1-3死後


 気がついたとき、夕希はまるで意識だけが暗闇をふわふわと漂っているような感覚だった。


 この状態は、自分が死んでしまったと思ってもいいのだろうか。それともまだ生きていて、これは病院のベッドで見ている夢なのだろうか。


 ともあれ、真っ暗で誰もいない、そして何も感じないこの空間は心地よい。


 夕希は永遠に暗闇を浮遊していたい気分だった。もしこれが死ぬということなら、案外悪くない。そう感じながら、心地よさに身を委ねようとした。しかし。


「……痛ッ」


 頭をゴツゴツしたものにぶつけた。それをきっかけに、身体中の全ての感覚が徐々に取り戻されてゆく。


「うぅ……」


 幸い、胸に刺された時の痛みや苦しさは残っていない。硬いところで寝ていたからか、背中が痛い。指先に伝わる硬くざらついた感覚に、自分がいったいどこで眠っていたのかわからず困惑した。上半身を起こし、あたりを見回す。


「どこ……ここ」

 思わず、誰に問うでもなく疑問が口から漏れ出た。


 視界は暗すぎて、あたりがどうなっているのかよく分からない。しかし手のひらに伝わるごつごつした感触から、周りが岩場であることがなんとなく想像できた。ゆっくり立ち上がり、一歩一歩手探りで進むと、指先が岩壁に触れた。どうやらここは洞穴のようなところであるらしい。


「だ、誰かいませんかー……」


 とりあえず、助けを呼んでみる。しかしその声は周囲に少し反響しただけで、返事どころか誰かがいる気配すら感じられなかった。何も見えない暗闇でじわじわ焦りを覚えながら、どこへ進もうか、立ち止まるべきか考えていると、


「……風?」


 かすかに、風の音が聞こえた。息を潜めて、もう一度耳をすませる。気のせいではない。低く唸る空気の流れが、この近くにある。


 いったいどうして自分がこんなところで寝ていたのかもわからないまま、夕希はその音だけを頼りに、壁に沿って慎重に歩き出した。


 しばらくも歩かないうちに暗闇が薄くなり、光で陰影が濃くなった岩壁が見えてきた。曲がった先に出口があることを確信し、夕希は胸をなでおろした。


「あれっ、服が……」


 ようやく自分の状態が確認できるほどに明るい場所へ抜けた。と、夕希はそこで自分が身につけているのが、高校の制服であることに気づく。靴まで学校指定のローファーを履いている。一応、シャツの下を確認する。胸元に刺し傷はない。


 やはり、これは夢なのだろうか。もしかしたら刺されたのも夢かもしれない。こんな突拍子もない展開だ、大いにありえる。あまりこういった非現実的な夢は見ないから混乱してしまったのだ。今頃美祐と電車に揺られて、二人とも寝過ごしてしまって目的の駅よりも少し遠くまで————


「………なにこれ」


 洞窟から抜け出そうとした夕希は、辺りの光景を目の当たりにし、考えていたあれこれがすべて吹っ飛んでしまった。


 目の前には、見上げるほど高い剣山が所狭しに乱立していた。塔にも似たそれらの岩肌は、風で風化して鋭く尖っている。空は今にも降り出しそうな、鈍色の雲が厚く垂れ込んでいる。そのくせやけに乾いた風が、砂埃を遠くへ運んで行った。


 不安定な足場に苦労しながら、夕希はゆっくりと洞窟から出た。周りを見渡しても草一つ生えていない。自分以外が全く色を失ってしまったような景色に、夕希は恐怖を覚えた。


「と、とにかく誰か……」


 自分をここに運んだ人物が、まだ近くにいるはずだ。気を紛らわすため自分にそう言い聞かせ、その場から離れようとした時だった。


「きゃっ!」


 雷鳴にも似た轟音が、地面を揺らした。音の方向を見る。そう遠くなさそうな剣山の隙間から、砂埃が上がっていた。


 夕希は一瞬躊躇したが、音のした方へと駆け出した。少しでもこの状況が変わることを願い、いまだ立ち込める砂埃を目指す。


 ——誰かいるかもしれない。

 そうでなくても、何もない、何も聞こえない場所に一人でいるよりは、音の正体を見に行った方が気を紛らわすことができるだろう。少し走ると、今度はさっきよりも近いところで轟音が鳴り響いた。思わず耳を塞ごうとした、その時。


「うわぁぁぁぁぁあああああ!!!!!」


 山の間をこだまして、人の悲鳴が聞こえた。ここからそう遠くない。


 その悲鳴に不安は増しつつも、夕希は駆ける足を速めた。岩の陰を曲がろうとした時、今度は直ぐ近くで悲鳴が響き渡った。とっさに陰に身を隠し、おそるおそる声の正体を確認する。


「…………っ!?」


 ほんの数十メートル先に、人が二人。


 だが、一人は人なのかどうかも怪しい。


「いやだぁあっ! ああっ、ああああぁぁぁぁ…………!」

 岩と同じ色をした人型の何かが、こちらに背を向け、片手でもう一人を締め上げている。もう片方の手には、端が赤く染まった棒切れを持っている。それを握る手があまりにも大きくて、夕希は棒切れが、人の足であることに気がつかなかった。


 その場に縛り付けられたように呆然と二つの人影を見つめていると、締め上げられている男と目が合った。


「あ———!」

「っ! やだ! 死にたくない!! 助けてくれぇぇえ!」


 男の懇願にどうしようもなく震えていると、岩のような巨体が振り返った。夕希は反射的に逃げ出した。


「待って! 置いていかないでくれええええええええ!!」

 男の叫び声を後ろに、夕希は振り返らず走り続ける。


「なにこれ…意味わかんないよ……!」

 足場が悪くてうまく走れない。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかもわからない。がむしゃらに走っていると、目の前に何かが降ってきた。


「きゃあっ!」

 驚いて腰を抜かした。そして降ってきたものが何であるかを認識し、両手で口を押さえた。


「た、たす……」


 先ほど締め上げられていた男だと思われた。右足が根元からちぎられ、皮膚ごと髪の毛が剥がれ頭蓋が晒されている。血が出尽くしたかのように真っ青な肌だった。


 夕希は男から離れようと、腰を抜かしたまま後ずさりをした。男の体は大きくはねたかと思うと、そのまま動かなくなった。


「えっ‼」

 するとみるみるうちに、男の体が岩に取り込まれるようにして周りの風景と同化していく。


 夕希はようやく立ち上がると、男の死体があった場所に近づく。血も残さず、死体があった場所は、先ほどよりも少し盛り上がっているだけだった。夕希は再びその場にへたりと座り込んでしまった。


 なにがどうなっているというのだろうか。何から考えればいいのかわからない。死体の代わりに隆起した岩に触れ、うなだれていると、背後で大きな足音が聞こえた。体をよじり、振り返る。


 その化け物は、背丈は夕希の2倍はありそうだった。岩を積み上げて作られた、鎧のように無骨な体躯は、周りの剣山と同色だ。緑のカビのような斑晶は顔にまではびこっており、血走った赤い目が、岩のような肌の隙間から夕希をとらえている。


 恐怖で悲鳴すら上がらずに、目の前の化け物を見つめ返す。足に力が入らない。それを知ってか、化け物はゆっくりと近寄ってくる。


「あ……あぁ」


 殺される。


 近づく化け物を見つめながら、夕希はそう悟った。せめて痛みを感じないほど一瞬で終わることを願い、ぎゅっと目をつむった。


「——アァァアアッ!!!」


 まぶたの裏で、獣の号哭のような叫び声と、激しい衝突音が空気を揺らした。座り込んだ地面までその衝撃は伝わり、巻き上げられた岩の破片が頰をかすめる。夕希は反射的にその場にうずくまった。


 一瞬の暴風が去り、おそるおそる顔を上げる。先ほどまではなかった岩塊が、砂塵の中心となっていた。岩塊の先端は鋭く尖っており、岩の化け物の体に深く突き刺さっている。


「ウ、ガァ、アアアァァ……」

「ひっ」


 化け物は自身に突き刺さる岩塊を動かそうとしているようだった。その岩が少しだけ軋んだ音を立てた瞬間だった。


 まるで疾風が形をなしたようだった。


 それはもがく化け物の頭を一瞬で砕き、岩塊の上に降り立った。


 放たれた矢のような勢いで降ってきたそれは、少女だった。


「………」


 彼女は振り返ると、じっと無言で夕希を見つめた。薄いブラウンの瞳に、鼻筋の通った美しい容姿。まるで人形のようだった。


 否、人形そのものであるかのような風貌であった。


 白い編み上げブーツに、モノトーンのストライプのタイツ。黒いレースがふんだんにあしらわれた淡いピンクのミニドレスの胸元にも、黒く艶やかなサテンのリボンが形良く結ばれている。ウェーブがかった栗色の髪の毛は耳の上で二つに結ばれ、白いバラの髪飾りで留められている。


 まるで命を吹き込まれた人形だ。


 それほどまでに可憐な少女が、血塗れの金属棒を片手に仁王立ちしている。少女は岩塊から飛び降りると、つかつかと夕希まで歩み寄ってきた。


「なっ、あっ、あなた……わっ」

 少女は目の前でしゃがみこんだかと思うと、乱雑な調子で夕希の胸ぐらを掴んで引き寄せた。淡く夢のような見た目とは裏腹に、力が強く、眼光はぎらぎらとしている。夕希はたじろいで息を飲んだ。


 少女はしばらく夕希から目を逸らさなかったが、やがて襟元を掴んでいた手を離した。解放された夕希は、少しだけ咳き込む。そして立ち上がった少女を見上げる。


 彼女は、熟れた果実のように鮮やかな唇をようやく開いた。


「———お前、」

「…………え?」

「お前、ここがどこかわかってるのか?」

「いや、あの……あなた、は」


 もちろんここがどこだかは解るはずがない。だが質問に答えるよりもまず、夕希は混乱でしどろもどろになった。先ほどから原因も意味もわからないことばかりで、何から消化していけばいいのか頭が追いつかない。


「聞くけど、お前まさか———」


 少女が何か言いかけたところで、剣山の崩れる音が聞こえた。はっと顔を上げた少女はその整った顔を歪ませ、舌打ちを一つこぼす。


「ここはもう荒れる。場所を移すぞ!」


「え、ちょっと、やっ、——きゃぁあっ!」


 言うやいなや、少女はへたり込んだままの夕希を強引に小脇に抱えると、そのまま人間とは思えない跳躍力で跳ね上がった。


 いったい自分はどうなってしまったのだろう。


 地上何メートルの高さを高速で移動し、時折襲い来る浮遊感に恐怖した。


 思わずしがみついた少女の腰は華奢である。


「おい動くな! 抱えにくい!」

 しかしながらその声は、同年代の少年のそれであった。


 しばらく目を瞑っていると、風が止み、ようやく自分がどこか地上に降り立ったのだということを感じた。


「——いい加減目ぇ開けろ」

「うぅ……」


 降ろされた場所は開けた岩場だった。ところどころから噴出するガスはかすかに青みを帯びていて、小さく風が吹くたびに腐臭が鼻をつく。少し遠くに、剣山が密集しているのが見える。


「ここまではさすがに鬼も追ってこない。ゆっくり話を聞かせてもらうぞ」


 声にハッとして、夕希はその可憐な、おそらく少年だと思われる人物に頭を下げた。


「あ、あの、助けてくれてありがとうございます! えっと、ここはどこか——」


「糸は見えるか」

「はいっ! え、糸?」

「お前が地獄ここに来てから、糸が垂れてんのを見たのか聞いてんだよ!」

「ひえっ」


 地面は硬い岩…のはずなのだが、少年が振り下ろした血塗れの金属棒は、深々と地に突き刺さった。美しい容姿に似合わぬギラついた眼光たじろぎ、夕希は少年から目を逸らした。


「え、わ、私、糸なんてそんな………あ」


 あった。


 少年の背後、どこまでも続く暗い曇天のその先。


 一筋の白い光が見えた。


 今にも切れてしまいそうなほどか細くか弱く、けれども確かに、光の糸が何かのしるべのようにしてまっすぐ天と地を結んでいる。


「えと、あの向こうに……糸っていうか、細い光? みたいな……」


 少年が求めること答えであるかどうかがわからず、自信なさげに光の筋を指し示す夕希。少年は背後に目をやり、そして驚いた表情で再び夕希を見つめた。そしてすぐに不敵な笑みを浮かべると、地面に突き刺した金属棒を軽々引き抜いた。


「名前は?」

「は、ふっ…深川夕希です」

「ふうん、深川……。や、夕希のが呼びやすいな。お前、ここがどこだか知らないんだよな?」

「は、い、……まぁ」


 トントン、と棒で肩を軽く叩きながら、少年は夕希の周りを歩きながら告げた。


「ここは死んだ人間が堕ちてくる世界、いわゆる地獄ってやつだ」

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