第6話 李 紅艶
私には中国政府が歴史介入実験として豊臣秀吉の唐入り、つまりは朝鮮半島と中国本土への侵略を企画していると聴こえた。
「いえ、先生のおっしゃるとおりです。間違いはございませんわ。」
彼女は驚くほど冷静な声で答えた。その冷静さが私を苛立たせた。
私は少し語気を荒げた。
「また反日暴動がおきるんじゃないですか。もう、あんな目にあうのはごめんです。全てとは言わないが、私は大切なものを失ってしまった。」
「失ったものは、取り戻せばいいだけのことですわ。それに、先生にはそれがお出来になる。」
「ほう、中国共産党が私の誇りと生き甲斐を取り戻してくださるとおっしゃるか。」
「先生のお心次第ですわ。」
「あの忌まわしい論文をいまさらほじくり返して、あなたがたは私に何をせよとおっしゃるか。」
「先生の論文を私たちは正しく理解しておりますわ。これは東アジアに住む全ての民族にとって有益な歴史を生み出しますもの。」
「そんなことは私がいちばん理解している。中国政府がそれを容認したとしてもだ、日本人が中国を侵略するとなれば、中国の大衆が黙ってはいないでしょう。」
「東アジア史がご専門の先生のお言葉とは思えませんわ。中国には大衆などというものは存在しません。昔も、今も。政府が決定すれば誰も異を唱えることなどできませんわ。」
彼女の断定口調に私は押され気味だ。ここは大人の貫禄で彼女をたしなめるように話すべきだ。
「そうはっきり言われると反論できませんな。しかし百歩譲って中国に大衆がいなくとも、日本には存在しますよ。」
「そうですわね。でも、豊臣秀吉の唐入りが成功する歴史はきっと日本の大衆のお気に召しますわ。これほどナショナリズムをくすぐられることはないはずです。」
「確かにそうかもしれません。だが、あなたがたは大衆というものを少々馬鹿にしすぎていませんか。」
「日本人が大衆を過信しすぎているだけですわ。先生の論文をろくに読みもせず葬り去ったのはその大衆ですのよ。」
「しかし、あなたがたの国が十六世紀とはいえ、日本の兵に蹂躙されるのですよ。」
「二十世紀に近代兵器をもって蹂躙されるより遥かにマシですわ。」
確かに正論だ。だが、私は旧日本軍の中国における侵略には慎重な立場をとっていた。いや、むしろ否定的だったというほうが正しい。なのに、あんな論文を書いてしまったのは何故か?彼女は私の心の矛盾点を突いているのだ。
「いう言葉もありませんな。実をいうと私は思い悩んでいたのです。東アジア全体の為とはいえ、日本が朝鮮半島や中国を侵略していいという道理はありません。」
「先生のお言葉とは思えませんわ。先生は論文のなかで書いておられました。明帝国を滅ぼしたのは異民族である満州族が立てた清であると。満州族が日本人に代わるだけで、中華が異民族の支配を受けることに変わりはありませんわ。」
「やれやれ、漢民族というのはドラスティックな民族ですな。」
「中国人といっても漢民族だけじゃありませんわ。清は満州族、元もモンゴル人が建てた王朝です。昔の日本人が中国を指す名称として用いる
「中華文明の恐ろしいところはそこですよ。唐は鮮卑族の建てた北魏の流れに生まれた王朝です。満州族は清を建て、漢民族を支配したはずです。ところが逆に鮮卑族や満州族のアイデンティティーは希薄になり、中華文明に乗っ取られたかたちです。」
「先生のおっしゃりたいことは分かりますわ。中華というのは民族の名前ではなく文明の名前です。中華文明は自分たちを支配した異民族の文化でさえも吸収して中華世界を押し広げてきたのですわ。」
「中原に発生した中華文明は、春秋戦国期に誕生した周辺の王朝によってその世界を拡大しました。南方では楚や呉、越が、西方では秦がそうですな。名目上の盟主とはいえ中原の周王朝からすれば蛮族です。しかし、中華に最初の帝国を築いたのは秦でした。」
「三国志の時代の後には五胡と呼ばれる五つの異民族が入り乱れて王朝を建てましたわ。先生がおっしゃった北魏は南北朝の時代の北朝を代表する王朝です。北魏には鮮卑族だけでなく北方の遊牧民族の血が様々な形で入っています。それを受け継いだからこそ唐が世界帝国に成長していくことができたのですわ。」
「しかし、日本だけは海に隔てられていたために、中華文明との接触が希薄だったわけだ。漢字や儒教といった文物だけを一方的に受け入れた感じですな。」
「日本人は外から来るものはどんどん受け入れるのに、外に出て行くことが苦手な民族ですわ。昔も、今も。」
「そうかも知れません。私を含めてね。」
「もし日本人の貪欲な吸収力があれば、中華文明は近代化にいち早く対応できたかもしれませんわ。」
「なるほど。西欧列強の外圧にいちはやく対応して近代化を成し遂げた日本人の適応力を中華の文明の中枢に取り込んでおく。私の論文の趣旨をよく理解されているわけだ。」
「それこそが東アジアの迅速な近代化にとって必要な条件だと私たちも判断しているのですわ。」
彼女は言い切った。そうだ、それは私が論文に書いたことなのだ。
なんだか自分が自分に説得されているような気がしてきた。
中華文明と日本人の持つ適応力の幸せな結婚が私の論文の趣旨なのだ。誰にも理解されなかったはずの論文を、こうも正しく理解してくれている。そのことがただ嬉しかった。
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