吾輩はウサギではない。

可楽亭けん太郎

序・死に至る病

 死のうと思っていた。


 そんな物騒な言葉から始まるのは太宰治の短編集「晩年」に収録されている「葉」という小説である。しかし、その直後に「正月に夏物の着物を貰ったので夏までは生きようと思った」というふざけた続きがある。


「よう、ウサギ。久しぶりだな」

「なんだ、顔を出すなり人をウサギ呼ばわりとは、相変わらず失敬だな」

 俺はウサギである。もちろん、動物のウサギではない。俺にはこれまたふざけたことに、三つの名前がある。一つは、俺が生まれた時に親がくれた本名、もう一つは俺が生業としているつもりである小説家としてのペンネーム、そして懇意にしている友人たちが勝手に俺に付けた「ウサギ」という、いわゆるあだ名である。

 それにしても、と思う。

 学生の頃にはチェーン店の安い居酒屋によく集まっていたものだが、社会に出て五年以上も経つとそんなところに出入りすることは滅多になくなった。仲間たちは皆、学生の頃よりは余裕が出来たと見えて、「質より量」から「量より質」へと味覚が変化している。今日集まったのはこじゃれた洋風居酒屋だった。お通しに出てくるのも解凍したばかりのではない。クラッカーに載ったチーズやら生ハムのかけらやらが三品ほど、仕切りの付いた小皿に載ってくる。まことにこじゃれている。

「ところでウサギ先生、次回作のご予定は?」

「鋭意執筆中だ」

 親しく肩に腕を回してくるのは大学時代の友人だ。他にも四人の見知った顔があった。皆、大学の頃の友人で、彼らは就職活動に成功してそれぞれの職場で働いている。彼らからはたびたび酒の誘いがかかるが、酒好きで鳴らしたはずの俺が彼らの誘いに乗ることができるのは三度に一度くらいだ。飲み会の数からの単純比較では、俺の経済力は彼らの三分の一と言うことができる。

 ちなみに、この場に普段着で居るのは俺だけであり、他は全員が背広を着ていた。平日であるから当然といえば当然だが、妙にいたたまれない。

「それにしても、久しぶりだ。お忙しいんでしょうねぇ、ウサギ先生」

 まことに嫌味なことである。

「馬鹿を言え、貴様たちも俺の事情くらい知っているだろう」

「そりゃそうだ、ウサギだもんなぁ」

 そう言って、皆が声を揃えて笑う。

 この「ウサギ」というあだ名には「一羽二羽と数えるくせに鳴かないし飛ばない」という、まことにしゃれた由来がある。七年前に小説家としてデビューして以来、出した本は二冊のみ。それも重版されたことはない。映画化やドラマ化なんぞは夢のまた夢。文字通り「鳴かず飛ばず」の作家である。ゆえに「ウサギ」なのである。当然、俺はこのあだ名を一度もありがたいと思ったことはない。

 誰が最初に俺を「ウサギ」と呼んだのかは知らないが、こうして見る限り、読者諸賢は俺が悪友どもの虐めを受けているように見えるだろう。だが、実際はそうではない。そこは大学の四年間をともに学び、遊んで過ごした仲間であり、口さのないことでも冗談として受け止めることができる。この機微を理解できるのは親友だけだ。俺は彼らをそういう仲間と認識している。それが証拠に、ある友人は鳴かず飛ばずの貧乏作家で三度に一度しか誘いを受けられない俺を心配して、会うたびにこう言ってくれる。

「うちの職場さ、近々人を増やす予定があるんだ。どうだい、ここらで見切りを付けてさ。お前なら真面目だし、バカじゃないし、人も悪くないから自信を持って紹介できるんだけど、面接受けてみねえか?」

 その言葉は実にありがたい。こと不景気の昨今、そんな誘いがかかること自体、非常に幸運なことだろう。だが、俺にもプライドがある。

「いや、だめだ。俺は文章一本で食っていくと決めたのだ。俺は俺を裏切ることはできない。ありがたいが、丁重にお断り申し上げる」


 かつてキルケゴールは言った。「目標の達成は目標の喪失である」と。


 この日の本の国に「小説家になりたい」と思っている人間は何十万人といるであろう。世界レベルで見れば何千万かもしれない。その中で実際に行動を起こして小説を一つでっち上げることができるのが、その中の一握りである。

 しかし、プロの作家への道はそこからが険しい。小説家になるための最も近道は出版社やレーベルで開催している文学賞で新人賞を受賞することであるが、それは最も近道であると同時に最も狭き門でもある。何百人、時には何千人と一つの賞に挑む中で、作家としてデビューできるのは一人、ないしはほんの数人なのだ。

 実に幸運なことに、俺はその「ほんの数人」の中の一人であった。

 新人賞を得てデビューした時には子供の頃からの夢を叶えたことで胸一杯であった。「ああ、これこそ俺が生きる道」と信じて疑わなかった。俺の目の前にはまるで修行僧の求める極楽浄土のような「文壇」という世界が広がっていた。

 そして俺は阿呆だった。

 そこが極楽浄土どころかお釈迦様の手のひらの中であると気づいたのは、それから間もなくであった。新人賞を作家としてのスタートラインではなく「叶えられた夢」と認識していたことが、俺の大きな間違いだったのである。

 デビュー作に、重版はかからなかった。つまり売れなかったということだ。これに落胆したのは俺だけではない。応援してくれた家族や友人はもちろん、目を掛けて新人賞を与えてくれた出版社も同様だったことであろう。この結果に、俺は作家になれるのも一握りならば、作家として食っていけるのもほんの一握りの中のまたほんの一握りであるのだと悟った。文壇とは極楽浄土ではなく、血で血を洗う修羅道だったのだ。

 だが、時既に遅し。文章一本で飯を食っていくつもりだった俺はデビューが大学卒業間際だっため、就職活動を一切放棄し、次回作の執筆に明け暮れた。しかし、デビュー作より強い想いを込めた第二作の評価は出版社において芳しくなく、それを目にしたとあるベテラン作家は一読するなり「ちょっと高級なトイレットペーパーだね」と評した。「それならこれで貴様のケツが拭けるものなら拭いてみろ、そして痔になれ」と原稿を尻に押しつけてやりたかったが、それをすればとんでもない結果を引き起こすぞと頭の片隅でもう一人の俺が囁いたので、直前で思いとどまった。結局、二作目は出版されることはなかったのである。

 大学を卒業すると同時に落ち着いて小説を書ける環境を得ようと、このぼろアパートでの一人暮らしを始めたが、その初日に俺は夜空を見上げて「月よ、我に七難八苦を与えたまえ」と願った。今の状況も月が与えたもうた七難八苦のうちと思えば耐えられた。

 ここで心機一転して就職活動でもすればまだよかったのだが、それはまたしても俺の作家としてのプライドが邪魔をした。しかし飯は食わねばならない。新人賞の賞金も原稿料も印税も、いずれは底を突く。俺はしぶしぶアルバイトをしながらがむしゃらに文章を書いた。そしてようやく、ほとんどお情けのようにもう一冊の小説を出版してもらったが、これも重版はかからなかった。二冊目の原稿料と印税は有事の際の貯金として手を付けないままでいる。

 しかしそれでも、俺は小説家である。人に職業を問われた時にはそう言い、本名ではなくペンネームを名乗った。全ては俺のプライドによるものだ。

 だが、プライドで飯が食えるなら世の中これほど楽なものはない。生まれた時から文章力と、友人がこぞって評するように品行方正で真面目な人間であったことが取り柄である俺は、文章を書く傍らでアルバイトに精を出した。その姿は小説家というよりもフリーターである。だが、それでも俺は断固として小説家を名乗った。

 そうして、デビューから七年が過ぎた。もう三十路に手が届く歳だ。新人賞を獲得した当時に俺を褒め称え、祝ってくれたた同期たちは皆、堅実な仕事に就いている。それでも俺はフリーターではない。小説家なのだ。


 友人たちと別れ、いまひとつ飲み足りなかった俺は、帰る道すがら安い酒を買い、築数十年と思われるぼろアパートのドアを開く。目の前に広がるのは六畳一間、風呂なし、トイレ共同の家賃が安いだけが取り柄の部屋だ。不必要なものを極力排した俺の部屋にあるものは、真ん中に敷かれた万年床と机とパソコン、そしてテレビと本棚のみである。それでも贅沢なほどだ。「立って半畳、寝て一畳」と言うではないか。

 ささくれ立った畳に腰を下ろしてコンビニ袋を開く。小腹も空いていたが飯は食わない。軽いつまみがせいぜいである。なに、ビールは麦だし日本酒は米なのだ。炭水化物はじゅうぶんであろう。帰り際に銭湯に寄ったので体もさっぱりしている。あとは飲んで寝るだけだ。


 しかし、ここで魔が差した。カップ酒の蓋を開けると、六畳間の隅に置かれたテレビが目に入ったのだ。俺は電源を入れた。

 ここで「テレビを見ることの何が魔が差したのか」とおっしゃる読者諸賢もいらっしゃることだろう。だが、これはまさに俺にとっては「魔が差した」としか言えない現象なのである。

 なぜなら、テレビはホコリを被っていて長いこと人が触った形跡がない。つまり、俺はそもそもテレビを滅多に見ない人間なのだ。

 けだし、テレビというものは世間に間違った風潮と印象をすり込み、人々に誤った判断を促す悪しき道具である、というのが俺の思想だ。それは間違いではないと今でも信じる。そんな俺がテレビを点けるということは、まさに「魔が差した」としか表現のしようがない。

 ならばなぜテレビなんぞ持っているのかと疑問に思われるだろうが、これは引越祝いとして先に飲んだ友人のうちの一人から譲り受けたものであり、無碍に捨てるわけにもいかないシロモノだったからだ。

 しかし、この偶発的行為がこの後、俺に重大な変化と決意をもたらすとは、その時は想像だにしなかったのである。

 たまたま点けたチャンネルで放映されていたのは、深夜アニメであった。線の細い少年が、やたらと目の大きい、ありえない髪型とありえない服装をしたヒロインと、ありえない形で出会い、ありえない恋愛をするという、いわゆる「萌え系」のアニメであった。

 この作品は知っている。俺が人の心と哲学を語るきわめて硬派な純文学を書いているのに対して、かの作品は若者の目を現実から背けさせ、この世に存在しないものに劣情を催させて少子化を促進する萌え系の小説をアニメ化したものであった。しかも、この作家は俺よりも年下で、俺よりも後にデビューしている。さらに、最も許し難いことに、俺のエトセトラは深夜アニメであるがゆえの露出の多い萌えキャラの萌えポーズに見事に反応しているのだ!

「ふおおおおおお!」

 俺は憤怒に駆られた。これが世の中の需要だというのか。俺の作品が単純な「萌え」に特化した作品に劣っているとはどうしても思われない。テレビを自らの鉄拳で粉砕し、その破片を玉川上水に沈めてやろうかと思ったが、もらい物のテレビである。力強く電源を切るにとどめたのは、俺の紳士的配慮というべきだろう。第一、テレビを粉砕したところで憎き作品を粉砕できるわけではない。その怒りの矛先はエトセトラへと向かうかと思われたが、長年出番がないとは言え、馬鹿なほど可愛い我が不肖の愚息に制裁を加えることはさすがに躊躇ためらわれた。

「ありえん、まったくありえん!」

 安い日本酒をぐびぐびと呷る。俺はこんなに努力しているというのに、こんな愚にも付かない萌え小説が持てはやされるのか。

 ありえないものがまかり通るということは、どこかに何かしらの間違いがあるということだ。間違っているのはなんだ。俺か? いや違う。


 世の中だ!


 しばらくは世の中の理不尽に怒りを感じつつ酒を呷っていたが、カップ酒が四本目に差し掛かり、生臭い匂いを放つティッシュペーパーの塊をゴミ箱に放り込んだ頃になって、ようやく俺の溜飲も下がってきた。下がると同時にエトセトラも短い反抗期を終了し、「一体俺はどうすべきなのか」という思考が頭を巡りはじめた。後に知ったことだが、世間ではこれを賢者タイムと言うそうである。

 深夜の静寂の中、一人模索する。

 俺が書きたいのは思想と哲学を主軸とした純文学なのだ。俺は一文、一文字に魂を込め、作品を書いてきた。しかし、それが認められないならば、俺自身が否定されるならば……。


「死ぬしかないのか」


 ふと、そう思った。

 芥川龍之介は「漠然とした不安」ゆえに服毒自殺をしたとも言われている。それは俺も感じている。俺は、文学不在の世の中においてひたすらストイックに文学と哲学を貫く自分の居場所はないのだと感じていた。仕事はあるとは言え正社員ではないのでいくらでも代わりはいる。配偶者どころか恋人さえいない。ゆえに突然、俺が死んだところで迷惑を被る人もいるまい。

 買ってきた酒を飲み干してタバコに火を点けた。だが、ただ死ぬのでは面白くないな、と、思った。ただ「作品が売れないから死ぬ」のではいかにも安易であり、世の中からは見向きもされまい。まずはもっともらしい自殺の理由を考え、そして次にはその手段も選ばねばならぬ。

「どうせ死ぬなら、俺らしい、哲学と思想を込めた、世の中に一石を投じる文学的な自殺をせねばならんだろう。さて、どうするかな」

 できれば楽な方法がいい。眠っているうちに死ねるような。そして、死後の遺体もきれいな方がいい。入水自殺は苦しそうだ。インパクトは強いだろうが、タバコの吸いさしをうっかり膝の上に落としてさえ悶絶する俺にとって焼身自殺の苦しさは思うに余りある。首吊りも、死後の姿はかなり悲惨だという。

 そもそも、「自殺」という言葉がよろしくない。考えあぐねた末、俺はこれを単に命を粗末にするだけの「自殺」ではなく、恥の文化を根幹とする武士道に則った「自決」であり、憤懣やるかたないこの世界に見切りを付け、自らの新境地を切り開き、なおかつ世間の目を覚まさせるための「最終的解決」と結論した。否、思い込んだ。

 ちびたタバコを、ビールの空き缶を半分に切って手作りした灰皿に押しつけ、パソコンの電源を入れる。目の前で小さな唸りの後で「ぴこっ」と鳴いた我が愛機は、ぼろいくせに通信環境の整ったこのアパートの内と外を繋ぐツールであり、また俺の思いの丈を世の中に送り出すための道具でもあった。それは小説だけではない。七年前の作家デビューから続けているブログを開いた。

「うーむ」

 デビュー当時と二冊目を出版した時にはそれなりの来訪者があったものだが、昨日からアクセスカウンターは3しか増えていない。うち一つは俺である。あと二人、どこかの殊勝な方が見ているのだ。

 よし、と思い立ち、俺はブログに記事を書く。敢えて「自殺」という表現は避けた。かわりに「最終的解決」という言葉を書き込み、記事を更新した。

 パソコンの電源を落として、そのままその場に大の字になる。初夏の陽気にひんやりとした畳の感触が心地よかった。

「誠に不健康なことだ」

 そう呟いたのを最後に、俺は深い眠りに落ちていった。部屋の片隅では、愛用の万年床が寂しく主の帰りを待っていた。

        ※ ※ ※

「へえ、この人、死ぬ気なんだ」

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