4-4 離

 ほんの短い、怒涛の戦いは終わりを告げたようだ。


「ご、ごめんなさい、あの……自分じゃ立てなくて」

 引き上げられたはいいが、夕希に亡者のような治癒力はなく、足首にはいまだ深い傷が残っている。自分より明らかに重傷の少年に寄りかかるしかない夕希は、申し訳なさに俯くしかなかった。


「……は、いつものことだろ。……それに、もう治り始めてる」

 言われて、夕希は自身を支えている運命の右腕を確認した。まだ生々しい赤色をしてはいるものの、かがりに削がれたはずの皮膚が再生しつつある。腕だけではない。着ている服は元の薄桃色がほとんど見えなくなっているほど血で染まっているのに、彼自身の血はもう流れていなかった。そして左肩から噴き出る赤銅の影はもちろん、傷ついている様子などない。


「便利な体になったもんだ」

 目を見張って腕をかたどる白い武器に絡みついた影を見つめていると、運命が彼らしからぬ穏やかな声音でそう言ったので、夕希はますます驚いて運命を見た。少年は彼自身の体の一部であるかのように動く五肢の刃を見つめて、ぽつりと付け加えた。


「———俺はまだ、地獄に残ってるのも悪くないかも……な」


 それが嘘だと、夕希は何故だかすぐにわかってしまった。少しだけ口の端をあげた運命はこちらを見やると、ふ、と少し笑ってまた目を逸らしてしまった。彼が考えていることはわかる。仲直りをしたとはいえ、どちらが生まれ変わるのか——そしてどちらが残るのか、答えは出ていない。


「だから、お前——」

「あ、そ、そんなこと言ったって、糸はもうすぐそこだよ! ほら、あそこの火山の上!」

 運命くんも、ようやく生まれ変われるよ。そう言って糸のある方を指し示し、夕希は努めて明るく振る舞った。

 少年は一瞬あっけにとられたようにこちらを見つめて固まったが、すぐに目を逸らした。


「————そうだな」

 答えた彼の表情が少しだけすまなそうに曇ったが、夕希はほっと胸をなでおろした。これでいい。最初の決意どおり、彼を糸まで導くのだ。自分の番はその後でもいい。


「ま、俺にはただの馬鹿でかい火山にしか見えないんだけどな」

 運命もまたいつもの調子に戻ったようで、そんなことを言い出したので夕希は苦笑した。


「本当にあるんだよ。こんなに眩しくて大きいのに……」

「それだけ目立つのに俺には見えてないってのが、今更だが怪しい」

「カシシャの私が言うんだから、間違いないよ……たぶん」

「ったく、はっきりしねぇな」

「う、ほらとにかく、ね。行ってみよ——ぅあ!?」


 夕希が促そうとした途端、視界がブレた。運命が自分を抱えて高く跳躍したからだと気付いたのは、はるか下方に溶岩の真っ赤な脈を捉えてからだった。


 二人がいた場所には、端が熱で赤く染まった鋭い岩が刺さっている。

 しかしそれよりも異様な景色が、少し遠くに広がっていた。押し寄せてきていた、と表現するべきか。


「な、な——!」

「なんだよ、あれか……」

 火山の合間を縫って、それどころかまるで火山帯を飲み込むようにして、おびただしい数の亡者が全方位から迫ってきていた。


「どうして……」

「———あいつだ」


 夕希は着地した運命の険しい視線を追い、背筋が凍りついた。山腹の陰から、血まみれの亡者が姿を現したのだ。あの鉄の樹海で見た姿ではない。しかしその身体に絡みつき、眼窩を突き抜ける有刺鉄線は、誰であるのかを克明に示していた。


「観ているだけじゃなかったのか」

 運命が問うと、その亡者はあの奇妙なまでに落ち着き払った調子で述べた。


『貴様らは、とても面白い。片や絶望の中で欲に芽生え、片や傲慢の果てに愛他を選択する。この地獄においてその意志を貫ける者はそういない。面白い。寒気がするほどに清く、美しい! そのしみひとつない美しさは、いったいどこまで保っていられるのか、どこから壊れ始めるのか、私は観てみたい……!』


 か、か、か、と。壊れた人形のように笑う亡者の濁った片眼に、夕希はかつて湖で見たあのギラギラとした光が宿った気がした。


『魅せてくれ! 貴様らの最期、我らの本質——狂おしい地獄を、私に観せろ……!』


 それを最期に、亡者の身体が瓦解した。絡みついていた鉄線は、するすると地面に取り込まれていった。


 しばらく呆然としていた二人だったが、そう遠くない場所から怒声と地鳴りが響き始めたところで、運命が糸の方向を向いた。

「———とにかく、お前をなるべくあの近くまで連れてく」

「なっ」


 有無を言わさずに担ごうとしてきた運命から夕希は距離を取った。怪訝そうな面持ちの運命に、夕希は嬉しくも、怖くもなった。


「だ、ダメ! 私は、大丈夫だから! だから運命くんが転生するって約束して! そうじゃないなら、あたし糸まで案内なんてしない」

「はぁ!? ここにきて意味分かんねぇこと言うなよ!」


「ここまで来たから言うのよ!」


 強い調子で言い返すと、少年はびっくりした表情で言葉を詰まらせた。夕希はごめんなさい、と一言告げ、そして震える口元で笑って見せた。


「隠れる場所さえ見つけてくれたら、騒ぎが収まるまでじっとしてる。私は糸が見えるし、運命くんが地獄に残るよりもずっと生まれ変われる可能性は高いもの」

「でもそれだって——」

「それに!」


 夕希は言葉を切った。自分の願いを、本心を、確証のない希望を口にすることは、こんなにも勇気のいることだったのか。


「私はまた、あなたに会いたいから。だから、これはあなたのためを思って言っているんじゃない。私の、わがままだよ」


 運命はじっと夕希を見ていた。怒っているような、それでいてどこか懇願の色をのぞかせる目に、夕希はいまにも決心が揺らいでしまいそうになった。やっぱり怖い、守って欲しい。おいて行かないで欲しい。そんな言葉が口をついて出てしまわないように、奥歯を噛み締めて少年のまっすぐな眼差しを見返す。


「————ッ来い!」

「わっ」


ひゅう、と熱い風がひと吹きして、灰の匂いを運んだ。それと同時に、運命が何かに気づいて上空を見上げ、夕希を引き寄せ横に飛んだ。

 降りかかってきたのは亡者だった。小汚く赤らんだ顔のその男の指先は、赤黒く汚れている。


「どっちだぁ、かししゃ———」

 言い終える前に、白い刃がトラバサミのように男の頭を砕く。あたりは無数の亡者、そして彼らを食い漁る鬼が迫ってきていた。


「くそっ!」

 運命は乱暴に夕希を肩に抱えた。


「あの火山でいいんだな!」

「えっ……うん、ねえ運命くん、私は——」

「口閉じてろよ!」


 言うや否や、運命は糸に向かって強く地面を蹴った。その衝撃に、夕希は思わず歯をくいしばる。風に流れる栗色の髪が、夕希のほおを強くかすった。


「どけぇ!!」


 そしてやがて、二人は亡者の群れの中に身を投じた。


 赤銅の影絡みつく白濁の武器が、襲いかかる亡者を乱暴に薙いで活路を開く。

運命が飛び、翻り、そして獲物を振るたびに、血飛沫と亡者の残骸となった灰が踊っている。しっかりと痛いほどに強く抱えられた夕希は、その混沌と化した状況に圧倒されながらも、火口付近にも群れが広がっていることに気づき、焦った。


 疾走し、敵をいなし、ようやく大群を後方に撒いた二人の背後で、誰かが叫んだ。

「火口に向かってるぞ!」


「——運命くん、早く」

「わかってる!」


 まばらに襲いかかる亡者を振り切りながら、運命が疾走した。その背後から、こちらの目的に気づき始めた亡者たちが押し寄せてくる。抱えられながらその光景に慄く夕希は、運命に葬られたはずの亡者の亡骸が、視界の端を通りすぎる瞬間に口の端をあげた気がした。


「あ———」


 少年の名を呼ぼうとした時には、すべてが手遅れであった。


 地に落ちかけたその亡者は、内臓を撒き散らしながら、それでも加速度的に運命との距離を詰めた。まっすぐに伸ばされた手刀は、運命が異変に気付き振り返る頃には、防ぐことができないほど近くにあった。彼の夕希を抱える腕が緩む。


 夕希は考えるよりも先に身をよじった。


 狼狽し、大きく目を見開いた運命の顔が、すぐ近くにあった。ふと視線を落とすと、あの亡者の腕が灰と火の粉になって宙に舞っていった。

 そしてまた、貫かれ引き裂かれた自分の腹部も消し炭となり、痛みすらもわからなくなってきている。


「————ゆ、」


 崩れ落ちる夕希を支える運命は、涙の流し方も分からずに泣いているようだった。


 こんなにも絶望的な表情をしても綺麗だなんて、羨ましすぎる。


 夕希はのんきにもそんなことを思考の隅で思い、それからようやく、ほおに雫が流れるのを感じた。

「運命くん、早く、あっちだから……」


 夕希は火口を指差した。しかしそれでも少年は、火口に背を向けて夕希から離れようとしない。そんな少年をあやすように、夕希は彼の頬に手を這わせて笑った。


 ああ、別れの言葉は「また会おうね」と決めていたのに。

「さよなら、運命くん」


「————————勝手に終わってんじゃねぇよ」


 震える声で、しかしはっきりとそんなことを言われ、夕希は運命の言わんとすることが理解できなかった。


「だっ……、でも、」

「会いたいんだろ、生きて」


 いつものように、こちらの言葉には耳も傾けず。


 運命は体の半分が炭のように崩れた夕希を抱えた。夕希は視界の端に、亡者があと数十メートルまで迫っているのを確認した。慌てて運命に伝えようとしたが、ぐるんと激しく世界が揺らぎ、そして運命の手が夕希から離れた。


 ——待ってろ。


 少年から離れる直前、彼の口はそう動いた気がした。

 そして亡者の群れの中、花のように佇むその姿が急速に遠のく。


「運命くん———!」


 名前を呼ぶ声は、まばゆい光に溶けた。

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