甘い果実はどれも苦し

國灯闇一

渇望

私達のカンケイ

 まだ肌寒さの残る4月の初旬。私は2年生になり、充実した学生生活を送っていた。


「はい。じゃあ今日はここまでにします」


教壇の上に立つ女性講師は講義の終了を告げた。

傾斜のある扇状の講義室に設置された幾つもの席から学生達が立ち上がり、1つしかない講義室のドアに向かう。


「はぁ……終わった~!」


伸びをして、勉学から解放された喜びを惜しげもなく表す藍香。


「お疲れ。これからバイト?」


私は教材やノートをハンドバッグにしまいながら隣に座っていた藍香に聞く。


「うん。シズは?」


「今日はサークルに出ようかな」


「私も部活とかサークルに入った方がいいのかなぁ」


「え? でもバイトと勉強でもういっぱいいっぱいって言ってなかった?」


「言ったけど、やっぱ学生でいられる期間はもう少ないわけじゃない? 就活だって始まってるし、働き出したら自由に休みなんか取れないって聞くし、今みたいに遊べる時間なんか作れないんだよ?もったいなくない?」


「十分遊んでるじゃない」


「いーや、まだ足りてない! まだ私は足りてない気がする」


 私は先に席を立つ。


「じゃあ今度行っちゃう? カラオケ。卯月と麻伊誘ってさ」


藍香の口に笑みがゆっくりと作られる。


「いいね~! 行っちゃおう!」


「うん、詳しいことはまた夜に」


「うん、お疲れ~」


「お疲れ」


私は先に講義室の出入り口に向かう。


出入り口を通ろうとした時、同じように講義室を出ようとした男の人とぶつかりそうになって立ち止まった。


「あ、ごめん」


「ううん。大丈夫」


 私は口に笑みを携えて、男の人に先を譲ることを示すように手を前に出す。細身の男の人は軽く会釈えしゃくして先に出入り口を通っていった。

同じ学科の佐々木優太君。爽やかな見た目だが、どこかちょっと影がある男の人だ。さっきの愛想笑いもぎこちなかった。


 私は校舎を出て、構内の大通りを歩く。桜の木の枝が私の頭の上で生き生きとしている。桜は寒さの残る空気にも負けずに花を咲かせようとしていた。

新入生向けの部活やサークルの勧誘チラシが掲示板に貼られている。

少しずつ、新年度の空気が私の周りをいろどっていた。



☆ ☆ ☆ ☆



 市内にあるダンススタジオ。そこが私達ダンスサークルの今日の活動場所だ。


週に1回から2回にダンススタジオを借りて、大学祭や地域のイベントなどの披露に向けて日々練習している。部活よりもライトな練習だから気軽に楽しめる。私がダンスサークルに入ったのもそれが理由の1つでもある。


私は更衣室で着替え、ダンススタジオに入った。


「おはよう桜咲!」


「おはよう」


サークル仲間はゆっくりとくつろいでいる。

新年度とあって、いつもより集まりがいいように見えた。


「桜咲」


 サークルの部長、新井貴信あらいたかのぶ君が数人の初々しい顔を引き連れて私に歩み寄ってくる。


「まだ桜咲には紹介してなかったよな。今日来てくれた1年生」


新井君は顔を横に振って、緊張気味の子や人当たりの良さそうな子など様々な面々を適当に紹介してくれる。


「宇津井です。よろしくお願いします」


「高嶋です。よろしくお願いします」


「深澤です。よろしくお願いします」


「須田です」


「小高です。よろしくお願いします」


「初めまして。2年の桜咲静那おうさかしずなです」


「この先輩は教えるの上手いから、特に同じ女の子の高嶋さんと小高さんは参考にした方がいいよ」


「「「「はい」」」」


うわー……輝いてるなぁ。


「よろしくね」


私は眩しい新入生に若干の引け目を感じながらお決まりの言葉を投げる。


「あと10人くらいいるから」


 新井君は少しご機嫌な口調で言った。


「へー! 結構入ってくれたね」


「案外ね。じゃ、全体で基礎練習して、曲と合わせてみよう」


新井君は両手を叩いてみんなの注目を集める。


「みんな! 基礎練習しよう!」


サークルのみんながそれぞれ縦横と間隔を空けて、規則正しく並んでいく。新井君がみんなの前に立って、ストレッチを先導する。

1年生は見様見真似でやっている。自分が1年生の時もあんな感じだったのかなぁ、と思いながら同じようにストレッチをした。



 サークル活動が終わり、更衣室で着替えを終えた。ハンドバッグから携帯を取り出し、画面を点ける。メールが入っていた。佐々木君からだ。


『今日どうする?』


この短いメールだけで何を示しているのかは分かっていた。


『いつもの時間に行けばいい?』


『うん。じゃあ待ってる』


私はメールを閉じ、ハンドバッグを持った。


「じゃ、お疲れー」


「お疲れー」


「お疲れ様です」


サークル仲間と挨拶を交わし、私は更衣室を出た。


 私はビルを出て、タクシーを拾った。タクシーは帰宅ラッシュの道路を走っていく。車のライトがタクシーの周りを行き交っていく。座席の背もたれに身を預けて、窓から歩道を歩く人の群れをながめる。

蓄積された疲労を抱え、暗がりを歩く人々はなんだか空しく見えた。


 課せられた枠の中で身を粉にして日常を繰り返す日々。あんな疲れたような顔をして、生きているのが面白いんだろうか。何が楽しくて、歯を食いしばって単調な日々を過ごしているんだろうか。

お金のため?家族のため?生活のため?生きるため?

相応の対価と思っているのだろうか。


仕方がない。きっとそう思ってる。誰も彼も。

あんな人間にはなりたくない。そう思っても、いずれは私もそうなる。それが枠の中で生きるしかない人の宿命なのかもしれない。

だから枠の中で手に入れられる物をできるだけ手にしたい。

量と質。鬱積うっせきした疲弊感と、傷つけられた自尊心や体よりも多くの利益を手にしたい。それはそれぞれ強く欲する物ならお金じゃなくてもいいと思える。そういう人もいる。私もそうだから。



 タクシーは駐車場に入った。少し古めかしいマンションの駐車場だ。私は代金を払い、タクシーを降りた。


私は躊躇ためらいもなく3階建てのマンションに向かう。ここに私の自宅はない。

私は2階の201号室の前に立ち、インターホンを押した。

私は周りを気にしながら、家の主人が出てくるのを待った。

ドアが開いた。部屋着の佐々木君が気まずそうに出てきた。


「どうぞ」


「うん」


私は佐々木君に促されて部屋に入った。


 佐々木君は飲み物を用意してくれているようだった。流し台にはまだ洗ってない食器が浸けてある。


「お茶でいい?」


「うん。ありがとう」


 私はいつものように紺色のクッションの上に腰を下ろした。

部屋の中はちゃんと整頓されている。前にあるローテーブルの端にはエアコンのリモコンとテレビのリモコンが並べて置いてある。ローテーブルにはそれ以外何も置かれてない。


「今日もサークル?」


「そうだね」


私はローテーブルに腕を投げ出し、自分の腕の上に頭を乗せた。


「佐々木君はバイトなかったの?」


「うん。今日は休み」


「シフト固定されないよね」


佐々木君は苦笑を零す。


「仕方ないよ。新しい人が3日で辞めるなんてこと、ざらにあるから」


佐々木君はローテーブルにお茶の入った2つのコップを置いてまた流し台に向かう。


「ブラックなの?」


「いや、ブラックっていうより、単純に人手不足で激務になってるだけだと思う。それに耐えられなくて辞めるんだよ」


佐々木君が皿と袋を持ってローテーブルに近づいてくる。私はローテーブルに投げ出していた体を起こす。


「はい、こんなのしかなかった」


 佐々木君は皿に入れられたスナック菓子と市販のチョコレートをローテーブルに置いた。


「大変だね」


「まあ、もう少しの辛抱だよ」


佐々木君もローテーブルの前に座ってくつろぎ始める。私はスナック菓子を手に取り、口に入れる。


「桜咲さんは卒業したらどうするの?」


「分かんない。まだどういう分野に行こうとかも決めてないし」


「家庭科の教師じゃないの?」


「うーん、一応実習もしたし、資格取るつもりではいるけど、競争率高そうだしなぁ。あんまり1つにこだわり過ぎると、卒業までに就職できないなんてこともあるって聞くから、視野を広げて考えてみようと思ってる」


「そっか」


「佐々木君は家庭科の教師目指すの?」


「男が家庭科の教師はちょっとな。食品を扱う企業に絞ることにしてる」


「ふーん、やっぱ2年になると忙しいね」


「1年も忙しかったけどね」


「確かに」


私達は友達だ。こうしてお互いの家に行き来している。もちろん付き合ってない。彼氏彼女もいない。だからこうして、1つの部屋で談笑しながら過ごせている。



 だらだらと談笑して1時間。


「そろそろする?」


私は何の変哲もない掛け時計を見た。午後8時になろうとしていた。


「そうしようか」


私と佐々木君は立ち上がり、ローテーブルにあるゴミを一緒に片付けていく。片づけを終え、私達はどちらからともなくベッドに腰かけた。


「奥にいく?」


佐々木君が聞いてきた。


「手前でいいや」


「じゃあ」


佐々木君は枕を端に寄せる。私は佐々木君の部屋に置いていた枕を持って、佐々木君の枕の隣に置く。佐々木君は電気を消した。

微かに窓から入り込む街灯の明かりが佐々木君のシルエットを映した。佐々木君と私はベッドの上に乗り、お互いに背を向けて横になった。1枚の毛布の中に入り、背中と背中をくっつけるだけ。


私は触れ合う背中に意識を溶け込ませる。包まれる毛布の中で2つ分の体温から発せられる温度に身を委ねる。眠いのか眠くないのか分からないような意識になればなるほど、温もりが私を包んでくれる。

もしかしたら相手の心臓の音が伝わってくるかもしれない、自分の心臓の音が相手に伝わっちゃうかもしれない。そんな純真な考えはない。

佐々木君のことは嫌いじゃないけど好きじゃない。友達としては好きだけど、恋人としてはない。これが私達のカンケイだ。


お互いの気持ちは知っている。だから、これ以上のことはしない。抱き合うことはあっても、裸になることはない。前戯もない。ただお互いの温度と肌が触れ合うだけ。そういう契約で、私達はこのようなカンケイを続けていた。

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