壱、執念ノ掃キ溜メ

1-1生前(一)

 午前八時といえど、八月初旬の空気はすでに十分な熱を含んでいる。


 世間一般では、小学生から高校生は待ちに待った夏休みシーズン。しかしそれは、大学受験を控えた高校三年生には、ほとんど無関係のイベントであった。


 深川ふかわ夕希ゆきは鏡の前で少しだけ前髪を整えた。カバンの中を見て、忘れ物がないことがわかると部屋を出る。


「行ってきまーす」

 台所で洗い物をする母に一声かけながら靴を履く。


「ユキ、お弁当は?」

「今日は午前だけだし、帰って食べるから置いておいて」


 ドアを開けた瞬間、暴力的な陽光が肌を刺し、日焼け止めを塗り忘れたことを少し後悔した。しかし部屋に戻って再び身支度をする時間などない。こころなしか早足で、夕希は学校へと向かった。


 夏休み中とはいえ、学校には課外授業を受けにきた三年生以外にも、部活の午前練習の準備をする生徒たちがちらほらいる。しかしやはり休み前とは比べものにならないほどのどかで、どこか閑散としている。


「ユキー、おはよ!」

 後ろからするりと腕を絡ませてきたのは、同じ中学から進学してきた美祐みゆうだった。中学のころはそれほど親しくなかったが、夕希の所属する特進クラスに彼女が想いを寄せる相手がいたこと、その相手がたまたま夕希と仲がよかったことから、彼女の恋愛相談を受けるうちに、なんだかいつも一緒にいるようになった。ちなみに美祐は一度その彼と付き合ったが、彼女の方から振ったらしい、ということを人づてに知った。


「おはよ。それと、あっついよミユウちゃん」

 くっついたまま歩こうとする美祐に苦笑いで告げると、悪戯っぽい表情が返ってきた。


「えーユキに振られちゃったよ、傷つくー!」

「またそんなこと言って……。振ってないよ、大好きだよー」

「心がこもってない!」


 ふざけて泣き真似をする美祐を笑いながら、彼女の言葉が静かに自分の心に刺さったことを夕希は自覚した。


 心がこもってない。


 そりゃあそうだ。心からこの関係を楽しんだことなんて一度もない。


「ミユウちゃんも課外授業なの?」

「あたしは志望校の相談。ユキは一日中授業なの?」

「ううん、今日は午前中に政経と地学だけ。希望者に地理の補講もするみたいだけど、私は必要ないから」


 美祐の会話に合わせつつ、夕希の心はどんどん自己嫌悪に染まっていく。

 いつからだろうか、こんなにも世界を楽しめなくなったのは。いつからだろうか、視界が灰色がかっているかのように、味気ない生活を送るようになったのは。


「いいよねーユキは。あたしは公立行けるような頭がないもん。羨ましい」

「あはは」


 表情だけで笑いながら、夕希は自分の感情が急速に色味を失っていくように思えた。やりたいことがないから、親の進める大学にいくだけだ。将来に目標がある美祐の方が、よっぽど羨ましい。


「勉強頑張ったらそれだけいいとこに入れるんだから、ミユウちゃんも頑張りなよ」


 どの口が偉そうにそんなことを言えるのか。やることがないから、特にとりえもないから、 なんとなく勉強しているだけのくせに。


 どこか離れたところで、冷たい目で自分自身を観察しているような錯覚を覚えるのも、またいつものこと。しかしそんな心内はおくびにもださないで、冗談半分でむくれる美祐をたしなめた。


「ほら、ミユウちゃんの先生は中央棟にいるんでしょ。ここでお別れ」

「はぁーい……あ、そだ」

 ふと思い出したように呼び止められた。授業まであまり時間がない。


「ユキが終わるまで図書館で暇つぶしてるから、授業終わりちょっと付き合って! お願いがあるの!」

 美祐もそれを知ってか、今ここで詳しく話すようなことはしなかった。


「うん、わかった」

 夕希は彼女にそれだけ言うと、小さく手を振って教室へと小走りで向かった。


 教室の中は、同じく課外授業を受けに来た生徒たちで半分ほど埋まっていた。国公立や難関私立を目指す成績上位者とその希望者のみの特別授業のため、皆クラスはバラバラで、席も決まっていない。夕希は空いている窓際の席に腰を下ろし、必要な参考書を鞄から取り出した。


「じゃー授業始めるぞー」


 夏休みだから、始業のベルはならない。授業開始予定の時刻を数分過ぎた頃、あまりやる気のなさそうな政経の担当教師が教室に入ってきた。

 授業内容は、あらかじめ宿題として配っておいた模試の過去問の解答解説だった。


「まず大問1で問われていることについて———」

 教師の中には授業熱心で、授業毎に小テストを作ってきたり、生徒が勉強に親しみやすくなるような小話を挟んだりする者もいるが、この教師のように解説集に記載されていることをほぼそのまま喋り続けるだけといったような者もいる。

 どうせあとで解説の写しが貰えるのだからと、夕希は授業を話半分で聞き流し、真面目に授業を受けているふりをしながらぼんやりしていた。


 この人も、毎日を消費しているだけなのだろうか。


 自分と同じように、志も何もなく、ただなんとなく生活しているのだろうか。


そう考えると、目の前のやる気のない教師にも親近感が湧いてくるというものである。


 ふと窓の外を見遣ると、サッカー部が練習している姿が見えた。校庭の端にあるテニス場では、テニス部たちが丁度休息をとっている。ふと気がつけば、吹奏楽部のパート練習が別棟から聞こえてきた。


 何か部活にでも入ればよかったかもしれない。


 中学時代は友人の誘いでバスケ部に入っていた。決して運動が苦手なわけではなかった。しかし特にこれといって打ちこむことができず、それが他の仲間や先輩にもなんとなく伝わったのか、居心地が悪くなって二年生の秋に辞めた。

 以来興味の湧かない物事には無理して取り組むことはしないようにしてきたが、それがかえって自分の無趣味具合、無個性具合に拍車をかけたような気がしてならない。


「じゃーもー時間あとちょっとしかないから今日はここまでな。課題配っとくから次くるときまでにやっとけよー」


 ぼうっとしているうちに、終了予定より数分早くその教師は授業を切り上げて去っていった。配られたプリントに一通り目を通し、夕希は次の授業の準備をした。


 地学の授業は前半で問題を解き、後半で解説をするといった形をとるものであった。これは先ほどの政経と違い、担当教師が解説プリントを配らずノートを取らせることを目的としているため、夕希も真面目に解説に耳を傾けた。


 そうしているうちに、あっという間に課外授業は終わり。夕希は参考書をまとめると教室を出た。美祐が待つ図書室に足を運ぶ。


「ごめんね、お待たせ」

 美祐は一番奥の机に突っ伏していた。傍らには「仕事まるみえ! 保育士のすべて」というタイトルの本。


 美祐が本を読んでいる姿なんて見たことがなかったし、彼女自身「本は疲れる」と言っていたものだが、こうやって自分の将来のために苦手なものに手を出そうとする姿は、眩しくもあり、少しだけ嫉妬してしまう。


「ミユウちゃん、起きて」

 周りの迷惑にならぬように、静かに美祐を起こす。のっそりと顔を上げた美祐は夕希を認識すると、寝ぼけた笑みをこぼしながら目をこすった。


「あ、終わったんだ。帰りながら話すから外出よ」

「うん。……その本、借りなくていいの?」


 すると美祐は本を手にとってカバンに突っ込んだ。

「前から借りてるやつなんだ」

「そっか、じゃあ行こ」


 冷房の効いた図書室と廊下の気温差は激しい。さらに校舎を出ると、暑さに加えて、目が痛くなるような日の光が肌を照らした。


「ミユウちゃん、お願いあるって言ってたけど何だったの?」

「ユキ、今日の夜空いてない?」


 夏休みの課題が詰んでしまったか、あるいは志望動機を考えるのを手伝って欲しいか。そんなところだろうと目星をつけていたユキは、ミユウの質問が少々意外だった。


「特に何もないけど……」

「じゃあさ、一緒にクラブ行ってみない?」

「えっ?」


 思わず立ち止まる。


「どうしたの、急に」

「バイト先の先輩が掛け持ちで働いててー、会いに行きますって言っちゃったの〜」


 最近美祐が思いを寄せているという人か。付き合ってあげたいが、さすがに高校生、しかも受験を控えた身分でそんなところに遊びに行くのはためらってしまう。


「未成年って入っていいの?」

「先輩が特別に通してくれるって〜」

「うちの高校、そういうの禁止だった気がするんだけど……。先生たちも見回りに来るだろうし……」

「二駅先のクラブだから大丈夫だよ〜」


 お願い〜と食い下がるミユウ。


「でも……」

「一人で行く勇気はないもん、ユキがいたら心強いし……」


 頼れるようなしっかりした友達、ユキしかいないもん。そう言われて、とうとう夕希は折れてしまった。ほだされたといってもいいかもしれない。


「もう……あんまり長居はしないからね」

「やた! じゃあ8時に駅で待ち合わせね!」


 少なくともこの子にとっては、私は価値のある存在なのだ。


 そう思ってしまう自身を、どこか嘲っている自分がいる。夕希はそれも自覚していた。

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