえ泣かせたとあってはひどく外聞が悪いことは確かだ。
「ども、お騒がせしまして、いやいや、なんでもないんです、なんでも、ええ」
ぺこぺこと頭を下げながら、取り囲む観光客の間を抜ける。俺の左腕には相変わらずめそめそと泣く死神が取り憑いていた。もう、死ぬどころの雰囲気ではない。
「歳が離れてても大丈夫よ。おばちゃん、応援するからね」
見も知らない観光客のお婆さんが、おそろしく勘違いした慰めを掛けてくれる。なるほど、人には年の離れたカップルの痴話喧嘩に見えたわけか。これほどばつの悪いこともない。ああ、滝壺があったら飛び込みたい。
これ以上は居たたまれない。俺はそのまま、中禅寺温泉からバスに乗り、第一いろは坂を下った。第二いろは坂を上った時と違うことは、隣にようやく泣き止んだ死神が座っていたことだった。
※ ※ ※
「無事、阻止しました。予想以上にヘタレだったんで助かりました」
「了解しました。とりあえず、よかったです。お疲れ様でした」
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