1・我こそは死神(2)

 昼のかき入れ時を終えると、店はしばらく閑散とする。その間を見計らい、時間をずらして、スタッフは一時間ずつの休憩となる。

 俺が休憩室に入ると、女性が一人、先客としていた。彼女の座るテーブルには空になったコンビニの弁当箱があった。彼女の向かい側に座り、俺もコンビニ弁当を開ける。その間、彼女は読んでいた文庫本から顔を上げ、俺に目礼しただけであった。彼女はひとたび読書を始めるとまったく他が目に入らぬほどに集中してしまうのだ。

 個人的な感情であるが、俺は読書をする女性の姿ほど美しいものはないと思う。数百枚にも渡る紙の束を開き、そこに記された作家の想いを汲み取るべく、顔を沈める。ああ、その時の彼女の脳裏には何が去来しているのであろうか。そこに記された様々の言葉に想いを馳せ、幻想の世界へと沈んでゆく女性たちの顔はおしなべて、美しい。彼女たちの美を引き立てる作家という仕事を行う俺は、彼女たちのそんな姿を見てこそ遣り甲斐のある仕事であると、これこそが己の生きる道であると実感できるのだ。

 現に、目の前で書を広げる彼女もたいへんに美しいではないか。腰まで伸びた、人跡未踏の渓谷を流れる小川のような清らかな黒髪、真一文字に切り揃えた前髪、その奥に光る切れ長の瞳。それらの美しい純なる黒は、彼女の陶磁器のような真っ白い肌をも美しく際立たせる。

 彼女の名は遊佐ゆささんと言った。なんでも大学を卒業して昨今では異常をきわめる就職戦線を勝ち抜き、ある企業へ入社したものの、入社半年にして倒産してしまい、現在はここでアルバイトをしながら再び就活戦士として戦線にその身を投げ出したのだという。哀れである。

 しかし、そのけなげで美しい彼女にも、些かではあるが不満を持たざるをえない。それは今朝もイケメン店長ともう一人の女性店員で話していた軽佻浮薄な話題である。

 二人のオタクをよそに、彼女たちは楽しそうに流行りのドラマや歌手の話題に花を咲かせていたのだ。サブカルチャーにしろメインカルチャーにしろ、それが流行というものに則ったものであるからにはアニメもドラマもアイドルも同列と言わざるをえない。また、そんな話題に違和感なく埋没することができる彼女をもまた、誠に不本意ながら同類と思わざるをえないのだった。だが、不満ではあるが嫌悪ではない。むしろ彼女には好感を抱いている。

 俺が弁当を食べ終えて蓋を閉めた時、遊佐さんは本を閉じて大きく伸びをした。長い、さらさらの黒髪が揺れて俺はふと目を奪われる。いかん、と弁当に目を落とすと、彼女が読んでいた文庫本が目に入った。ブックカバーが掛けられているのでタイトルまではわからないが、そこそこに分厚い本である。

「なにを読んでるの?」

 箸の先で指すと、彼女はページを開いてタイトルを見せてくれた。途端に不愉快になった。それは、先に俺の作品を「ちょっと高級なトイレットペーパーだ」と評した、かの大物作家の作品であった。同時に、なぜか遊佐さんにも嫌悪を感じてしまったことを俺は認めざるをえなかった。坊主が憎ければ袈裟けさだって憎い。直後に、この怒りは理不尽だと、心の中で彼女に詫びた。ただ彼女は読書をしていたに過ぎない。

「面白いですよ。まだ読んでなかったら、お貸ししますけど」

 もちろん、彼女は嫌味のつもりで言ったのではない。むしろまったくの親切心からであろう。しかし俺は「いや、それはもう読んだので結構だよ」と嘘を吐いた。かの大物作家とは酷評されて以来会っていないし、その作品も読んでいない。読んだら痔になってしまいそうで怖い。

「先輩は読書家ですからね」

 そう言って、遊佐さんは「ではお先に」と仕事へ戻っていった。その黒髪の揺れる背中に「ああ」と曖昧な返事を返しながら、俺はパイプ椅子の背もたれに身を預けた。

 いつもならばこの時間は読書に費やす俺であるが今日は違った。今の俺は考えることに時間を費やさねばならない。それはもちろん「最終的解決」についてである。

 自己を最終的に解決することを思い立ってから、俺は「ただ死ぬだけでは面白くない」と考えていた。ここで死んだとて、誰もこれが俺の最終的解決だなどとは思ってくれまい。せいぜい売れない作家が自分の限界を知って自殺したのだと思われるぐらいであろう。そうすると、遺書を残すべきか。その遺書とても普通に書いたのではエンターテイメントにすらなるまい。そして死に方である。自らを抹殺する方法はたくさんあるが、楽でインパクトの強い方法とはなにか。

 なかなか出ない結論にため息をついた時、休憩室の扉が開いた。

「お疲れ様でーす」

「ああ、お疲れさん」

 入ってきたのは、もう一人の女性店員であった。彼女もまたたいそう美しい人である。

 遊佐さんが静かな月の光のような美貌だとすると、彼女は対極的に、明るく力強い太陽のような美しさを持った人だ。

 明るい茶色に染めた髪をアップにして、見事な化粧を施した彼女の名は吉川さんという。俺の向かいの席、さっきまで遊佐さんが腰掛けていた椅子に座ると、コンビニで買ったらしきサンドイッチを開きながら携帯電話をいじり始めた。

 正直に言って、俺は遊佐さんよりもほんの少しだけ多めに吉川さんに好感を持っている。見た目はいかにも軽薄で頭の緩そうな感じではあるが、なかなかどうして、話してみると博識なのである。

 世の中への迎合を拒むばかりに、俺の話題は自分でも思うほどマニアックになることが多い。遊佐さんはそんな俺をどう思っているのかわからないが、少なくとも仕事と文学の話題以外ではろくに会話をしたことがない。かと言って嫌われているわけでもないようである。仕事はお互いに上手く連携してやっているし、本の話になるとお互いに饒舌になって感想や批評を述べあう。嫌われているならばそんなこともないと思うのだが、それ以外のプライベートな会話をした覚えはほとんどない。

 そもそも、遊佐さんはあれほど美人であるのに、浮いた話を聞いたことがなかった。たしかに、あの美貌に加えて隙を感じさせない知性は、むしろ人を敬遠させる雰囲気もないではないが、もったいない話である。彼女ももう少し恋に対して積極的になってみればいいと思うのだが、まったく遊佐さんはわからん。

 対して、吉川さんは読書こそあまりしないようだが、俺がマニアックな話題を差し向けても真剣に頷きながら聞いてくれる。それどころか、彼女の方からその手の話題を振ってくることすらあるのだ。しかも、時たま彼女から飲みに誘われ、酒を飲みながら文学だの哲学だのといったマニアックな話に花を咲かせることすらある。そんな彼女に好感を持つのは無理からぬ話であろう。愛や恋ほどではなくとも、彼女も俺に好感を持っているに違いない。

 今回もマニアックな話題で盛り上がろうとしたのだが、残念ながらそれは叶わなかった。俺の休憩時間が終わったのだ。エプロンを身につけて「ではお先に」と振り返ると、彼女は突然開いた花のようにぱっと微笑み、俺に手を振った。ああ、かわいらしい。だが、そんな彼女ともまもなくお別れである。

 俺は死ぬのだから。

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