第4話 SPQR作戦
歴史介入の本格的な実験はあくまで国連の主導という建前で開始されようとしていた。
当然のことなのだが大国の意見がごり押しされ、いつものように不公平な取り決めが成された。歴史介入実験は各国の提案を安保理が審議して決定する。常任理事国には当然のように拒否権がある。常任理事国の意に染まぬ提案は却下されるということだ。
もうひとつ言えば、極東の島国の学者はローカルな歴史でも研究しておけ、ということらしい。私が見たかった十六世紀の東アジアの海は永遠に叶わぬ夢になろうとしていた。
それでも歴史介入実験の開始は、私の歴史学者としての好奇心をかきたてずにはおかなかった。
最初の提案はイタリアから出された。「ローマ帝国の分裂と滅亡を阻止する」というものだ。なるほど、ヨーロッパの暗黒の中世をすっ飛ばして、世界征服でもやる気らしい。イギリス・フランス・アメリカは賛成。ロシアは中立の立場をとった。反対するかと思われた中国も静観を決め込んでいる。もちろんなんらかの裏取引があったと考えて間違いない。
気の毒なのはタイムマシンの理論を生んだインドである。長くイギリスの植民地とされた歴史から、ヨーロッパ諸国の強化には猛然と異を唱えたのだが、常任理事国でない限り拒否権を発動することはできない。
ローマ帝国救出を目的とした通称「SPQR作戦」は実行に移された。この作戦に使用されたのはアメリカのタイムマシン「エンタープライズ」である。作戦コードのSPQRは共和制ローマの主権者であった元老院とローマ市民を意味する略語である。
「元老院およびローマ市民諸君!われわれはローマ文明を救済する」、
というわけだ。
私はSPQR作戦を冷笑した。いかにも英雄的なこの作戦は、歴史学的な意義以上に政治の臭いがぷんぷんする。西欧の歴史学者のレヴェルが低いのではない。政治家たちの思惑が勝ちすぎているのだ。こんなものが成功するほど歴史は生易しいものではない。
私は平静を装っていたが、本心では西欧の歴史学者たちがタイムマシンでローマ時代に行くのが、うらやましくてたまらなかったのだ。歴史介入実験に参加する研究者たちを、指をくわえて眺めていたのだ。日本人に生まれたことをこれほど悔しく思ったことはない。
我が心が天に通じたか、SPQR作戦は挫折を繰り返していた。
三世紀以降のローマ帝国の歴史はあまりにも混迷しており、どこをどう書き換えたら再生できるのかさっぱり分からなかった。おそらく政治家たちの宣言した「偉大なローマ帝国の再生」というスローガンの下、歴史学者たちは右往左往していたに違いない。功名心と自己顕示欲のかたまりみたいなお調子者の歴史学者が、名乗りをあげてSPQR作戦に参加していたのだ。彼らはローマ皇帝の首をすげ替えることに熱中し、ますますローマ帝国の混迷を複雑怪奇なものにしていった。
揚句の果てに、ローマ帝国を共和制に戻すという。おそらくこれも政治的な発想であることは疑うすべも無い。偉大なローマが帝国であるより共和国として長らえたほうが、民主主義とヒューマニズムの価値観に照らして正しい歴史だというのだ。
「馬鹿だ。果てしの無い馬鹿どもだ。」
混乱に混乱を重ねたところでSPQR作戦は放棄された。
西欧史は専門外の私だったが、ローマ帝国滅亡の原因のひとつが「ローマ帝国のキリスト教化」にあるのではないかと考えていた。あるいはこの一点を突けば突破口が見えたかもしれない。ところがキリスト教国では政治家はキリスト教を否定できないのだ。そんなことをすれば宗教界からの排撃を受けてしてしまうからだ。
アメリカの勇気ある歴史学者トーマス・オコナー博士がただひとりこの点を指摘したが、背教者として袋叩きにされた。
主はローマ帝国を見捨てたもうたのだ、アーメン。
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