1・我こそは死神(1)

 酒に酔うと、寝入りの眠りは深いが、後になればなるほど眠りは浅くなるという。そのセオリーを実践したかのように、俺は目を覚ました。カーテンを引き忘れた窓の向こうは群青色である。反対側を見れば茜色に違いないが、夕日がよく見えるこの部屋では、つまり西日が差すこの部屋では朝日を拝むことはできない。

 目覚ましが鳴るまで、あと二時間ほどの猶予があった。酔いもすっかり醒めているが、もう一寝入りする気にもなれず、パソコンを立ち上げてブログを開いた。

 アクセスカウンターは増えていない。近頃のアクセスカウンターは性能が向上しているらしく、かなり時間を置かなければ同じパソコンから閲覧してもカウンターは増えないのだという。そのおかげでより正確な閲覧人数を把握することができるのだが、それにしても一つも増えていないというのはなんとも情けない話だ。

 最も新しい記事は、俺の死への憧れと「最終的解決」という言葉が散見される、いかにも酔って衝動的に書いたような文章であった。

 俺は記事を削除した。

 しかし、不思議と昨日思い立った「最終的解決」を後悔する気にはならなかった。それどころか、実に素晴らしい考えであるように思った。俺に配偶者はいない、その予定になる者もいない。家は兄貴が継いでいるので問題ない。むしろ世間から誤解された文学に対して一命を賭して警鐘を鳴らすことができるならば、これは文学者として本望ではないか。

 うだうだと考えているうちに目覚ましが鳴った。それと同時に俺はここ数年で身についた素早い動作で洗顔を済ませて外出着に着替え、仕事に向かう。

 俺の当面の仕事とは、JR中央線某駅前のコーヒーショップの店員であった。平日の早朝にはそこで朝食を済ませるサラリーマンや学生も多く、そこそこ繁盛する。もはやこの店でアルバイトをするのも四年目となる。アルバイトは処女作の賞金、原稿料、印税が目に見えて減ってゆく中、小説家としての収入が思うように得られないと悟ったその時から続けており、情けないことに店ではもはや古株であった。俺はここで多い時には週に五回ほどアルバイトをしている。けだし、週休二日とは人間が最低限文化的生活を営むために保証されるべき休日であり、俺は休日出勤も早出も残業も行わない方針である。

「おはようございます」と裏口の戸を開けると、先に来ていた店長が「おはよう」と答えてくれる。

 店長は、世間一般で言うところの、いわゆるイケメンであった。年齢は詳しく聞いたことがないが、俺よりも若干年下であるという。スポーツマン然とした浅黒い肌に精悍な、それでいて実年齢よりも幼く見える顔立ち、そして開店前にもかかわらず輝くような営業スマイルは、なるほど常連客に女性が増えるのも無理からぬ話と思われる。そして、彼は正社員である。ああ、何一つ取っても勝てるところがない。また死にたくなった。

 それからも、時間とともにアルバイトの店員たちが集まり、開店一時間前の午前九時には総勢五名となった。ここから開店作業の開始である。床をモップで清め、椅子を下ろしてテーブルを拭き、グラスやコーヒー豆を所定の位置に置く。届いたばかりのサンドイッチやケーキをショーケースに並べるのは女性店員の役目である。開店時間が近づくにつれてコーヒーの良い香りが鼻を突く。そうして全員が開店作業を終えたのは、開店十五分前のことであった。そこからは開店まで、暫時休憩となる。

「昨日のアニメ見た?」「もちろん、昨夜も萌え~」

 店長以外の男子大学生アルバイト二人が話を始める。もちろん、俺はその輪の中に加わることを良しとしなかった。女性店員二人は店長を交えていま流行りのドラマやアイドルの話題に花を咲かせている。こちらにも加わりたくはない、と言うより、加わったところで話についていけない。

 まったく不愉快である。

 そもそも俺は、この店の仕事はそつなくこなしているものの、仕事の仲間があまり好きではなかった。アニメにしろドラマにしろ、あまりにも安易に世の中に迎合しすぎている。少しは疑うことを知らないのか。

 一人、離れた席でタバコをくゆらせながら、俺は眉間に皺を寄せていた。

「あれあれ、なんすか、渋い顔しちゃって。なんかありました?」

 大学生のバイトが俺の隣に腰掛けてくる。ついでにテーブルから俺のタバコを一本抜き取った。

「いや、もともとこういう造りの顔だが」

 好きではないと言っても決して人格の劣った連中ではないので付き合いは普通に行うし、それが可能な程度の心の広さは持ち合わせているつもりだ。現にタバコを一本失敬されたとて咎めはしない。大学生の彼らにとって、タバコの一本は貴重に違いない。

「あのアニメ、知ってます? 昨夜のアレですよ。いいっすよね、萌えっすよね」

 もう一人の大学生バイトも俺を挟むように座り、アニメの感想を求める。そもそもどうして俺があのアニメを観たことになっているのだ。二人のオタクに挟まれた人間はオタクにならねばならないのか。ここはオセロの盤の上ではない。

 しかし、実際には観ていた。しかもまったくの偶然に観ていた。まして、あの萌えなヒロインの艶姿あですがたを見て我が不肖の愚息がつかの間の反抗期に突入したなどは口が裂けても言えようか。

「いや、俺はテレビは観ない。けだし、テレビというものは世間に間違った風潮と印象をすり込み、人々に誤った判断を促す悪しき道具なのだ。君たちも未来のある若者だ、萌えなどど軽佻浮薄けいちょうふはくなことを言っていないで、もう少し現実を見たまえ」

 努めて冷静に未来ある学生たちを窘める。

 アニメを観たのは昨夜が初めてではあるが、常日頃から自分の文章力を研鑽するためにジャンルを問わない読書を苦行のように強いている俺は、その原作となるライトノベルを読んでいたから感想を述べることは容易であった。しかし、素直にその感想を述べることは、世の中に蔓延する「萌え」という風潮に迎合したようで己を著しく傷つけることは請け合いである。

 二人の大学生は俺を挟んで顔を見合わせ、「萌えは文化ですよ」とありがた迷惑な助言をしてくれる。

 それにしてもこの二人、顔を合わせるたびにアニメがどうだ、ゲームがどうだという話をする。そこに俺が居合わせようものなら、即座に俺に話題を振ってくるのだ。その都度、俺は同じようにあしらうのだが、まったく懲りることがないようだ。もしかして俺からは同類の匂いがするのだろうか。だとしたら、まったく不本意なことである。また死にたくなった。


 店長の「よし、開けるぞ」の言葉と同時に開店となる。数人の一番客に「いらっしゃいませ」と頭を下げ、カウンターでは女子二人がオーダーを取ってコーヒーやらモーニングセットやらを作る。この店は品物は客のセルフサービスとなっているのでその点は楽である。それでも時たま、時間のかかるものは店員が客の元へ直接運ぶのだが、朝も早いこの時間帯ではそれもそう多くはない。

 俺はルーチンワークをそつなくこなしながら、思索に没入する。ここ数年のバイトですっかり体に染みついた仕事は、その傍らで俺を泥のような思索に引きずり込むのだ。いつもならば今書いている作品や哲学的思索に費やすのだが、今日の思索は言わずもがな、昨夜思い立った「最終的解決」についてであった。

 世の中、自殺を決意するその理由は様々であろう。しかし、思い返してみると、俺は莫大な借金があるわけでもなし、恋愛関係や人間関係でも悩んではいない。思えば、あくまでそういう意味において、俺には「自殺せねばならない」という確たる理由はないのだ。

 なるほど普通は理由があってそして自殺に至るわけだが、そうすると俺の場合は自殺を決めてからその理由を考えるわけか。

「お待たせしました、ブレンドコーヒーです。くくっ」

 俺はその逆転現象がいかにも愉快に思えて、コーヒーを運びながら一人、くつくつと笑った。そんな俺を見上げた客がおかしな顔をしたのは言うまでもない。

 その後も、自分の思索がおかしくて吹き出すという発作は何度か続いた。店長は心配顔で「お前、大丈夫か」と訊いてきたが、その質問には年下にお前呼ばわりされることの怒りの方が勝った。だがもちろん、俺は大人なので喧嘩はしない。

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