第7話 偉大なる中華文明

 李紅艶はさらに続けた。私はその大きな瞳に飲み込まれそうになっていた。美人で頭がよくて、抜群の交渉力を持つ女性である。話しているだけで十分に楽しいのだ。

 「中国の近代化が遅れたのは、国が大きすぎて急速な変化に対応できなかったのだという説もありますが、私たちはその立場をとりませんわ。要は適応力の問題です。」

 「そうです。最も大きな問題は中国人が中華文明を過信しすぎていて適応力を欠いた。日本人による中華王朝ならばこの点を克服できるのではないかと思えるのです。なにしろ外から来るものは何でも取り入れてしまう民族ですからな。」

 「日本を敗戦に追いやったアメリカの文物でさえも、嬉々として取り入れる国ですものね。」

 「手厳しい指摘ですな。日本人は海の向こうからやってくるものは、何でもいいものだと思っているふしがあります。」

 私は思わず笑ってしまった。最初は彼女の気迫に押され気味だったが。ようやく打ち解けて話せるようになってきた。私はだんだんいい気分になってきた。

 「そう、海の問題ですわ。先生の論文で最も興味深かったのは海洋に関する指摘ですわ。中国人はごく最近まで海洋というものに関心を払わなかった。」

 「西欧列強は海洋からやってきます。北方の異民族のようにはいかない。江戸時代における日本は鎖国によって海洋への関心を鈍らせていましたが、元来は海に囲まれた国です。ある意味海洋民族といってもいい。」

 「倭寇の国ですものね。特に十六世紀の日本人は海洋への感性が豊かだったと思いますわ。」

 「中国人にだって素晴らしい実績があるでしょう。明の永楽帝の時代には宦官かんがん鄭和ていわに率いられた大艦隊がアフリカまで行ったというではないですか。あの大艦隊についてはタイムマシンで調査なさったのでしょう。どうでした。」

 「鄭和の大艦隊に関しては軍事機密となっておりますので詳しいことは申し上げられません。歴史介入実験の候補の中には鄭和の艦隊に関するものがあったとだけ申しておきますわ。」

 これは興味深い話だった。鄭和の艦隊はあくまでも平和的な使節であるが、当時の世界で最強の艦隊であったはずだ。。もし、明帝国にやる気さえあればルネサンスを迎えたばかりのヨーロッパ諸国の制圧さえ可能だったかもしれない。永楽帝の死とともに明の海外政策は終了してしまった。もし、明王朝がこの海外政策を維持していたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

 私はこの件に関して深入りすることを避けた。鄭和の艦隊は私の論文に対抗し得るもうひとつの強力な選択肢だ。学者というものは悲しい。自分の学説に対抗しうる学説に対しては無視したくなる。

 「なるほど、時代が早すぎたと理解しておきましょう。十五世紀初頭ですからな。西欧はルネッサンスの時代ですか。」

 「鄭和の大艦隊は中国史のなかでもあまりに特殊な例ですわ。本来、中国の歴代王朝は海には興味がなかったのだと思います。」

 「北からの異民族の侵入に注意を払わなければならなかったからでしょう。各王朝は中原に執着せざるを得なかったというわけですな。」

 「それだけじゃありませんわ。中原は中華文明発祥の地ですわ。漢民族にとってのアイデンティティーといっても過言ではありません。昔も、今も。」

 「清王朝を建てた満州族には、漢民族のアイデンティティーは関係ないでしょう。彼らも海には出ようとしなかった。」

 「満州族は遊牧民族です。海に興味を持たなかったのも当然ですわね。」

 「そのかわり乾隆帝の時代にはチベットや中央アジアを征服しましたな。」

 「中国の広大な版図はこのときに完成を見たといって過言ではありません。私たちの偉大な歴史ですわ。」

 「確かに偉大です。満州族はこの偉大な中華文明にとりこまれてしまいましたな。辮髪べんぱつを除いてね。」

 私が自分の頭をぽんと叩いてみせると彼女が笑った。彼女の笑顔は交渉上の戦術であることは分かっているものの、その魅力には抗しがたいものがる。

 清王朝は征服王朝である。しかし、彼らは中華の伝統に従って中国を統治した。唯一の例外が辮髪である。満州族は漢民族に辮髪を強要した。辮髪というのは頭を中半まで剃り上げ頭頂で結い上げた髪を結んで後方に垂らすヘアスタイルのことだ。辮髪をするものは清に服従する者、拒否する者はまつろわぬもの、ということになる。古今東西、ヘアスタイルで服従を強要した政権というのは唯一無二である。

 彼女は笑顔をたたえて答えた。

 「辮髪べんぱつも悪くありませんわ。日本人のちょん髷と同じ程度に素敵ですわ。」

 「まあ、月代さかやきをする、つまりは頭を剃り上げるということでは満州人も日本人も同じかもしれませんな。中華文明から見れば周辺の蛮族の奇習ということになる。」

 「でも、日本人を遊牧民族と同一視することはできませんわ。中華文明の影響下にありながら日本人は独自の文化を創りだしたのだと思いますわ。」

 「日本人だって中華文明の中に回収されていくと私は思っていますよ。」

 私は生臭い目で彼女に問うた。中国人の考えは読めていると暗に訴えたかったのだ。だが、彼女はさらりと言い返す。

 「でも日本人には遊牧民族には無い強烈な文化がありますわ。それが全て中華文明に溶けてしまうとはおもえません。」

 うまい言い方だ。日本人のプライドのくすぐり方をよくわかっている。

 「だが日本には文明は無い。そういう意味では日本人も周辺の蛮族にすぎません。文明というのは広範な地域、多数の民族に適用しても通用するものです。」

 「つまり普遍性を持っているとおっしゃりたいのかしら。」

 彼女が真顔になった。私が彼女を疑っていると思ったらしい。

 「そうです。逆に文化は限定された地域のなかでしか通用しない概念です。日本人であれ中華王朝を建てるとすれば中華文明の下に従わざるを得ないでしょう。日本文化に他民族を従属させるなんて不可能ですよ。」

 「そうかもしれません。でも満州族のように完全に中華文明に回収されては意味がありませんし、そうならないと思っています。遊牧民族の文化はあまりにも素朴すぎたのだとわたしたちは考えていますわ。」

 「確かに。日本文化は中華文明のなかで生き残るだろうし、影響を与えることもあるでしょう。それでも中華文明は日本を呑み込んでしまうでしょう。」

 「さあ、どうかしら。」

 彼女は再び笑顔になった。これは作り笑いだ。私の反撃に備えるために間を取ったのだろう。

 だが私はやめなかった。

 「あなたがた中国人の意図はそこにある。日本人が中華に王朝を建ててしまえば、逆に日本列島は確実に中国の版図になります。もちろん朝鮮半島も中華帝国の一部にならざるを得ません。つまり、侵略したほうがいつのまにか侵略されたことになっている。」

 「さきほどの鮮卑族や満州族のことをおっしゃられているのかしら。」

 「いま、この地球上に鮮卑族の国も満州族の国も存在しません。彼らは中華帝国を支配したはずですが、いつのまにか同化し取り込まれてしまったんです。」

 「日本も同じようになるとお考えですのね。」

 「チンギス・ハーンの世界帝国でさえ中華とイスラムの文明に従属せざるを得なかったんです。いわんや日本人をや、ですよ。」

 「それでも彼らは偉大な歴史を残しましたわ。」

 「文明は偉大です。その偉大さが文明というものの恐ろしいところです。文明は民族を超えて存在します。場合によっては日本のような文明を持たない国を呑み込んでしまいます。」

 「でも、それこそが先生の論文にあるとおり東アジア全体の利益ですわ。」

 「いえ、中国の利益です。」

 私は言い切った。気まずい沈黙が二人の間を支配した。

 ややあって、彼女はゆっくりと言った。

 「それでも先生はあの論文をお書きになった。」

 これがとどめの言葉だった。

 私自身の矛盾を突くのが彼女の戦略なのだ。そんなことはわかっている。日本人としての私、東アジア人としての私、そして我々の間にある不幸な歴史。

 私は本音を言わざるを得なかった。

 「ローマ帝国復活を試みた西欧人たちの傲慢が許せなかったからです。」

 わが意を得たり、彼女はそう思ったに違いない。不敵な笑みを浮かべた。

 「ふふふ、私たちは例のSPQR作戦の失敗を予測しておりましたのよ。だから安保理でも拒否権を発動しなかった。」

 「やはり裏取引がありましたな。それにインドへのけん制という意味もある。」

 インドはやがて中国を脅かす。少子化政策により超高齢化社会が進行しつつある中国に対し、インドは若年層が圧倒的に多い。人口においても近く中国を追い抜く。それに優秀な人材が多い。

 中国人にとってインドの話題はできれば回避したいとの心理が働く。

 「西欧諸国には中国がどんな歴史介入実験を行おうとも文句は言わせませんわ。」

 案の定、彼女はインドの話を無視した。

 それはそれでいい。

 「あなたがたもSPQR作戦の失敗はキリスト教にあるとお考えですか。」

 「それが全てとは言いませんが、西欧人たちがこの重要な要素を無視することは目に見えてましたわ。」

 「なるほど、あなた方は中国の、いや東アジアの歴史を効果的に変えるにはどうすればよいか考え抜いた。そして日本人である私の論文に目をつけた。」

 もはや私は彼女の術中に落ちている。私の矛盾を彼女は完璧に理解しているのだ、

 彼女は念を押すように

 「わたしたちの歴史介入実験にご協力いただけますね。」

 と、言った。

 「私を売国奴にするつもりですか?」

 「偏狭なナショナリズムは先生にはお似合いになりませんわ。」

 「あなたがたは歴史を変えることの重大性をどうお考えですか。キリスト教無きヨーロッパ文明を想像できますか。たとえローマ帝国が生き延びたとしてもだ。」

 「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ですわ。何かを得ようとすればリスクは当然ですし、場合によっては何かを棄てなければなりません。西欧人はそれを理解していなかっただけですわ。」

 彼女の論理は完璧に見えたが、それは交渉術のうまさであり、私はそれに絡めとられたにすぎない。中国人だけでなく歴史介入を実行しようとする大国の首脳たちが、そのリスクをどこまで理解し得たかは怪しいものだ、

 だが、一理はある。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」、それは私にこそふさわしい言葉だ。ここで踏み出さなければ、私の負けだ。

 私は決意した。

 「わかりました。それほどの決意がおありなら協力しましょう。」

 「ありがとうございます。先生のご協力に感謝いたしますわ。」

 「ただし、何もかもがあなたがたの思いどおりにはいかないということだけは憶えておいてください。」

 「肝に銘じておきますわ。」

 彼女は交渉に勝ったのだという喜びを押し隠すようにしていた。

 そうだ、やるからには条件交渉だ。こちらの条件も吞んでもらわなければならない。

 「それと、ひとつだけ、あの論文の書き換えを許していただきたい。」

 「書き換えですか?」

 「そうです。豊臣秀吉を織田信長に変更してもらいたい。元々、唐入りの計画は織田信長の着想です。秀吉はそれを引き継いだにすぎません。東アジアの歴史を塗り替える気なら、本物の変革者の力が必要です。」

 「なぜ、そうお思いになるのですか?」

 「歴史学者の勘です。」

 「実はわたしたちも織田信長の可能性については検討しておりますのよ。」

 「なるほど、そちらの方でも検討済みというわけですな。」

 「私たちの結論も織田信長ですのよ。」

 「かないませんな、中国人には。」

 わっはは、と私は笑った。これが腹芸というものか・・・

 「中国人民は先生を歓迎いたしますわ。」

 これで面白くなった。豊臣秀吉程度なら中国人にもコントロールできるかもしれない。だが信長となればそうはいかない。本物の天才相手に中国当局はいかに対応するのか?しかしそれは日本人にもコントロール不可能ということなのだ。

 おっと、肝心なことを忘れていた。これが私の本音だ。

 「ひとつ、協力には条件があります。」

 「おっしゃってください。」

 「私は十六世紀の東アジアの海が見たいのです。」

 「お安い御用ですわ。」

 「よし!」私は心の中でガッツポーズを作った。

 心に余裕ができると、私の中にひとつの疑問が沸き起こった。

 李紅艶、お前は何者だ!

 この際だから訊いてみよう。

 「それと、もうひとつ。あなたの本名が知りたい。」

 彼女はひっつめた髪をほどきながら、私にこう言った。

 「李紅艶り こうえん。女優か女スパイみたいな名前だってよく言われますわ。」

 ぱさりと落ちた黒髪が、肩の上で揺れている。

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