1・我こそは死神(3)
考え事の続きは仕事でもしながら、と思い、店に出た俺は店長から渡されたオレンジジュースをトレーに乗せ、フロアを歩いた。ジュースと一緒に渡された番号札と同じ番号札を持った客を捜して「お待たせいたしました」と置いた瞬間、俺は驚いて十センチほども飛び上がった。その客が俺を指差して叫んだのである。
「あんた、死ぬ気でしょ!」
と。
「は、え?」
世の中には死期の迫った人間を見分ける能力を持った者がいると聞いたことがある。だが、それはもっぱら空想の産物だと俺は思っていた。昨夜から考え続けていた自らの最終的解決についてずばり言い当てられ、俺は頭が真っ白になった。鼻先には、まだ白い指が突きつけられている。寄り目を戻すと、焦点がその指と声の主に合った。
動物で言えば、そう、子猫。しかも黒猫といったところか。まん丸い大きな瞳はかわいらしい。長く伸びた黒髪は遊佐さんのそれと似ている。しかし顔立ちは、美しいと言うよりもかわいい。白い肌の中で桃色のグロスが引かれた唇だけが、にやりと大きく横に伸びていた。服装はといえば、黒のパーカーに黒のジーンズ。飾り気のない全身真っ黒である。年の頃は十六、七といったところだろうか。
っていやいや、冷静に観察してる場合じゃない。
「え、あ、いや、その……」
「目が泳いだ。やっぱり死ぬ気なんでしょ、ねえ、死ぬ気でしょ?」
彼女はなおも意味不明な追求をやめない。辺りの客も何事かと振り返り、出演する気もないのに演劇の舞台に立たされたような気分になって、俺は二の句が継げなかった。なおも「死ぬんでしょ、ねえ死ぬんでしょ」とさも嬉しそうに言い寄られ、困っている俺に助け船が現れた。
「あの、申し訳ありません、他のお客様のご迷惑になりますので」
遊佐さんだ。これは助かったとばかりに、彼女と並んで頭を下げると、黒い女子高生風はようやく静かになってすとんと座った。だが、その目はいまだ爛々と輝いて俺を見つめている。変人だ。これは関わらないに限る。
冷や汗を拭いながらそのテーブルを離れると、遊佐さんも困惑顔で追ってきた。
「いや、すまない。助かったよ。情けないところを見せたね」
「あの状況では仕方ありませんよ、誰だって困ってしまいます。それよりも」
遊佐さんは突然、前に回り込んで切れ長の目で俺の顔をのぞき込んだ。見つめ合うことしばし。俺はまた困惑した。彼女がこんなふうに俺を見つめてくるのは初めてのことだ。
「な、なんだい」
「本当に死ぬんですか?」
「い、いやいや、まさか。そんな簡単に死んでたまるもんか。変人の言うことを真に受けてはいけないよ」
咄嗟に否定の言葉が口をついた。つまり、俺は嘘をついたのだった。だが、ここで「うん、死ぬよ」と真意を明かすことが最善の選択とは思われない。
「お前、大丈夫か? ひどい顔だぞ」
カウンターの奥から店長が顔を出す。ここでも俺は年下に「お前」呼ばわりされることに対する怒りが勝った。だが、俺は大人だから喧嘩はしない。ただ「すみませんね、ひどい顔で」と言うに止めた。
俺を困らせたあの少女は、文庫本を開いてだいぶ長い時間粘っていたようだが、いつの間にか客席から消えていた。会うのは二度と御免被る。そう思いながら私服に着替えて外に出ると、初夏の夕暮れの涼しい風がふと裏路地を通り抜けた。その風の行く末を目で追うように表通りへ顔を向けると、夕日を背負うようにして黒い影が立っていた。
誰であろうか。あそこに棒立ちになられては通行の妨げになる。
数歩近寄って、俺は思わず仰け反った。黒い影と言うよりも、まさにそいつは真っ黒なのだった。振り返ってようやく、白い肌が見えた。
「お前はさっきの」
「へへへ、待ってたよ」
へらっと微笑みながら、彼女は俺に歩を詰める。昼間にあれだけ迷惑を掛けられたことだし、ここは一つ、大人らしく説教をしてやらねばなるまい。まして私服に着替えた今、俺と彼女はお客様と店員ではないのだ。
「暇な奴だな。見たところ高校生ぐらいか。昼間からいたようだが、学校は?」
そう言うと、彼女はくるんと回って「お化けにゃ学校も~試験もなんにもないっ」と歌ってみせた。そんなことで誤魔化されるものか。
「馬鹿を言え。名前は? どこの学校だ? どこに住んでる?」
腰に手を当ててできるだけ上から目線でした俺の質問に、彼女は信じがたいことを言った。
「あたしは、死神だよ」
驚きも何もなかった。ただ彼女の言葉は額面通りには信じがたかった。現に、目の前の彼女はどこをどう見ても普通の少女なのである。フード付きの黒いマントも被っていなければ大鎌も持っていない。ただ肩から提げた黒一色の小ぶりなスポーツバッグだけが、彼女の持ち物だった。
しかし、死のうとしている俺の目の前に死神を名乗る者が現れるというのは、何かの符合なのだろうか。いや、それともこれは、
「新手の宗教の勧誘か? 悪いが、うちは先祖代々浄土真宗なんだ。他を当たってくれ」
彼女を押しのけて駅前の大通りに出る。裏路地を出た角では、バイト先のコーヒーショップが営業を続けていた。店の前では遊佐さんが掃き掃除をしていた。俺と目が合うとお互いに浅く頭を下げる。そのまま歩き出すと、かくして死神は追ってきた。
「宗教じゃないよ。あたしは死神なんだから、死のうとしてる人を見分けるくらい、簡単にできるんだよ」
「へいへい、ごもっともで」
軽くあしらいながら歩を進めると、辺りは人通りの少ない住宅地になる。俺のアパートの通りの一本前の道には小さな公園があり、そこを横切ると若干の近道になる。公園に足を踏み入れてもまだ死神は「ねえねえ」と追ってきていた。いいかげんうるさくなって、俺は足を止めた。
「そうかそうか、お前は死神か。このたびは栄えある俺の担当に命じられたわけだな」
「うん、そういうこと」
「じゃあ『名前を書いたら死ぬる帳』とか持ってるはずだろ。なにか証拠を見せてみろ」
睨み付けながら言うと、死神はふと笑顔を消してそっぽを向いた。
「そういうのは、ないんだけど」
「ほれ見ろ、嘘つきめ。付き合ってられん」
彼女に背を向けて歩き出そうとした瞬間、俺の耳に「ウサギさん」という声が届いた。振り向くと、死神はまたへらっとした微笑みを浮かべて「ウサギさん」と呟いた。
これには驚いた。「ウサギ」というあだ名は編集者と近しい友人しか知らないはずだ。それだけではない。死神は俺の本名とペンネームを続けて言った後、生年月日や出身地、果ては学歴まで、俺のプロフィールをすらすらと述べてみせたのだった。
「な、なぜ知っている」
「死神だから」
そんなはずがあるか。もしかして以前、彼女とはどこかで会っているのではないだろうか。そう思ってまじまじと白い顔を眺めてみたが、気の抜けるような微笑みは俺の記憶を書き連ねた「ウサペディア」のどこにも記されていなかった。
「あたしもウサギさんでいいかな」
「好きに呼びたまえ」
そう言ってしまってから、俺は後悔した。好きに呼んでよいという許可を与えてしまったということは、今後ともこの死神を名乗るおかしな少女との交流を認めたことになりはすまいか。できればこのような出来事は今日限りにしていただきたい。
「一つだけ教えてくれないかな」
死神が、ずいと一歩、俺に歩み寄る。いつの間にか日は暮れていた。まさに逢魔が時。脇の電灯がぽっと灯り、闇に同化していた彼女の黒い服を浮かび上がらせる。
「なんだ」
「本当に死ぬの?」
俺は一瞬迷った。店では遊佐さんに嘘をついた。しかしこの死神には本当のことを言っても差し支えはあるまいか。
ふっと浅いため息をついて、俺は答えた。
「ああ、死ぬよ」
「どうして死ぬの?」
「質問は一つだけじゃなかったのか」
「あ、いや、えっと、その」
いきなり狼狽え出して、彼女はポケットからスマートフォンを取り出した。死神も近代化しているらしい。
「その、必要な質問なんだよ。間違いなくあの世に送り届けるために、ちょっとしたアンケートをすることって『デスペディア』に書いてある」
「見せろ」
「だめ、部外秘です!」
俺が手を伸ばすと、死神は慌ててポケットにスマートフォンを仕舞った。
「ならば最初から『一つだけ』なんて言うな。まあ、デスペディアとやらに免じて答えてやる」
そして、俺は語りはじめた。世の中に迎合することを頑として認めないこと、安易に流行に流される人々を好ましく思わないこと、そして流行に流される文学界に絶望し、また自らに絶望して「最終的解決」を決めたこと。内容としては主にブログに書いた通りだが、それは既に削除済みである。まさか決断からわずか一日で人に話すことになろうとは思わなかった。
死神は神妙な顔で頷きながら聞いていたが、俺が話し終えると「つまり」と手を打った。
「自分の小説が売れないから自殺するわけね」
突然、頭の中が沸騰した。「なにを貴様!」と胸ぐらを掴み、グーに握った片手を振り上げた。もちろん、ぶちのめすつもりだった。しかし、掴んだ胸ぐらの向こう側がやけに温かくて柔らかかったので、途端に気力が萎えた。
拳を下ろしても、死神は白い顔をなお白くして俺を見上げていた。変人とは言えか弱い少女を殴ろうとしたことを、俺は恥じた。そもそも暴力的衝動を人にぶつけるなど、相手が女性でなくてもあるまじき行いだ。
「すまん、取り乱した」
なるべく優しく手を離すと、彼女は胸のあたりを一撫でして、深呼吸をした。
「次の質問ね」
「まだあるのか」
未遂とは言え、あんな目に遭ってまで聞きたいこととはなんだ。
「もう作品は書かないの?」
「書いてるよ。今夜中に書き上げて、明日には出版社へ送る」
「今度こそ売れそう?」
「わからん」
実際のところ、まったく売れるとは思っていない。俺の作品は世の中に頑として迎合することを拒んでいるのだから。いや、逆かもしれん。世の中が俺に迎合しないのか。
「もし売れたら、どうする。死なない?」
「お前は俺に死んでほしいのか、ほしくないのか」
「質問を質問で返さない。どうするの?」
「死ぬよ」
あっさりとした答えに、死神は当惑気味に頷いた。ここで「死ぬ」とあっさり答えたのは、次の作品もまったく売れる見込みがないからだ。それもこれも文学の本質をまったくはき違えた世の中のせいだ。握った拳を義憤にわななかせていると、死神は平静な声で続けた。
「もうちょっと質問するね。貯金はあるの?」
「あるよ、自慢できる額ではないがな」
二冊目の印税と原稿料が、ほぼ手つかずに残っている。
「家族はいるの?」
「離れているが、いるよ。両親と兄貴が一人。あとは、兄嫁と甥っ子だな」
「趣味はなに?」
「読書と文章を書くこと、あとは酒とタバコだ」
「彼女いない歴はどのくらい?」
「もう八年ぐらいになるかな」
「初恋はいつ?」
「中学生だ。部活の先輩だった」
「へえ、何部?」
「吹奏楽部」
「意外~! 楽器はなに?」
「クラリネットだが、十年以上触っていないからもうできんだろう」
「そうなんだ。今は好きな人はいる?」
「いると言えば、いるかな――ってちょっと待て、途中から興味本位の質問になってないか?」
これから死ぬにあたって貯金だの彼女いない歴だの初恋だのという質問はまったく関係ないだろう。そう指摘すると、死神ははにかんで頬を掻いた。図星らしい。かくんと小首を傾げる動作といい、恥ずかしそうな笑みといい、どうも憎めない。それにまあ、顔立ちなんかもたしかにかわいい部類に入るであろう。しかし彼女の年齢は俺の守備範囲から大きく外れる。彼女があと十年ほど歳を取っていて、あるいは逆に俺が十年ほど若くて、俺に死ぬ気がなければ、あの手この手で
「もう質問はないな。ではこれでお別れだ。もう二度と付きまとってくれるな」
そう言い捨てて、俺は踵を返した。すっかり暗くなった公園を出て家路をたどる。
守備範囲外とは言え、かわいい少女に
「付いてくるなと言うのに」
ポストの裏側にガムテープで貼り付けて置いた鍵を取り、それをポケットに入れた。もちろん、これは合い鍵であり、もう一本の鍵は別に持ち歩いている。こうしておけば外出時に鍵を落としても開かない玄関の前で夜を明かす必要はないのだ。よもや隠し場所がばれて泥棒に入られたところで盗られるものなど一つも置いていないのだが。
「早く帰れ。家の人が心配するぞ」
言ってから妙だと思った。そもそも死神に帰る家などあるのだろうか。あるとしたら、どこだろう。しかし死神は「じゃあ、これで」と、ぴょこんとお辞儀をした。そして、立ち去り際、こう言った。
「ウサギさん、ウサギだって鳴くんだよ」
そうして、死神は街灯が灯るばかりの暗い路地を、とてとてと駆けていった。一体どこへ帰るというのか。ばかばかしい、彼女は死神のふりをしたただの少女だ。家に帰れば家族と晩ご飯が待っているのだろう。
晩ご飯で思い出した。死神のおかげで晩飯を買い忘れた。
再び路地に踏み出しながら、俺は死神の言ったことを思い出した。
「ウサギも鳴くのか」
一羽二羽と数えるくせに鳴かず飛ばず。売れない小説家である俺に与えられたつまらんあだ名も、それでは矛盾ではないか。
※ ※ ※
「どうでした?」
「やっぱり死ぬ気でいるみたいですね」
「それはまずいことになりましたね」
「まあ、とりあえず様子を見ましょう」
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