2・死ぬためには死ぬしかない(2)
ふと目を開けると、発車ベルが鳴っていた。そこは新宿駅。一昨日の徹夜が祟ったらしく、俺は居眠りをしてしまったのだった。死神は、いつの間にかいなくなっていた。
どうやら寝過ごすことはないらしいと安堵していると、尻ポケットで携帯電話が震えた。表示を見ると、なんと吉川さんからのメールである。
いわく「いまバイトが終わって暇なので、一緒に飲みませんか?」ということだった。「飲みませんか?」の後ろにはビールの絵文字が置かれ、他にも星やらハートやらでごてごてと飾られている。もちろん俺はこういうメールを打つ趣味はない。了解したことと三十分以内にはそちらに到着することを文字だけで伝えて、俺は電車に揺られ続けた。
「待たせたね」
最寄り駅に着くと、吉川さんは改札前で待っていてくれた。コーヒーショップでのバイト明けでやや疲れたような表情が微妙なアクセントとなって、彼女の美しさをなお引き立てる。
「他にメンツはいないのかい?」
わかっているが、一応訊いてみる。すると案の定、吉川さんは「わたしと先輩の二人だけですよ」とはにかんだ。この恥じらうような表情が、俺は好きだった。死ねばこの笑顔も見られないのかと思うと、それだけが唯一の心残りである。
二人で飲むときは、いつも店が決まっている。それはバイト先のコーヒーショップのはす向かいにある洋風居酒屋だ。店の正面が一面ガラス張りになっていて、正面の席に座ればコーヒーショップが見えた。自動ドアの奥ではイケメン店長の姿が見え隠れしている。
はじめて二人で飲んだ時、俺はその立地ゆえに「あらぬ噂を立てられては大変だ」と主張したが、彼女がいっこうに構わないというのでそうしている。お互いに満更でもないのだ。にもかかわらず、俺たちにお付き合いしているという事実はない。俺もまた「付き合ってください」とは言いかねた。一つには恥ずかしさがあり、もう一つにはまだお互いを深く知り合っていないということがある。まあ、こうして二人の時間を過ごしながら徐々にお互いを知ってゆき、それなりの仲となることであろう。また、恋人同士でもなく単なるバイト先の先輩後輩でもない、この微妙な間柄が妙に心地よい。
「先輩は、今日はどこかに出かけてたんですか?」
「ああ、ちょっと野暮用でね」
「もしかして、忙しかったとか?」
「しまった」という顔で、彼女は手で口を覆った。こういう仕草のいちいちが、美しい。
「いやいや、ちょうど終わって帰るところだったんだ。俺も暇だったから、ちょうどよかったよ」
出版社に原稿を持ち込んでそれが没になったとは言えない。俺はバイト先の誰にも、自分が小説家であることを明かしてはいないのだ。
もし、正式に付き合うことになったら、吉川さんにだけは明かしてもいいかもしれないと思ったが、俺はそれを打ち消した。もうすぐ死ぬのに付き合うもへったくれもありゃしない。しかし、吉川さんと付き合っている自分を想像すると、それはどうにも幸せだった。
なんてことだ、この期に及んで生への執着を感じるとは。
最初は当たりも障りもない会話だったが、酒が進むにつれてだんだん話がマニアックになってくる。これもいつものことだ。
「そう、面白い話があるんだよ。明治時代に藤村
「どうしてですか?」
「言ってみれば、哲学的な悩みとでも言うのかね。ともあれ、エリート学生である藤村の厭世観による自殺は立身出世を美徳とする当時の風潮に大きな衝撃を与えたんだ」
「へえ」
「藤村に賛同する者も多く、後追い自殺が相次いで、おかげで華厳の滝は『自殺の名所』という有り難くない二つ名を頂戴する羽目になっちまった。まあ、華厳の滝にしてみれば、迷惑千万な話だ」
「そうですね」
「でも、俺は藤村の死は命を軽んじる『自殺』ではなく、恥の文化を根幹とした武士道に則る『自決』だと思うのだ」
「すごいなぁ、先輩と一緒にいると、どんどん賢くなるような気がします」
「いやぁ、俺は自分の知っていることを喋っているだけで、たいしたことはないのだよ」
「そんなことありませんよ」そこで一度言葉を切り、吉川さんは俯いた顔を上目遣いにして「わたし、もっと賢くなりたいです」と言った。
俺の胸が大きく鳴った。胸の筋肉がもう少し薄かったならば、俺の心臓は自爆テロを起こして店中を鮮血に染めるテロリストとなったことだろう。
「知識は共有すべきものだ。自分一人に収めておいても仕方がないからね」
お付き合いしましょう。受け取りようによってはそうとも聞こえる言葉を残して飲み会を締めるのは、いつものことだった。しかし今回ばかりはその言葉を残したことを後悔した。もし彼女が俺の詩的表現を受け取ってしまったら、最終的解決への決意が鈍る。
店を出て、俺と吉川さんは「それじゃあ明日」と分かれた。彼女は駅の方へ、俺は駅とは反対の方へ。
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