第5話 愚民どもに英知を
私は教訓を得た。
この小さな島国の歴史など変えても世界は変わらないし、我が日本国にはそんな力も無い。この東アジアに寄るべき大樹があるとすれば、それは中国をおいて他にはない。私の専門は東アジアだ。東アジア史を変えることによって世界を変えるのだ。
思えば、近代以降の東アジアの歴史は悲壮だ。西欧列強の植民地化の圧力に抗して長い混乱の時代を辿らなくてはならなかった。唯一、近代化に成功した日本でさえ、押し寄せる列強へのヒステリックな反応から軍部の暴走を招き、泥沼の戦争にはまり込むことになったのだ。その傷は、いまもアジア諸国の日本への反発として残っている。
この歴史を書き換えるには、中華帝国の迅速な近代化によって東アジア世界の強化を図るしかない。そして中華帝国の近代化を補完できるのは、明治維新を成し遂げた日本国だけだ。十六世紀において中華文明と日本人の幸せな結婚を演出するのだ。さすれば東アジアが世界を制覇することも夢ではない。
「中華帝国よ、大いなる近代化をもって西欧列強を退けるのだ。」
私は「東アジアにおける近代の可能性について」と題する論文を書き上げた。
この論文は私の意図とは違うところで、東アジアを震撼せしめた。中国・韓国など周辺諸国から凄まじい非難を受けることになったのだ。そうだ、他人を笑っていられない。私にはどこか政治感覚が欠いている。
おそらく私を非難している連中は私の論文の冒頭部しか読んでいないに違いない。最後まで読めば、私の本来の趣旨が理解されたはずなのだ。
確かに、この論文の冒頭部はまずい。
豊臣秀吉の軍団が、朝鮮半島を制圧し、勢いに乗って中国本土に入り、明帝国を滅ぼし王朝を建てる。要約すれば、そういうことが書いてある。
朝鮮半島の国々からは猛烈な抗議の嵐が吹き荒れ、中国では反日暴動が巻き起こった。私は事態を沈静化するべく努めた。論文の意図を説明し、最後まで読んでもらうことを訴えた。中国や韓国のメディアにもすすんで出演したが、誰も私の話をまともに聞こうとしなかった。彼らは私に偏向歴史学者とか、再軍備推進主義者とか、軍国的ナショナリストとか様々な烙印を押し、ひたすら低姿勢で説得に努める私を罵倒した。
私の中で何かがぼきっと折れた。韓国でのテレビ出演中に私はついに爆発した。
「愚民ども、愚民ども、愚民ども!
おまえらに英知を与えてやろうとするに何故分からん!」
私の姿は滑稽だっただろう。日本政府は拉致同然に私を召還し、半ば軟禁状態にした。一流ホテルのスイートルームで私は嵐が去るのを待つことになった。ルーム・サービスは全て無料。請求書はすべて外務省にまわされた。昼間からフランス料理のフルコースをオーダーし、高級ワインをがぶ飲みしてやった。
その間、世間では私の「愚民ども」発言が痛快な出来事として語られていた。「愚民ども!」は、その年の流行語大賞を受賞したが、その授賞式に私の姿はなかった。
ナショナリストたちは私を祀り上げ、愛国的歴史学者の称号を贈った。
おまえたちこそ私の論文を最後まで読み、その意図するところをじっくり考えてみろ。私を暗殺したくなるはずだ。
私は吉田松陰の辞世の句を思い出していた。松陰もまた、誰にも理解されることなく志の高い生涯を終えた。
「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし東アジア魂」だ。コノヤロー!
東京の大学を追われた私に行き場を与えてくれたのは、ナショナリストの親玉みたいな爺さんだった。山鹿信輔といえば政界や財界にも顔がきくそうだ。ナショナリストらしく明治の元勲みたいな髭をたくわえている。私は山鹿翁が創設した山陰地方の小さな大学に招かれたのだった。「大和魂を教育の根幹とし、憂国の士を育てる」というユニークな教育方針を謳う大学だったが、その実態は入学希望者さえ集まらず、経営に苦慮した揚句に、中国人留学生を大量に受け入れた日本語学校のようなところだった。
大学の屋上からは日本海が見渡せた。晴れた日には中国大陸が蜃気楼のように浮かび上がる。私は毎日、十六世紀の東アジアの海を想像しながら無聊を慰めた。
あの大騒ぎが人々の記憶から消え、学界が私のことなど忘れ去った頃、私はひとりの女性の訪問を受けた。
名は李紅艶り こうえん。
中国人の歴史学者で日本史を専攻としているという。あきらかに偽名だろう。女優か女スパイでもなければ、こんな派手な名前は使わない。
若く装おっているが、齢のころは三十台半ばというところだろうか。私は目じりの小皺からそう推測した。ひっつめた髪が清潔感を感じさせる。それに完璧な化粧をしている。確かに美人の部類にはいる顔立ちだ。
彼女は流暢というよりも美しい日本語を話した。それは日本の女たちが遠い昔に忘れ去った類の美しさであり、優雅な響きをもって私を魅了した。
正直いって、魅力的な女性だと思う。
果たして彼女は中国政府のエージェントであった。彼女は最初にそのことを明かした後、私の論文に論評を加えた。そのひとつひとつが的確であり、私は初めて理解者を得たような気がした。彼女はいくつかの質問をし、私は答えた。こんなにも充実した時間は何年ぶりだろう。
そして、彼女は本題をきりだした。
中国政府が歴史介入実験に私の論文を題材に使おうとしている旨を告げたのだ。
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