2・死ぬためには死ぬしかない(3)

 あまり酒が得意ではない吉川さんのペースに合わせて飲んだので、些か飲み足りない。コンビニでカップ酒を三本買い、うち一本を今日死骸となった我が思想と文学に捧げようと思ったが、その亡骸は死神が持ち去ってしまったのだった。

 アパートに帰ってみると、部屋の明かりが点いていた。いかな世間に理解されない文学者とて明かりの消し忘れくらいあるであろうと特に気にせず部屋に入ると、そこに居たのは死神であった。

「おい、なんでお前がここにいる!」

 酔いも手伝って、思わず大声が出た。死神は俺が寝起きしている万年床の上に腹ばいになっていた。彼女は何でもないことのようにこちらを振り向いて「死神だからね」と、へらっと笑った。

「答えになってない。それになんだ、死神から墓荒らしに転職でもしたのか」

 部屋を見渡すと、押し入れが開けられ、俺の思想と文学の墓場たる段ボール箱が開けられていた。その遺骸たちはいま、死神の横に積み上げられている。

「面白いのか、そんなものが」

 言うなればそれらは編集担当が「面白くない」と判断したがために墓場に収まったものである。それを改めて引っ張り出して読んだところで、まして高校生ぐらいの年頃の若者が読んだところで面白がるとは思えない代物だ。だが、死神は「んー」と考えて、言葉を選びながら言った。

「読む人によっては面白いんじゃない。わたしには、ちょっと言葉が難しすぎるかな、とは思う。作品の中にはケータイとかネットとか出てくるのに、まるで明治時代の本を読んでるみたい。けど、なんでこれがだめなんだろ。すごく一生懸命書いたんだな、って伝わってくるよ」

「あのね、一生懸命書くのは当たり前。だからって売れれば誰も苦労しないの。お前はレストランで焦げた料理を出されても『一生懸命作りました』ってコックが言ったら、それで納得するのか?」

「そういうものなんだ?」

「そういうものなんだ」

「でも、ごく一部だけど、好きな人はいるみたいじゃない?」

 そう言って彼女がひらひらとかざしたものに、俺は目を剥いた。

「おい、どこからそんなものを」

「段ボール墓場の横に置いてあったよ」

 死神の手から、それを強引に奪い取る。奪い取ったそれは数枚の封筒だった。それも味気ない茶封筒ではない。

「ファンレターでしょ、それ」

 まさにその通りだった。これは俺が本を二冊出版した折に届けられた、数少ないファンレターだった。

「こういう作品が好きだっていうんだから、よほどの」

「物好きか?」

「そうじゃないよ、読書家なんだなと思ってさ」

 読書家、か。

 そう聞いて、ふと脳裏をよぎったのは遊佐さんの顔だった。彼女もまたたいそうな読書家であった。

「まあ、そういう数少ないファンがいるってことを踏まえてさ」

 そう言いながら、死神は「うんしょ」と体を起こして、俺と向かい合うようにしてあぐらをかいた。

「それでも、本当に死んじゃうの?」

「何度目だ、その質問は。最前から死ぬと言ってるじゃないか」

「でも、三冊目を出版しないうちに死んじゃったら、そういう人たちのことを裏切ることにならないかな」

 これには答えられなかった。俺も死神の前にどっかとあぐらをかいてカップ酒の蓋を開けた。ぐびりと一口流し込んでも、いっこうに口はなめらかにならなかった。黙りこくった俺を死神が追撃する。

「いま死んじゃっても、誰もウサギさんのことを認めないんじゃないかな」

 認められる、か。

 俺の最終的解決に向けた方針は最初から変わってはいない。つまり文学不在のこの世の中に一命を以て警鐘を鳴らすことだ。しかし、それはとりもなおさず、俺自身が俺の死によって世間に認められるということを意味しているだろう。

 死ねば認められるのか。死ななきゃ認められないのか。死んでも認められないというのは最悪の想像だった。

「さっき、酒の席で藤村操の話をした」

「へえ、藤村操の」

 知っているのだろうか。俺は死神が思いの外に博学であることに感心しながら続けた。

「藤村操は、それまでは一介の学生だった。しかし彼は死ぬことによって世間に認知され、後追い自殺まで出た。藤村は死ぬことによって認められたんだよ。それに今時、華厳の滝から飛び降りて死ぬような者はいるまい。俺を除いては、な」

 吉川さんとの酒の席で、藤村操の話を出したのはまったくの偶然だった。しかし、その偶然によって、俺の最終的解決の手段が決まった。

「滝から飛び降りるの?」

「ああ」

「華厳の滝から?」

「ああ」

「観光名所でしょ。人がいっぱい見てるよ?」

「結構じゃないか」

「修学旅行の小学生に一生消えないトラウマを残すかもよ?」

「む、それは心苦しいが、致し方あるまい」

 短い問答を終えて酒を一口すすった。何気なく時計を見ると、既に時間は午後の十時を回っていた。そこではたと気づいた。

「って、お前、死神だかなんだか知らないが、もうこんな時間だぞ。そろそろ帰れ」

「えー、まだ読み終わってないよ」

「その量だろ、何日居座る気だ。くれてやるから帰れ。それと、三十手前の男が女子高生を部屋に上げているってのはいかにも外聞が悪い。今後はしてくれるなよ。それと、その万年床は俺の聖域だ」

「女子高生じゃなくて死神だってばよー、いいかげん信じておくれよウサギさん」

 へらへら笑いながら、死神は原稿の束をまとめ始める。段ボール一箱分にもなろうかという紙の束はかなりの重さになる。まして彼女の黒いスポーツバッグにも入らない。彼女もさすがにそう察してか、しぶしぶとその中から三作ほどをつまみ出してバッグに収めた。

「それじゃ」と手を振る死神を振り返りもせずに「気をつけて帰れ」と大人らしい言葉を返しながら、そういえば彼女はどうやってこの部屋に入ったのだろうと考えた。だが、郵便ポストの裏側に合い鍵を貼り付けておく習慣を思い出して、そのあっさりとした推理劇の幕切れに脱力した。俺は推理作家にもなれない。それよりも鍵の隠し場所を変えねばならないかもしれん。

「あいつめ、持ってくだけ持っていって、片付けをしないで帰りやがった」

 思想と文学の遺骸を抱え上げ、一作ずつ丁寧に墓場へと収めた。黙って人の部屋に入って押し入れを漁るとは、泥棒もいいところだ。顔見知りの犯行でもなければ即座に警察に突き出すところだ。

 最後の一作を墓場に収め、蓋を閉めた俺は、鈴(りん)をちーんと鳴らしてなむなむと手を合わせた。押し入れを閉めてから、俺はふと、しまい忘れた数枚の封筒に気づいた。

 貰った当時は嬉しくて暗記をするほど読み返したものだが、それからの俺はいつまで経っても三冊目が出せない焦りで、いつの間にかそれらのファンレターを忘れていた。

 おそらく今をときめく萌え系のライトノベル作家ならば、ファンレターの数も山のようになるのだろうなと激しい嫉妬心を抱きながら、俺は久しぶりにそれらの封筒を手に取った。

 押し入れに収めてあった封筒は、一冊目を出版した時に届いたものと二冊目の時のものとに分けて置いておいたのだが、それを死神はめちゃくちゃにしてしまったらしい。消印を頼りにより分けていて、俺はふと気づいた。

 同じ筆跡のものが二つある。

 封筒は二つとも違うものだったが、どちらも女の子が文通に使いそうな、かわいらしいデザインをしたものだった。

 不思議なことに、その二つの手紙には両方とも差出人の名前がなかった。封筒を開き、便箋を取り出して広げてみる。手紙そのものはさして長いものではない。両方とも便箋一枚に収まる程度の容量だった。


『デビュー作を拝読しました。一緒に読んだ高校の友達は内容が難しいと言って半分も読まずに放り出してしまいましたが、わたしは一度読み始めた本は読破しなければ気が済まない質(たち)なので、なんとか読みました。それに、わからないことをわからないままにしておくのも嫌なので、何度か読み返してみて、やっと意味がわかりました。実は、先生が言いたいことはとても簡単でわかりやすいんですね。ただ、ライトノベルに慣れた高校生にとっては、難しい文章を何度も読み返さなければならないのはちょっと酷というものです。内容も面白いので、先生の次回作に期待したいと思います。』


 記憶をほじくり返して、確かにこんな手紙も貰ったと思い出す。当時は「確かに俺の文学は高校生にはちと難しかろう、精進したまえ、はっはっは」と思った程度だったが、何度か読み返さねば理解のできない小説というのも、確かに世間に迎合されない理由の一つには違いない。だからと言って、文体を変えるつもりは全くなかった。言いたいことを直截に書いたものは、それは小説とは言わない。ただの作文である。そして、高校生が何度も読み返さねば理解できないほどの小説こそが文学だと、俺は常々考えている。それは「難しい小説」ではなく「深い小説」なのだと。

 二通目の便箋を開いてみる。


『先生は本当に意地悪ですね。デビュー作も難しかったのに、今回は輪を掛けて難しいです。それに、文章自体も呪文みたいで、最初に読んだときには面白いのかどうかさえもわかりませんでした。前回にも難しいと書いたのに、意地悪ななぞなぞを二回続けて出されたようで、ちょっとイライラします。でも、今ではこんな明治時代の文学みたいな小説を書く人は少ないので、逆に新鮮かもしれません。少なくともわたしにとっては、ですけど。なので、人にお奨めしたくてもできないんです、先生の小説は。

 次の作品こそ、期待してます。次こそ面白い小説を書いてくれたら、わたしの名前を教えます。』


 唐突な罵倒から始まる二通目の手紙を、当時の俺は鼻で笑ったのだったと思う。わかりやすい作品とはなんだ、わかろうとして読んでいないだけだろう。たしかそんなふうに思ったのだったと思う。

 二つの便箋を見比べる。筆跡は同じ。どちらも几帳面に整った、読みやすい字である。字も読みやすければ文章も読みやすい。相当に賢い子が書いたのだろう。内容から察するに、間違いなく女の子。最後に「次こそ面白い小説を書いてくれたら、わたしの名前を教えます」とあるが、おそらくそれは叶わぬ夢だ。そもそも見も知らない女子高生の名前を知ったところで俺に一体何のメリットがあるというのか。三作目で名前を教えてもらい、四作目でメアドを教えてもらえる、するとさしずめ、五作目あたりで「こんどお会いしましょう」となり、六作目あたりになれば「お付き合いしてください」とでもなるというのか。

 ありえん。まったくありえん。そんな展開など、それこそ萌え系のライトノベルではないか。まして女子高生は俺の守備範囲外だ。俺の好みはおしとやかで知的な大人の女性だ。それに、間もなく死ぬ予定である俺にあと四冊もの本を出版することなど叶わない。

 何年も前に届いたファンレターなんぞ読み返して何の埒があくものか。俺は手紙を封筒に収め、文学墓場の横に安置した。

 ささくれ立った畳の上にどっかと腰を下ろし、カップ酒を開けた。その手でタバコを一本つまみ、火を点けながら何気なく時計を見た。

 時計の針は、先日、まったくの偶然に俺が死ぬきっかけの一端を作った、あの萌えアニメの放映が始まる時間を示していた。

「ライトノベルに慣れた高校生に、おもしろい小説、か」

 テレビのスイッチを入れる。先週に見て以来、テレビをつけていないので、チャンネルはそのままになっていた。

 いまどきパンをくわえた女子高生と出会い頭に衝突してそこから恋が芽生えるなどという展開もあるまい。しかもその女子高生が、実は異界の魔王の落とし子で、線の細い男子高校生が否応なく怪奇な事件に巻き込まれるなどという恐ろしくあり得ない展開だ。しかもこの女子高生、どういうわけかやたら傲慢で、主人公を容赦なく貶す。それどころか殴る、蹴る。こんな顔ばかりで性格ブスのどこに魅力を感じるというのか。一体、この主人公の少年も情けない。俺だったら殴られた時点で殴り返さずに警察沙汰にしてやるものを。

「ふん、俺ならもっと面白いものが書けるわ」

 そう毒づいた俺だったが、そのあり得ない展開がやけに楽しいと思わされていることも、実際に居たら嫌悪の対象にしかなり得ない暴力的な萌えヒロインに奇妙な魅力を感じることも、また認めがたい事実だった。

 そんな自分が、途轍もなく不愉快だった。これ以上の自虐に耐えかねた俺はテレビのスイッチを切る。再び訪れた静寂の中で、タバコに火を点けた。カップ酒を一口呷った。

 俺は安い日本酒が好きではない。にもかかわらずカップ酒に甘んじているのは、ひとえに経済力の問題だ。本当ならば大吟醸でもやりたいところだが、そんなのは月に一度あるかないかの贅沢である。

 日本酒とは、その精米歩合によって、大雑把に清酒、吟醸、大吟醸とランク付けされる。精米歩合とは言わずもがな日本酒の原料となるお米を削った、その削り具合を示すもので、吟醸酒とは精米歩合六十%以下のものを指す。

 よく勘違いされることだが、この六十%とは精米した結果、残ったお米の量を示すもので、削った量ではない。つまり、一粒の米の四十%が失われた結果、吟醸酒が出来上がるのだ。

 大吟醸となればたいしたもので、精米歩合五十%以下のものである。つまり、お米の半分も残らないということだ。米一粒にするとたいした量には感じないかもしれないが、米俵に十俵のうち、酒造に使われるのは五俵以下だと言えば、その贅沢さ加減がわかるというものであろう。ゆえに、大吟醸は日本酒のなかでも最高級品である。なかには精米歩合七%という、神様が怒鳴り込んで来そうな贅沢な酒もあるというから驚きである。つまり、十俵の米のうち一俵すら残らないのだ。

「ふん、ライトノベルか」

 先日、俺はいつものカップ酒を購(もと)めるためにスーパーの酒売り場に行った。そこで目にしたのは様々な日本酒であるが、中にやけに安い大吟醸を見つけた。値段は千円もしなかったと思う。ちょっとした大吟醸ならば三千円は覚悟せねばならないが、いかにもこれは安すぎである。ラベルを見てみると、精米歩合は五十%とある。大吟醸と表示できるギリギリのラインではないか。

 きっとこれも粗製濫造されたものに違いない。

 買えない値段ではなかったが、そう思って、俺はその大吟醸を買わずに置いてきた。

 読者諸賢、俺はこれまでたびたびカップ酒を飲んできたが、決してうまいと思って飲んでいるわけではない。うまくはなくても手に入りやすく、飲みやすいもの、ということになると、どうしてもカップ酒に手が出てしまうのだ。

 しかし、ここで俺はふと、カップ酒と小説の奇妙な類似を発見した。

「もしかして、このカップ酒はライトノベルか?」

 このぶっ飛んだ発想は、もちろん酔いも手伝ってのことだと思う。ライトノベルは多種多様、手に入りやすいかわりに、人口に膾炙(かいしゃ)されずに消えてゆく作品も多い。その一方で、アニメになり、映画になり、漫画になり、ゲームになり、多くの人の記憶に残る作品もある。それはおそらく、先日にスーパーで見た安い大吟醸なのだろう。

 だが、俺が書いているのは精米歩合七%の大吟醸の中の大吟醸であると自負する。しかし、そういった酒は店頭に並ぶことも少なく、値段も高い。目指すならばそういった大吟醸だろう。

「安い大吟醸、ね」

 俺はパソコンの電源を入れた。ワープロソフトを立ち上げ、戯れに精米歩合五十%の安い大吟醸を醸してみた。

 とは言っても、作品を書き始めたわけではない。登場人物や設定を大まかに決める、プロットと言う段階だ。

 まず、主人公は多くの例に漏れない、線の細い男子高校生。こいつはコンプレックスだらけの方がいい。身長は低く、成績は低迷、運動音痴。顔だけは中の上ぐらいにしてやったほうが、こいつも浮かばれるだろう。性格は極めておとなしく、引っ込み思案、人との付き合いが下手で発する言葉と行動の全てが裏目裏目。誤解され、疎まれることもしばしば。ふとしたきっかけで、こいつは自殺するのがいい。

 そんな彼の目の前に現れるのは、死神を名乗る少女。こいつはうんと美少女にしてしまおう。長い黒髪に、子猫のようなつぶらで大きな瞳、服装だけは黒ずくめ。大きな鎌はちょっと大袈裟だから、かわりにバタフライナイフでよかろう。そしてスマートフォンでも持たせようか。

 んで、この死神が何をするかというと、主人公の自殺をことごとく邪魔するのだ。死神のくせに。この死神、どうしてくれよう。ただ幽霊のように付きまとわせるのでは芸がない。主人公のクラスに転校させようか。それともいっそ、同居させてしまおうか。そして、死神と主人公の仲を邪推する、主人公の幼なじみの女の子。こいつが実は小さい頃から主人公のことが好きで……。

「ふん、バカバカしい」

 パソコンの電源を切って、新しいタバコに火を点けた。窓を開けて白く濁った部屋の空気を追い出し、カップ酒を呷った。

「まことに不健康なことだ」

 今さら健康など気にしたところでどうなるものか。もうすぐ俺は死ぬのだ。

 カップ酒の最後の一口を飲み干し、万年床に横になった。しかし、いつもの万年床に違和感を覚える。

 匂いだ。自分のものではない匂いがする。

 思えばこの布団に寝そべって、死神は俺の文学墓場をあさっていたのだったな。一年中敷きっぱなしの万年床からは、死神の少女らしい甘い残り香が漂い、俺の全身を包んでいた。

 枕元のティッシュペーパーを二枚、掴み取った。

       ※ ※ ※

「掴みました。日光の華厳の滝です」

「了解。こちらも詳細がわかったら報告します。連絡を密にしましょう」

「オッケー。なんとか阻止してみせます」

「よろしく。問題は決行の日時ですね」

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