1-2生前(ニ)
「あ、おーい! ユキー!」
夜、夕希が駅に向かうと、まだ8時なのに美祐がすでに改札の前で待っていた。いつもなら数分遅刻することも少なくないのに、今日は気合の入りようが違うらしい。服装も大人っぽい、とうよりは少し露出度が高い。
「早く早く!」
「クラブが開くのは9時だし、私たちが急いでも電車は時間通りにしか来ないでしょ」
ぐいぐいとこちらの手を引く美祐を夕希はなだめた。
数分もしないうちに電車が来て、仕事帰りの大人たちがちらほら降りてくる。帰宅ラッシュ後のすいた車内は、買い物袋を持った中年の女性や大学生らしき若者がまばらに座っているだけだ。
「夕希のママとパパは許してくれたの?」
適当な席に腰を下ろすと、美祐がふとそんなことを訪ねてきた。夕希はそれに苦笑を返す。
「うーん、さすがに正直にクラブにいくなんて言えなかった。勉強してそのまま友達の家に泊まるって言っといた。実際、さっきまで図書館で勉強してたし、噓はついてないよ」
「そっか、そうだよね。ユキのパパ結構厳しそうだし」
「あはは……人の目を気にしちゃう人だからねぇ」
厳格、といえば聞こえはいいが、父は要するに他人の目や評価を気にしすぎる節があるのだ。
「窮屈じゃないの? ユキは」
「んん………」
問われ、少し回答に迷う。
父は夕希をよく褒めるし、夕希自身も父のことは嫌いじゃない、むしろ好いている。しかし父は、人並みに真面目で堅実な進路を選択する娘を持っていることが、一種のステータスであると思っている節がある。人に会えば「真面目で優しい娘だ」と言って自慢する。だがもしも夕希が「真面目で優しい娘」をやめてしまったら、きっとなぜそんなことをしたのか問い、心配をするよりも前に、失望を見せるだろう。
中学の頃、うっかり夜遅くまで友人の家に入り浸ってしまった時がそうだった。あの時のことはよく覚えている。ひどく叱られることは覚悟していた。帰宅して食卓に呼び出された時も、心配かけてごめんなさいという罪悪感でいっぱいになりながら、不機嫌な父と対峙したのだ。
しかし父は、幻滅させないでくれと、本当はそんな子じゃないと、夕希に言っただけだった。その一言で、夕希は彼が心配なのはきっと、娘が自分の理想から離れてしまうことなのだと悟った。この人が好きなのは、きっと私ではなく、「真面目で優しい娘」なのだと。
以来、夕希は父の前で彼の理想の娘であるように心掛けている。
それで満足かと問われれば、そう言うわけではない。多少うんざりすることもあるが、だからかといって反抗するほど何かに打ちこみたいものがあるわけではない。父が良い子の自分に価値を見出してくれているなら、別にいいと思ってしまうだけである。
「尊敬してるし別に気にならないよ。それに慣れちゃった」
当たり障りのない返事をすると、美祐がわざとらしく目を丸くした。
「ええー! あたしだったら家出してるよー!」
「あは、大げさ」
作り笑いをすることにさえ罪悪感を覚えた。心が急に冷めていく。同時に、見えるものすべての色味が失われていくような感覚になる。
美祐が何か喋っている。自分はそれに無難な受け答えをしている。しかし夕希の意識は、どこか遠くからそれを眺めているように淡白だ。
電車は単調に揺れる。
しばらくして止まる。
「あ、ついた。行こ」
「うん」
電車を降り、美祐についていく。自分の意思がないかのように、勝手に足が彼女のあとを追っていく。
——それに、慣れちゃった。
自分の言葉が反すうされる。
そう、慣れてしまえばどうってことない。ただ人が望むことを実行していけばいいだけ。
自分で何かを探し求めて生きるのは、自分には難しすぎる。
*
夕希は模範的な高校生である。ましてや父が、「子供のうちは知らなくていい」と頑なにそういった文化を夕希から遠ざけようとし、「低俗だから」と夕希に教え込んでいた。ゆえに、美祐の行きたがる「クラブ」というものがどういうものなのか、映画やドラマで得た程度の知識しか持ち合わせていなかったし、ましてやそれがどんな場所にあるのかも、いまいち理解しきれていなかった。
だから、初めて足を踏み入れた歓楽街に、夕希はただ唖然としてしまった。
もう夜も遅いというのに、全く暗さを感じさせないような看板の明かり。そのどこか間の抜けたあざやかなネオンの数々は、夜空の漆黒さえも霞ませてしまうほどにらんらんとあたりを照らしている。
「なんか大人になったって感じ! ほら行こ、ユキ」
「あ、うん……」
小走りになる美祐に手を引かれながら、きらびやかな建物を見回す。来る人来る人を、呼び止め、誘い、歓迎する看板たち。だが、底抜けに明るい光の狭間、そこに確かな暗がりがあることにも、夕希はなんとなく気づいた。
「うーんこの辺りなんだけどなぁ……あっ、ここかな——」
「ミユウちゃん!」
スマホでマップをみながら歩く美祐の前に、ふらりと人が出てきた。夕希は慌てて美祐の腕を後ろに引っ張る。突然建物の陰から出てきた男はバランスを崩したようで、その場に尻餅をついた。
痩せて目の下に深い隈のある男だった。はっきりしない発音で何かをつぶやいている様子はとても気味が悪く、夕希は思わず後ずさりした。
「な、何こいつ……」
美祐もまた男に同じような印象を抱いたようだ。夕希ははっとして美祐を男から遠ざける。
「わかんないけど…とりあえず近づかないほうが———」
「ちょっとお客さん! ここにいると他の人の邪魔ですから……!」
「ああ、あ、るんだろぉ!? この店にはよぉ!!」
鬱陶しそうに、近づく青年たちを追い払おうと腕を振り回す男。どうにかして彼を追い払おうと、青年たちは足取りも不安な男を立ち上がらせた。
「そんなもん置いてないって言ってるでしょ! いい加減にしないと警察呼びますよ!」
「呼ばれて困るのはお前らの店だろ!? 呼べるもんならよんでみろっつってんのぉ!」
「だから———」
「先輩!」
美祐の声に、青年の一人が弾かれたようにこっちに気づいた。
「あれ、ミユウちゃん! 本当にきてくれたんだ!」
短い髪を金に染めた美祐のバイトの先輩は、背格好の割に人懐こい笑顔を浮かべた。夕希はちらりと美祐を見やる。顔がだらしないほどにほころんでいた。
「あったりまえですよ〜。あ、この子は友達です!」
「はじめまして」
「どうも。ごめんだけど、先に中に入って待っててくれない? 俺もすぐ行くから」
「あ、はい! じゃあユキ、中入ってよう」
「そうだね」
そう言ってすぐ脇のドアを開けようとした瞬間だった。
「ふっっっっざけんなぁ!」
背後で耳を突き抜けるような剣幕と、どさりと重たい何かが地に落ちる音がした。
「え……」
振り返ると真っ先に目に入ったのは、息も荒くナイフを握りしめる男と、その脇で呻きながらうずくまる美祐の先輩だった。
「う…ぁ」
「いやぁぁぁあ! せっ、先輩! 先輩!」
美祐の悲鳴をきっかけに、周囲の人とたちもざわめき始める。一瞬にして、雑踏が男の周りから引いていく。
「何々ぃ?」
「え、人倒れてない?」
「とりあえず離れようぜ」
「あいつヤク中の後藤じゃん」
「やべー一枚だけ撮っとこ」
「警察呼べよ誰か」
「うそ、刺されてんじゃん!」
「あれ血?」
「救急車救急車」
周囲の声がやけにはっきりと聞き取れる。呆然と固まっていると、ナイフを持った男がこっちを睨んできた。
「なんで! なんっで! 俺、お、俺がもらえないのに! お前たちはもらえるの! 神が許さない! ダメ! だろっ!!!」
「きゃぁあ! いやっ! 来ないでよぉっ!」
「ミ、ミユウちゃん落ち着いて……」
「やだやだやだぁ!」
パニックに陥った美祐は、パニックになって悲鳴を上げ続けている。
助けを求めて、先ほどまで男をたしなめていた青年を見た。だが彼もまた恐怖のためか、腰を抜かしてナイフを持った男を見上げているだけだった。
「うるさいいいい!! 黙ってよこせよぉおおお!!!」
男が美祐めがけて走ってきた。
「おいあいつを抑えろ!」
そう叫ぶ声がどこかから聞こえるころには、男のナイフはすぐそこまで迫っていた。
「危ない!」
とっさに美祐を突き飛ばし、ナイフを持った男の腕を抑える。しかし力で敵うはずもなかった。焦点の合っていない目と目があう。よだれを垂らした口元が、にやりとつり上がった。
どんっ、と強く胸を押さえつけられたかのような圧迫感。痛いというより、熱いという感覚。呼吸が喉の奥で詰まる。
「ユキ! ユキ!」
痛いのか熱いのか苦しいのか訳がわからないまま、夕希は崩れ堕ちた。男が自分から引き剥がされ、複数人に押さえつけられている。その視界に影が差し、涙目になって自分を見下ろす美祐を映し出した。
ああ、自分はここで死んでしまうのか。やけに冷静にそう確信してしまった。もう呼吸の仕方すらわからなくなってきて、怖いなんて思う余裕もなくなってきた。
必死に息を吸おうと試みるたびに、肺が悲鳴をあげる。こんなに苦しいのなら、いっそ死んでしまった方が楽なのでは。そんな考えさえ頭をよぎる。
死ぬのは、正直怖い。でも。
生きていたってしょうがないし……むしろ。
「よか……た」
「何言ってんの! 全然よくないよ!」
必死に語りかけてくる美祐の声も、耳に膜が張ったように遠い。
目を開けるのも億劫になり、夕希はまぶたを閉じ、もう一度思った。
——大切にされながら、死ねてよかった。
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