2・死ぬためには死ぬしかない(4)

 それほど深酒をしたつもりもなかったが、翌朝、俺が目を覚ましたのはバイトの時間ギリギリのことだった。万事において余裕のないことを嫌う俺にしては珍しいことである。慌てて洗顔を済ませ、歯を磨きながら万年床を見下ろして、死神の少女らしい残り香を思い出す。

 自己嫌悪を振り払うように水櫛で寝癖を直し、適当な外出着に着替えて足を速めた結果、俺はいつもよりも十五分ほど遅れて仕事場に到着したが、遅刻はせずに済んだ。

「おはようございます」

 仕事着に着替え、エプロンを着けてフロアに続くドアを開けると、まったく偶然なことに、目の前に吉川さんがいた。

「やあ、吉川さん。昨夜はどうも」

 努めて爽やかに挨拶をすると、彼女は浅く頭を下げて、俺の前をそそくさと立ち去っていった。少し離れたところからはイケメン店長が苦い顔をして俺を見つめている。その少し向こうでは、遊佐さんがどういうわけか、面白くなさそうな顔をして、やはり俺をちらちら見ていた。二人の男子大学生は隅っこでアニメの話に興じている。この二人は通常営業だが、他の三人の反応は一体どうしたことか。

 少し考えてわかった。昨夜、俺と吉川さんが二人きりで酒を飲んだことは他の誰も知らないことなのだった。そこに来て「昨夜はどうも」などという挨拶は余計な誤解を招きかねない発言だったと思い、己を恥じた。それにしてもあの吉川さんの反応はいかがか。見た目は現代風のギャルっぽいが、どうしてなかなか奥ゆかしくてかわいらしい。俺が死ぬまでにあと何回、二人で飲みに行けるだろうか。


 その日の仕事は恙なく過ぎた。客を迎え入れてコーヒーやジュースを運ぶ。仕事の合間、「最終的解決」についてあれこれ考えた。

 死に場所は決まっている。日光の華厳の滝だ。問題は決行の日時である。チャンスさえあればいつでも良いと考えていた俺の考えがまとまったのは、昼休みのことだった。

「お疲れ様です」

 休憩室に入ると、先客がいた。遊佐さんだった。遊佐さんは、たしかネットブックとかいう小型のノートパソコンを開いたまま顔を上げ「お疲れ様です」と浅く頭を下げた。長い黒髪がかすかに揺れる。

 テーブルの上には新しいシフト表が置いてあった。そういえば、そろそろ次のシフトを決める時期だった。

 俺がバイトをしているコーヒーショップでは、毎月一回シフト表が休憩室の机の上に置かれ、それは早番、中番、遅番の三つの欄に区切られて一ヶ月分が並んでいる。自分の名前の欄の、出勤可能な場所に○を付けるのだが、俺は来月初日からの四日間を空欄にして、あとは適当に○を付けていった。つまり、来月初日からの四日間を決行の日と定めたのだった。

「珍しいですね、四日も続けて休むなんて」

 シフト表を覗き込んだ遊佐さんが、意外そうに言う。

「ああ、ちょっと旅行に」

「あら、いいですね。どちらまで?」

「栃木の日光まで。なに、遊びじゃないんだ。ちょっと最終的に解決しなければならない問題があってね」

「そうなんですか」

 彼女はさして気にする様子もなく、またネットブックに顔を落とした。遊びじゃないと聞けば普通は「何かあったんですか」とか「大切な用事なんですか」とか訊くものだろう。この行動からして、彼女がいかに俺という人間に興味を持っていないかがわかるというものだ。べらぼうめ、こちとらもお前に興味はねえやい。

「何をしているの」

 俺の気持ちと言葉は、まったく逆だった。彼女がこの休憩室でノートパソコンを開いているところは初めて見る。興味を持つなと言う方が無茶というものだ。

「ああ、えっと、実はその……」

 すると彼女は急に恥ずかしそうに体をもじもじとさせた。不覚である。胸がちょっときゅんと鳴った。

 少し言い淀んだが、彼女はやっと、恥ずかしそうに言った。

「実は、小説を書いているんです」

「なに、小説を?」

 一層、興味を引かれた。なぜなら、俺も小説家だからだ。だが、彼女は俺が小説家であることを知らない。ここで「実は俺って小説家なんだよね」とでも言えればあまり会話をすることのない彼女と幾ばくかの交流を持つことができたかもしれないが、敢えて隠した。俺の小説家としての実績があまりにも乏しいことが理由の一つだった。情けない。しかしまた、その実績が華々しければ、こうしてここに居ることもないのだ。

「新人賞でも狙ってるの?」

「いえ、そんな大層なことじゃありません。小説は好きですけど、書くのは初めてですから。ネタもちょっと思いついただけだし。たまたま思いついただけの小説で新人賞なんて、そんなに甘いもんじゃないでしょう?」

「まあ、確かにね」

 やけにわかってるじゃないか。実際、俺も小説家としてデビューする前に、何度も賞に挑んだ。初めての投稿は高校生の頃だったと、ふと懐かしく思った。確かに甘いもんではなかった。最初に投稿した小説を今でも読み返すことがあるが、いかにも幼稚で読み返すたびに恥ずかしく思う。

 遊佐さんが続ける。

「いくつも小説を読んでるうちに『いつか自分も書いてみたい』と思って、それがいつの間にか『自分でも書ける』になっちゃうんです。でも、それはちょっと甘く見過ぎですね。書くだけなら誰でもできますけど、上手に面白く書くのが難しいんだって、今思っています。それに、新人賞に応募して賞を取って、売れるような作品を書くには、やっぱり今の流行りも掴まないとだめなんですよね」

 いつになく、遊佐さんは俺に対して饒舌になっていた。文学という共通する趣味を持っているのがこの店では俺と遊佐さんだけなので、これまでも自然とそうなることはあった。この時の遊佐さんは、まさにそうなっている。ならば、俺も彼女に対して真っ向から対峙しようと思った。

「それは違う。流行り廃りで書かれた小説なぞ、文学とはほど遠い。かつての文豪たちはその思いを紙に託し、今も人々を感動させ続けているじゃないか。それが本当の文学というものだよ」

 だが遊佐さんは、ここでなぜそんな顔をするのかわからないが、悲しそうな顔をして俯き、エンターキーを押した。

「それは、その、先輩のおっしゃることもごもっともですけど、今は文学の形も変わってきてるんじゃないかと思うのです。売れ筋を掴んでいても、感動できる作品はたくさんあります。売れ筋を掴んで、なおかつ感動させるのもまた文学なんじゃないでしょうか。わたしはライトノベルで涙を流したこともありますよ」

「……」

 ――太宰治だって芥川龍之介だって川端康成だって、売れるものを書いたから売れたんだよ。だから文豪なんだよ。

 先日の、西上氏の言葉が蘇る。確かに、ライトノベルで流す涙もあることだろう。それはいつかの深夜アニメで我が不肖の愚息が反抗期に突入したことと関連があるのか。

 断じて否。

 そんな安い涙を流すほど、俺の体に余計な水分は存在しない。まして文学的感動と偶像に対する性的衝動を同一に列するなどあってはならない。これ以上不愉快にならないうちに、話題を変えることが先決だった。

「では今、君はどんな作品を書いているんだい?」

「今はちょっと、詳しくは言えません。でも、人が自殺するからには、よほどの理由があるんだろうなと思って。それがきっかけです」

 不愉快は収まったが、かわりに俺は動揺した。あまりにタイムリーすぎて。四日の休みの間、俺はまさに死ぬのだ。まさか彼女が何かを察したかと考えてみたが、そんな兆候を出した覚えはない。隠せない動揺を隠し、敢えて俺はこう訊ねる。

「なんだい、穏やかじゃないテーマだね。遊佐さんの知り合いで自殺でもする人がいるの?」

「いえ、そうじゃありません。それはあくまでネタとして思いついたことですから。でも、いつか小説を書いてみたいと思うきっかけになった人ならいます」

「ほう、誰だい?」

「何人かいますよ。森見登美彦さんとか、桜庭一樹さんとか、有川浩さんとか、他には米澤穂信さん。乙一さんもいいですね。あとは、そう、晃昭錬太郎さん」

「こ、晃昭錬太郎? あんな人の本を読むんじゃない。痔になるぞ!」

 慌てて詰め寄った俺だが、遊佐さんが驚いたように思いっきり体を仰け反らせたので、俺は「おっと失礼」と、慌てて彼女から離れた。

「晃昭さんに何か嫌な思い出でもあるんですか?」

「い、いや、晃昭先生は、ちょっと理屈ばっかりで内容が薄いのだよ」

「そうでしょうか?」

「そ、そうとも」

「晃昭さんはどうかわかりませんけど、他にもひどく理屈っぽくて、ひねくれてて、まるで呪文みたいな文章を書く小説家なら、一人知ってますけどね」

「誰だい、それは」

「お名前は……すみません、失念しました」

 俺はほっと胸をなで下ろした。そこで俺の名前が出てきたら、来月頭の四連休を待つことなく、この場で腹をかっ捌きかねなかった。もっとも、デビュー以来二冊しか本を出版することなく、その両方とも重版のかからなかった無名小説家の中でも最たる俺の名前がここに上るなどありえないことだ。あんなにマニアックな俺の作品を、彼女が知っているはずはない。

 しかし、自分の作品を評してマニアックとは、我ながら自虐的に過ぎやしないか。それはもちろん、自分の作品が売れれば、それは嬉しいことだ。だが、俺の作品は世の中の売れ筋とやらに毒されてマニアックな位置に甘んじている。確かに、俺の小説には萌えなヒロインもいなければ魔法や超科学といったファンタジーも存在しない。ライトノベルのような砕けた文章も存在しない。かわりにあるのは、文学と哲学だ。

「納得できない」

 そう呟いて議論を再開しようとしたが、遊佐さんは「では時間なので」と席を立った。


 バイトも終わり、俺は自宅への道をとぼとぼと歩く。あともう少しでこの街ともお別れだ。そう思って眺め回してみると、見慣れた住宅街もいくらかの新鮮味を持って感じられるから不思議である。

 昼休みに遊佐さんと議論をした。しかし結論は出なかった。文学とは一体何だ。かつてから考えていたそんな疑問がなお深まったのみであった。

 いつもの俺ならば「なんと不毛なエネルギーを使ったことか」と後悔するところだが、今回は逆だ。むしろ死ぬための良いきっかけができたのではないか。

 死ぬためには、それなりの準備をしなければならない。その最も重要な準備は、遺書だ。部屋に戻ると、西日でほどよく熱せられた空気がどばっと流れ出す。

 今どき風呂なし、トイレ共同という骨董品のようなアパートは、俺の書く小説に似ている。訪ねてきた友人はこのアパートの環境に皆驚くどころか嫌悪すら催すようだが、俺はこのアパートが気に入っていた。西日は差すしエアコンもない、六畳一間に申し訳程度のシンクとガスコンロのみがあるこの部屋だが、むしろそれは一切の無駄を排していると言えた。寝る場所はある、小説を書くにも困らない、電源はパソコンとプリンターと携帯電話の充電ができればじゅうぶんである。なんだかんだ言って駅からも近いし、家賃も安い。贅沢と縁を切りさえすれば、これほどの極楽は存在しない。そして、この部屋が極楽であることを認めているのは、少なくとも俺の知る範囲では俺だけである。

「マニアックだ」

 西日の差し込む窓を開き、換気をする。それでも窓から差し込む微量の風は、少しも涼しくはなかった。机の引き出しから愛用の扇子を取り出し、ぱたぱた仰ぐ。冷房器具などこれで十分だ。冷房のない時代には上は将軍から下は町人まで、皆、これで暑さをしのいだのである……が、当然、この程度でしのげる暑さではなかった。扇子で扇ぎながら、押し入れからタオルと洗面器を引っ張り出して銭湯に行く準備をする。

 そうしながら、いつの間にか初夏が過ぎ去って盛夏に差し掛かっていることに、俺は気がついた。夏はいろいろなものが腐りやすい季節だが、衆人環視の中で滝壺に飛び込む俺の体は腐る前に引き上げてもらえるだろうか。

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