最初のアイ

 私は救急車のサイレンの音で起きた。暗い部屋の中、目の前にある物を見つめる。佐々木君の後頭部だった。覚醒と共にバニラクリームの匂いが鼻の中を通り抜けていく。


私は彼に回していた腕を引いて体を離し、上体を起こす。ぼんやりする頭で暗闇に目をらす。わずかにシルエットが見え始めたのを認識して、私はベッドから下りた。


忍び足でローテーブルとベッドの後端の間を通って、壁際に置かれたハンドバッグの中から携帯を取り出す。携帯の画面をつけて、時間を確認。午前1時。


私は彼の心地よさそうな寝顔を見る。私はベッドの端に回り、はだけていた毛布を彼の肩まで引き上げた。私は「おやすみ」と囁いて部屋を出た。


 私はマンションを出て夜の街を歩く。

公園の中央にある街灯は寂しそうにたたずんでいた。誰かを照らすわけでもなく、ただ誰もいない公園を照らしていた。私は公園に入り、ベンチに座った。


ロングコートのポケットから携帯を取り出し、タクシー会社に電話をかけた。


安佐ヶ丘あさがおか公園まで……桜咲です。はい、よろしくおねがいします」


私は用件を伝え、電話を切った。私は静かな公園に流れる少し冷たい空気に浸る。



 私は佐々木君とぞくにいうソフレという関係を結んでいる。期間は4ヶ月くらい。続いている方だと思う。この関係は当然おおやけにできない。彼氏ができそうになった時、障害になるから。だったらソフレなんてやらなきゃいいのは分かってる。でも、私は他の人と違って足りない、アイが。


 どんな人も最初に受け取るアイは親からのアイ。生まれてから人が初めて感じるアイ。それはずっとそばにあって、時々重くなったり、傷つけられる。


でも、それはいつか違う形になって、体の芯まで満たしていく。段々それは当たり前になって、奥深くに閉じ込められ、意識しないと感じられなくなっていく。それは誰もが体の奥に持っていて、誰かにそのアイを送る。みんながアイをどれくらい持っているか分からないけど、1つだけ言える。


私はみんなより、アイを持っていない。



 私には両親と妹が1人いる。

私は平凡だった。小中の時の成績は良い方だったけど、1つ下の妹は私よりできた。どれをとっても私より良く、学年1位なんて話はよく聞いた。両親はそんな妹を目に入れても痛くないほど可愛がっていた。

それに比べ、私への態度はそっけないものだった。


いつもより低い点数を取っても、私が怒られることはない。でも、妹は怒られていた。その度に泣いたり、落ち込んだりしていた。私がなぐさめる役に回って励ます。私はいつの間にか妹のカウンセラーのような存在になっていた。


妹は私をうらやましがっていた。

「お姉ちゃんはいいよね。怒られなくて」とねたみのこもった愚痴を零された。

私は妹が羨ましかった。言ってやりたかった。

瑞樹みずきはいいよね。関心を持たれて。


 私は両親から関心を持たれなくなった。それは小学生の頃のいつからだったかは覚えてない。

私も両親から怒られたことはある。段々学年が上がるごとに、私が怒られることはなくなった。私はそれを敏感に感じ取っていた。そして、その原因が成績にあることも分かっていた。


だから必死に頑張った。小学生なのにテスト勉強を遅くまでやった。でも、必死にやっても妹と同じような成績を取ることはできなかった。成績は上がっても、それを維持するだけの忍耐と実力がなかった。

それを知った時、私には無理だと思った。妹と同じ場所にはいけないんだと、悟ったのだ。


 妹は地味な眼鏡の女の子。ガリ勉風な様相をしている。モテるわけじゃない。少し美人かもくらいの女の子。大人しいし真面目だし、話好きでもない。

それに比べれば、私は社交的な方だと思う。彼氏は何度もいたことあるし、友達も多かった。

でも、家族の中では成績が重視される。両親が求める成績は私の辿り着ける場所じゃなかった。それでも信じたかった。成績だけじゃない、私には私の光る物があり、それを両親は認めてくれると。


私は自分の得意なことを探してはそれを高めようとした。ソフトボール、バレー、剣道、ダンスもその一環だった。両親は見向きもしなかった。

それどころか、「色々なものに手を出すのはやめなさい。自分の身の丈にあったものをするようにしなさい」と父親に言われた。自分の努力を否定された気がした。

進学も両親に決められた。

私は歯向かった。「私の人生は私が決める」と。父親は無表情で「なら荷物をまとめなさい。

私達と二度と関わらないように」と、さっきまでやっていたパソコンを打ち始めた。私は中学卒業と同時に実家を出ようと決断した。


 妹は止めてくれた。すがるような目は、自分を1人にしないでと言っているようだった。

妹は分かってない。自分が恵まれていると。親にアイされ、そのアイを持っていると。1人になっているのは私の方なのに、被害者づらした姿が私を馬鹿にしていることに気づいていない。

自覚無し。無性に腹が立った。


でも妹は悪くない。それが当たり前だから。誰もがそのアイに気づかないし、それをアイと呼ぶには窮屈きゅうくつだったはずだ。誰もが持っている物を私は持ってない。

それが私と妹の決定的な違い。血が繋がっていても、私にとってはただの血。同じ血だった。それだけのこと。


私は妹の手を両手で包み、妹の目を見て、「瑞樹なら大丈夫。何かあったらお姉ちゃんが相談に乗る。私はいつでも、瑞樹の味方だからね」と、心にも思ってないことを作った笑顔で言ってのけた。

妹は不安そうな表情をしたが、私の手が離れても、もう一度私の手を掴むことはしなかった。

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