2・死ぬためには死ぬしかない(1)
ようやく夜が明け始める頃、俺は押し入れを開けた。押し入れの半分にはガラクタが収めてあるが、もう半分には近所のスーパーで貰った段ボール箱が一つ置いてある。その段ボール箱の前に置いてある
この段ボール箱は墓場である。デビューして以来、日の目を見ることのなかった没原稿の墓場である。言ってみればこの箱は、俺の文学と思想の墓場とも言えた。情けないことに、やや大きめのこの段ボール箱は間もなく満杯になろうとしていた。
窓際のパソコンの横に置かれたプリンターからは、ジジジ、ジーという機械的な音とともに、俺の文学と思想が数百枚に渡って吐き出されているところだ。その数百枚の原稿もまた、この中に収まるのであろうか。
やがて印刷が終わり、原稿の右上に穴を開けて紐で綴じる。それを大判の封筒に収めながら、昨日の死神のことを思い出した。
死神は言っていた。「もしこの作品が売れたら死なないのか」と。
もちろん、俺は作品を書くからには一切手を抜いたつもりはない。常に前作よりも面白いものを創ろうという気持ちで書いている。今回だって、これまでの中で最高傑作のつもりだ。もし、この作品が売れたら、もちろん嬉しい。重版がかかれば、なおのことよろしい。書店で平積みになっている自分の作品を想像すると胸がわくわくする。もしそうなったら、俺は最終的解決を中止するであろうか。
しかし現実を考えれば、俺はこの作品も売れないだろうと思っていた。それはこの作品が、あの墓場に収められた没原稿と似たり寄ったりの文章だったからだ。だからこそ、俺は死神の前で最終的解決を撤回しなかった。ではなぜ売れないとわかっているものを書くのかと言われれば、それが俺の文学であり、思想だからだとしか答えることができない。よしんばこれが、二冊目と同様にお情けで出版してもらえたとしても、四冊目が出る見込みは限りなく低いと言わざるを得ない。
どちらにしろ、この作品が俺の絶筆となることであろう。
まことに、俺は女々しい。
出版社に向かったのは、その翌日の夕方のことだった。原稿は昨日の朝一番にメール便で送ったので、そろそろ担当者も目を通しただろうと思ってアポを取ると、その時間に来いとのことだったのである。
この出版社の編集部には何度となく足を運んでいるが、どうにも慣れないのはそこにいる人々の視線である。まるで腫れ物を扱うと言うよりは「人には言えない部分にできたできものを眺める」ような目なのだ。だが、その視線は慣れないながらも理解できる。何度となく出版を拒否されてもなおこれほど足繁く通ってくる作家はそうそういないであろうから。デスクをせわしなく歩き回りながら、パーティションで仕切られた応接スペースをのぞき込む編集者たちの目は「なんでこんな奴に新人賞をやってしまったんだ」と言いたげである。
まったくそう思う。あそこで新人賞さえ取らなければ、俺は真っ当な社会人になっていたのかもしれない。毎朝規則正しく起き、朝食を摂り、背広を着て出勤する、そんな
「やあやあ、お待たせお待たせ」
コーヒーの缶を二つ持って現れたのは、俺がデビュー以来お世話になっている編集者だ。年齢は背伸びをすれば五十に届くぐらいのベテランだが、見た目は三十代でも通るほどには若々しい。初夏なのに既に健康的に日焼けした頬の上には、フレームの薄い眼鏡が乗り、短く刈りそろえた髪は黒々としていた。名を西上さんと言う。
「いやぁ、急に一人辞められちゃってね。忙しい忙しい」
そんな忙しい中で原稿を読んでくれたことに恐縮して、俺は「はあ」と小さく身じろぎした。しかし、西上氏は俺の原稿の束を持っていない。もはや検討するにも値しないということだろうか。俺の文学と思想は墓場に葬るまでもなく、既に事務所の奥にあるシュレッダーによって裁断されてしまっているのか。
「それで、どうですか、今回は」
「ああ、それなんだけどね」
西上氏が言い淀んだあたりで、見当は付いた。
「今回もウサギですか」
「ウサギだね」
西上氏は、俺が友人からウサギと呼ばれていることを了解している。それを話した時、西上氏は「きみに足りないのはそういう洒落っけだよ」と笑っていたが、何のことやらさっぱり見当がつかない。
俺が深くため息をついた時、西上氏は突然立ち上がった。見上げると、彼はパーティションの外側に向かって「これは先生」と深く頭を下げていた。振り向くと、そこに立っていたのは背の低い、ちょび髭を生やした壮年と初老の間ぐらいの男だった。目つきだけはやたらとぎらぎらしていて、ヒットラーを太らせたらこんな感じになるのであろうと思わせる風貌である。
俺も反射的に立ち上がった。自分のつむじと西上氏の額が衝突する寸前で回避したため、だいぶ無様な立ち上がり方になってしまった。
「――
晃昭
晃昭先生は「まあまあ」と俺たちを座らせると、西上氏の隣に座った。そしてまるで値踏みするかのように俺を眺め回して、言いくさったのであった。
「たまたまここに用があってね、斜め読みだが、読ませてもらったよ。いやぁ、君がまだものを書いていたとは知らなかったねぇ」
あまりといえばあまりな言いぐさである。ローテーブルがもう少し軽ければひっくり返していただろう。運動不足が否めない。
「そもそも君、あの頃から全然成長してないね。ちゃんと本読んでる?」
「本は読んでいますが、いやしかし、自分は自分の文学と思想をですね」
やっとの思いで試みた反論だが、それは自分でもわかるくらいぼそぼそ、ごにょごにょとして喉の奥からひっそり漏れただけであった。嫌いな相手だが、やはり大作家のオーラを感ぜずにはいられない。しかし、その声は相手には届いたようだった。
「そりゃ君、
「いやそれが、何度言っても聞かないんです」
西上氏が晃昭先生に耳打ちするが、その声はこちらにだだ漏れであった。晃昭先生は「ふうん」と、手の施しようのない末期癌の患者を見る医者のような目で俺を見ると、「よく新人賞獲れたもんだ」と独り言のように呟いた。たしかに、それは俺も不思議である。
「そうかい。しかし、それにしても中途半端だな」
「中途半端とは?」
晃昭先生のつぶやきに、俺は顔を上げた。
「そこまで頑固なら、あのとき『それならこれで貴様のケツが拭けるものなら拭いてみろ、そして痔になれ』と私の尻に原稿を叩き付けるぐらいの気概が欲しかったなぁ」
なんてことだ、やっておけばよかった!
後悔していると、晃昭先生は「それじゃ」と席を立った。そして立ち去り際、俺の手がまったく届かなくなった位置で振り返り、「ほら、今もやらない」と言い捨ててフロアを去っていった。
ふざけやがって!
俺はやおら立ち上がり、太ったヒットラーを追いかけた。そして、その背中にドロップキックをお見舞いする。太ったヒットラーは「あべし」と叫ぶと、樽のような体をころころ転がしながら、出入り口の観葉植物をなぎ倒し、「ひでぶ」と情けない声を立てて白目を剝いた。
……という想像をした。
しかし、一つ意外だったことがある。晃昭先生とは数年前に酷評された際に一度会ったきりなのだ。にもかかわらず、彼は俺のことを覚えていた。大作家とは記憶力も良くなければ勤まらないのだろうか。
「まあ、なんだ」
西上氏が封筒に原稿を収めて俺の前に置いた。持ち帰れということだ。
「売る気があるなら売れるもん書いてくれないと困るよ。文章は上手いんだからもったいないと思うなぁ。こっちだって商売なんだし、『一生懸命書きました』『はいそうですか』って感じで本を出してやるわけにはいかないんだよねぇ」
「売れるもんってなんですか。そんなのが文学なんですか。そんなのは自分の書きたいものじゃないんです」
作品の遺体を抱えて言うと、西上氏の回答は実にあっさりしたものだった。
「そうだよ。君はたしかに文学に明るいけど、太宰治だって芥川龍之介だって川端康成だって、その上で売れるものを書いたから売れたんだよ。だから文豪なんだよ。」
なんで自殺した人の名前ばかり出すのだ。
「でも、いくら売れるからって、文学も思想もないような小説なんて小説と言えるか疑問です」
「ラノベだって思想や文学がないわけじゃないだろう、出版社だってそれほどドライじゃないよ。それはそうと、さ」
どうせ言ったって聞きやしないと思ったのだろうか。西上氏は突然話題を変えた。
「まだコーヒーショップでバイトやってるんだろ。どう、調子は」
「まあ、ぼつぼつやってます」
「ちゃんと就職する気はないの?」
「いや、自分は文章で食って行きたいのです」
ちょっとムカッときた。西上氏の言葉は「お前は小説家に向いてないから素直に就職でもしろ」と取れる。もしかしたら顔に出たのかもしれない。西上氏は慌てて、取りなすように手を振った。
「いやいや、小説を書くなと言ってるんじゃないよ。実際、売れなくてもあれだけ書けるんだから、向いてないわけじゃないと思うし。だからもったいないんだけどね。でも、君はクソが付くほど真面目だから、重宝してくれる職場もあるんじゃないかな。もしかしたら、教師なんか向いてるかもね」
「生憎、大学で取ったのは司書で、教職は取っていません」
「ありゃ、そうなんだ。そうそう、学校といえば、まあ、君に言っても仕方ないかもしれないけど、どうも最近、姪っ子の様子が変でね。自殺でもしないかって心配なんだよね」
「はあ、そりゃ心配ですね」
目の前にも自殺しそうな男がいるぞ。
「うん、兄貴の子で高校生なんだけどね、学校でなにかあったのかな」
姪っ子で高校生ということは、女子高生だろう。女子高生と言えば、正確には女子高生ぐらいの年頃の子といえば、俺にも一つ心当たりがあった。それは昨日の死神だ。あのへらっとした笑みが頭をよぎったが、西上氏の姪っ子とは結びつかない。ごく近い例として思い浮かべたに過ぎない。
「昔は明るい子だったのに、高校に入ったらいきなり暗くなってね、ろくに会話もしないし、家に帰っても部屋に引きこもりっきり。学校にもちゃんと行ってるんだか」
なんだってこの男は俺にこんな話をするのだろう。顔を見れば、それはよくよくな心配顔である。眉間に深く刻まれたしわと、こちらに顔を向けながらも俺を見ていないその目つきでそれと知れた。誰彼構わず打ち明けたい気持ちなのだろう。俺だって小説家だ。その程度の心の機微はわかるというものだ。
しかし、打ち明けられたところでこれといった解決策などあろうはずもない。
「高校生ぐらいの年頃の子が自殺を考えるなんて、よくよくだよなぁ」
「そりゃ、友人関係とか成績とか家のこととか、色々あるでしょうけど。でも、だからって自殺すると決めつけるのも早計ですよ。自殺はよくよくです」
それよりも目の前の売れない作家を心配したほうがよい、とは言わないでおいた。
「さて、仕事に戻らなけりゃ。急に一人辞めちゃってね、忙しい忙しい」
これは「用が済んだらとっとと帰れ」という意思表示だろう。西上氏に「ではまた」と頭を下げて編集部を出た。もう来ることはないであろうに、「ではまた」とは我ながらおかしな挨拶をしたものである。
屋外に出たところで、タバコを一本くわえた。火を点けて、編集部では手を付けなかった缶コーヒーを開ける。小脇に遺体を抱えているので不自由だった。
出版社社屋の出口脇には灰皿が置かれ、屋内禁煙の清浄な社屋から逃れた、濁った空気の好きな社員たちが思い思いにタバコをくゆらせる。その中に混じって一本を吸い終え、俺は帰宅するためにJR総武線へと乗り込んだ。
やはり今回も売れなかった。落胆はあるが、驚きはない。何度となく繰り返してきたことだ。あとは墓場へ葬るのみとなった文学と思想の亡骸を撫で回していると、その上にぬっと影が差した。
顔を上げると、満面の笑みを浮かべた少女がそこに立っていたのだった。
「お前は、死神!」
彼女は、昨日とまったく同じ黒のパーカーとジーンズで、俺の顔をのぞき込むようにしてそこに立っていた。俺が彼女の姿を認めると、隣の空席にすとんと座った。
「なんでここにいるんだ」
「どう、売れた?」
俺の質問に答える気はないらしい。
「見てわからないか?」
「売れなかったんだ」
残念残念と呟きながら、死神は俺の手の中の遺体へと目線を移した。
「これがその原稿?」
「ああ、そうだ」
「この原稿、どうするの、捨てちゃうの?」
「いや、葬るのだ。俺の部屋の押し入れは墓場なんだよ。俺の文学と思想の遺体が収められた墓場なんだ」
死神はふうんと頷くと、遺体に手を伸ばす。
「じゃあこれ、ちょうだい」
「これをか? どうするのだ」
「トイレットペーパーにしようかな」
「痔になるぞ」
「冗談だよ、読むに決まってるでしょ」
そうか、読むのか。
死神とは言え、もう誰の目にも触れることがなくなったであろう原稿が再び読まれるのならば悪い気持ちはしない。彼女が本当に死神であるとは毛ほども信じてはいないが、死神が遺体となった文学と思想をあの世に持って行ってくれるならそれも一つの埋葬の形であろうと思った。
「くれてやる。好きにしたまえ」
分厚い封筒を差し出すと、死神はほとんど奪うようにしてそれを受け取り、さも大切そうに胸に抱えて「ありがとう」と言った。何がそんなに嬉しいのか。
しかし、死神に抱えられたその原稿は、これから読まれるのだと思って見ると、にわかに命を吹き返したように見えた。抱えているのは死神なのに、不思議な話だ。
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