第5話

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 反対車線で路上駐車しているトラックの向こう側には倉庫地帯が広がっている。そのさらに向こうには黒い水面が漂っていることは容易に想像がつく。

 有明まで来ると、そこはお台場の持っている華やかさはなく、不気味なほど均整の取れた埋立地が広がっていた。まだ深夜と呼べるほど夜は暗くはなかったが、人気のないこの寂しい大地を見るとどこに駐車してもよさそうだった。

 私は有明駅から三十メートルほど離れた場所に車を停車させた。懐にある銃にコートの上から手を重ねて、その感触を確かめてからエンジンを切り外に出た。潮風が吹き荒ぶ夜だった。磯の香りを運ぶその風は、冬にまだなりかけようとしている季節に生きる私には冷たく痛い。

 煙草に火をつけようとしてもその強い風せいで、ライターの火はつかない。最後には諦めてた。私は口に加えていた煙草を捨てて、標的が働く製薬会社のビルに向かって歩きはじめた。


 私に故郷と呼べるものはない。父の仕事の関係で私はオランダで生まれたらしいが、最初の記憶はカイロから始まる。宮殿の一角にいるかと思うほど広い居間で、テーブルに座り野菜を口に運ぶ母の姿が私の中にある最古の記憶だった。

 母は黒い髪で目が大きく唇が厚い。どこか日本人離れした容姿の人だった。いつも雇っている家政婦に何かを命令していて、年中何かを気にかけていた。一年を通じて二十度を越えるカイロの街を、その居間から見渡した記憶もある。正確な場所は覚えていない。きっと小高い丘の上にある住宅街に住んでいたのだろう。外を出歩いた記憶はほとんどないが、唯一覚えているのが母に連れられて出かけた市場の記憶だった。母はアラビア語は話せなかったようだが、買い物くらいはできたらしく、たまにどこかに出かけては大量の野菜を買い付けていた。

 母は私によく「肉は汚い食べ物よ」と語りかけた。母は菜食主義者だった。何故そうなったのかはわからない。ただ私にそれを強制させるようなことはなかった。私に羊の肉を食べさせながら、母はテーブルの端で野菜を食べ、決まったように「肉は汚い食べ物よ」と語るのだ。

 野菜を、わざと出しているような大きな音を立てて噛み砕きながら、私をあの大きな瞳で見る母の顔は今でも思い出せる。伸ばした爪の先に銀色のフォーク。そしてその先に突き刺さっているドレッシングのかかった葉が、白い歯の奥に消えていく光景は、映画のようだった。

 二十二歳を越えた頃、私も母の後を追うように菜食主義者になっていた。

 それは、なんでもない生きていても死んでいても同じような街の浮浪者を殺したのがきっかけだった。その頃は今のように銃を使ってはいなかった。ペンチでひたすら相手が死ぬまで殴り続けたり、首を絞めてたりするだけだった。その頃の私は金融工学を学ぶためサンフランシスコに住んでいた。殺人とクスリとゲイカルチャーが日本よりもずっと近くにある街だ。

 夜、殺人の衝動が訪れた夜。とても深い時間に私はチャイナタウンを訪れて、駐車場で鼠と一緒に寝ている浮浪者を殺した。

 浮浪者は近づいても私に気づかず寝ていた。その傍らにはスーパーのカゴが置いてあり、中には黒くなった衣服が詰まっていた。垢が発酵したしたような酸っぱい匂いがした。私は無言でその頭を殴り始めた。

 浮浪者は声を荒げたが、その駐車場は路地裏にあって大通りからは死角になっている。それに路地裏で誰かが何かを叫んでも無意味なことだった。ノースアメリカでは、路地裏で叫び声が聞こえたら助けに行くのでなく、逃げるのが常識だったからだ。

 殴っているうちに顔の形が変わり、頬の皮膚の一部が剥がれ肉が見えた。毛細血管が切れ切れになり、その肉は瑞々しく波打つように浮浪者の激しい呼吸に合わせて起伏を繰り返している。その息遣い。その血。その肉を見たときから、私は肉食を止めた。


 研究所のビルは白く、均等に並ぶ窓からは所々光が漏れている。周りのビルはほとんど眠っていた。

 その研究会社で何を研究しているかなんて知らない。

 用があるのはその中にいる研究員の女だった。私は研究所のドアを開け中にロビーに入る。受付カウンターに人の影はない。もうこんな時間だ。派遣社員はとっくの昔に帰った、ということだろう。無人の受付カウンターの横にあるフロアの地図を見る。一階はギャラリー、食堂、ロビーで研究室は二階に並んでいた。予め依頼主から標的が研究している部屋が二階の一番隅、二〇一号室だということは聞いている。

 エレベーターは使わず研究所の奥の階段を使うために、一階ロビーの廊下を進む。

 製薬会社の歴史を展示するギャラリと食堂が廊下を挟んで作られていた。どちらも人の影はない。そもそも廊下の明かりも落ちている。食堂はそう呼ぶには憚られるほど近代的な作りでカフェのようだった。卵のような形をした球体の一部をくり抜いて作った椅子とステンレス製のようなテーブルが並んでいる。ガラス張りになっていてその奥には庭が見えた。日本庭園のようなものではない。謎のオブジェが並ぶ芝が見えるだけだ。名前を聞いても顔が出てこないような前衛アーティストにもでも頼んだ結果だろう。外套の青白い光に照らされ虚しく青光りしていた。

 階段ももちろん主な照明は落ちていた。踊り場の壁にある階を示す数字の照明だけが静かに光っているだけだった。足音は気にしない。いつものように階段を上がるだけだ。

 二階の二〇一は施設の奥に位置する階段とは正反対の場所に位置していた。私は一階で歩いた廊下を上からなぞる様に二階の廊下を進んだ。

 二〇一の扉。白い壁に白い扉。その扉に番号がふってある。扉の横にはカードリーダーがあり、そこから入退室を監視しているのだろう。カードリーダーに小さくプリントされたメーカーの名前が私の会社のカードリーダーと一緒だった。どこの会社も同じシステムを使っている。

 私は扉をノックした。

 手を前で組み人が出てくるのを待つ。

 しばらくして銀縁の眼鏡をかけて後ろ髪を結わんで上げている女性が顔を出した。唇は薄く、それと同じように化粧も薄かった。細い目で私を訝しげに見ているが、元々の目も細そうだった。

「どちら様でしょうか?」

 女が私に聞いた。間違いなかった。私の狙っている相手だった。名前は、秋本忍。

「秋本さんですか?」

 私は笑みを浮かべる。

「はい。そうですか」

「同室の方は居ますか?」

「一人です。片岡に用事ですか?」

「部屋に入っても?」

「え?」

 秋本は困惑した表情を浮かべる。

「すいません。どちら様でしょうか?」

 秋元がもう一度私に訊いた。

「あなたのファンです」

「警察を呼びますよ」

「けど、扉は閉じないんですね」

 私は秋元がドアノブを握っているその手に自分の手を重ねて、扉を強引開け、身体を滑り込ませる。白いブラウスの上に着ている白衣と私の黒いコートが触れ合う距離に私たちの身体はあった。それからは一瞬だった。私は彼女の首を握るように強く抑えて悲鳴を上げさせなくしてから、扉をゆっくりと閉める。

 恐怖を感じて、秋本の瞳がせわしなく動いていた。その視線は左右に揺れるが、最終的に私の顔に向けて止まった。

「知ってるよ。この扉を閉めると音も空気もこの部屋から漏れないんだろ。研究所独特の仕様だ」

 秋本の顔は赤く、私が抑えつけている首には太い血管が浮き上がってきた。私はその手を解き、同じようにドアノブの上で重ねていた彼女の手を解放した。

 部屋の中央に黒いテーブル。その一角には水道がついている。テーブルの上には顕微鏡とノート、筆記用具と携帯電話が置いてあった。

「綺麗好きなんですね? 良家のお嬢様らしい」

 秋本は呼吸を整えながらも私から視線を外さない。まだ完全に私という存在に怯えているようではなかった。

「警察呼びますよ?」

「呼ばない」

「あそこまで走るんですか?」

 中央のテーブルまで五歩から六歩あるだろう。私はコートのボタンを外し、腰に挿した銃を抜いた。

「あなたがあのテーブルについて一一〇を押してダイヤルする。その後、状況を説明してこの施設の住所を言う。一方私は引き金を引く。それだけでいい。どう思う? 例えあなたが奇跡的に今携帯を手に持っていたとしても、私は引き金を引くだけいいんだ」

「私は…、どうなるの…」

 再び瞳が左右に揺れ始めた。動揺している証拠だった。瞬きの回数も多い。

「それを知ってどうする?」

 秋本は私の問いに答えない。

 沈黙。

 私は扉を背にしたまま動くつもりはないし、秋本も動いたら撃たれると思っているのか、私の前から動こうとしない。

「心当たりはある?」

 こうして雑談するのがいつものやり方だった。プロならつべこべ言わず殺すかもしれないが、あいにく私は副業でやっているだけなので好きにやらせてもらっている。

「わからない」

 大抵、誰でもこう言う。なぜだろう。死ぬのだから正直に言えばいいのに。

「心当たりは?」

 私はもう一度同じ質問をする。

「ない…」

「自信がなさそうだけど」

「不倫をしてるの」

「あるじゃないか」

 秋本忍には婿養子の夫がいる。良家の一人娘にはよくある事だ。

「けど…」

「なにか?」

「わからない。どちらがあなたを雇ったの?」

「その意味は? ちょっとわからないんだけど」

「夫か不倫相手、どっちってことよ」

「どっちでもいいだろう」

「よくないのよ」

「女のプライド?」

「男だからとか女だからとかは好きじゃない」

 なんていうか研究者らしい言葉だなと思った。

「それじゃ君自身のプライドがそう訊くのかい?」

「そうよ」

「それじゃ答えるよ、私は何も知らない」

「悪い男ね」

「精一杯の冗談だよ」

 笑っているのは私だけだった。

「君、趣味は?」

「別にないわ」

「どうしてこんな事訊くのって思ってるのか?」

「えぇ」

「それじゃ後ろを向いて、跪いて。両膝を地面につけるんだ」

 秋本は逡巡したようだった。少しの無音あった。

「早く」私はいった。

 秋本は私に背中を向けると、右膝、左膝、という順番で跪き、両手を上げる。

「これまで不倫した人数は?」私は訊いた。銃口は秋本のうなじに向けた。

「失礼なことを訊くのね」

「答えるつもりはない?」

「あの人、ひとりだけよ」

「僕は独身だから不倫はできないんだけど、興味あるな。どうやってその彼とは知り合ったの?」

「同じ大学の同じサークルだった」

「それだけ?」

「それだけよ」

 秋本は三十六歳だった。結婚は確か二十六のときにしているはずだった。

「それなら今の夫よりも早く出会ったんじゃない?」

「なんでも知ってるのね。それも仕事なの?」

「まぁね」

「一回別れたのよ。丁度、今の夫と出会う前に」

「なるほど。それで再会をきっかけに不倫したんだ」

「その通りよ」

「よくある話だ」

「そう。よくある話よ。ありふれた話」

 声が震えていた。両腕も震えている。顔は見えないが、泣いているのだろうと思った。

「死ぬのは怖い?」

 私は彼女の後頭部に意思を集中する。

「怖いわ。とっても。あなたにはわからないでしょうね」

「夫と不倫相手、どちらを愛していた?」

 私は訊いた。好奇心からだった。秋本はしばらく何も喋らなかった。私は彼女が喋り始めるのを待った。

「嘘かと思うかもしれないでしょうけど…」秋本は震える声で喋り始める。

「信じる」私はそう言って次の言葉を促した。

「どうしようもない人だけど、夫を愛してるわ」

「理由は訊かないよ」

 私は引き金を引いた。

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