肆、仮ノ死ノ先ニ

4-1 火口

 肺を侵す熱気に息苦しさを感じて目が覚めた。真っ先に目に飛び込んできたのは、火の粉と灰が立ち昇る厚い曇天。どうやら洞窟から出たようだ。


「……っ!」

 瞬時に自分に何が起こったのか思い出し、夕希ゆきは勢い良く身を起こす。腹部に鈍痛が走り、その場にうずくまった。いつの間にか両の足首にも深く傷が刻まれており、立つこともできなかった。逃げられないことを悟った夕希は一瞬、恐慌に飲まれて息を詰まらせた。


 目の前一帯には炎の音轟く山々が広がっている。遠くの方では、赤い火の飛沫が真っ黒な山から噴出している。夕希が目覚めたこの岩場も、どうやら火口の近くであるらしく、傾斜の先からまばゆい明かりが薄黒い雲を僅かに紅く染めていた。


 あの女の姿は見えない。その事実が夕希の落ち着きを徐々に取り戻させていく。大丈夫だ、あの女は糸が見つかるまで、きっと自分を殺しはしない。うまく糸から遠ざければ、時間は稼げる。逃げる隙だって巡ってくるかもしれない。糸が、糸の場所さえわからなければ……。


「———そんな」


 周りを見回した夕希は、真っ先目に付いたそれに大きく目を見開いた。


 もはや糸とは言えぬ様相であった。曇天を突き破り火口へと降りる光はあまりにも巨大で、そして塗りつぶされたように白かった。


「光の……柱」

 思わず、傍観者の言葉が口をついて出た。おそらく、身一つですぐにでもたどり着けるほど近くはないだろう。だがその壮大とすら言える大きさに、夕希は距離感覚がおかしくなってしまいそうだった。これが自分だけに見えているなんて、今更だが信じられない。


「おはよう、気分はどうかしら」


 耳元で囁かれ、心臓が止まりかけた。勢いよく振り返ると、腰を折ったかがりの顔がすぐそこに迫っていた。

「ひ……!」

「いやだわ、もう怪我も治っちゃったし、そんなに怖い顔はしていないでしょう?」


 微笑するかがりの浴衣ははだけ、ぞくりとするような妖しさを秘めていたが、夕希にはそんなことを気にしている余裕などなかった。立ち上がろうとした夕希は足の痛みに顔をしかめた。その様子を見たかがりがまた笑みを深くする。


「ふふ、追いかけっこはナシよ。あなたと巡り合うまで、随分と焦らされちゃったもの。早く兄さまに会いたいの。ねえ、糸はどこ?」


 つらつらと言葉を並べながら、かがりは夕希の目前に跪いた。細く白い手がブレザーをすり抜けて夕希の腰に回り、確かめるように撫でた。身を硬直させる夕希にかがりが囁くたび、耳に湿った息がかかる。


「あなたたちが行きたがった火山地帯はここでしょう? どうかしら、糸は近づいた? それとも、もう目の前にあるのかしら? ねえもったいぶらずに教えて頂戴な。楽しみで仕方なくて、もう我慢できないの……」

「う……っく」

 耳朶をぬるりとした感覚が這い回り、夕希は肩が跳ねた。それがかがりの舌だと気づく前に、鋭い痛みに目を瞬かせた。


「つっ……!」

「あ、じ、み」

 ようやくこちらから身を離したかがりは、舌なめずりをして腰を上げた。痛みの残る耳に触れると、指先に鮮やかな血が付着した。


「案内が終わったら、ちゃんと味わってあげるわ。夕希ちゃんはあたしの好みだから、気持ちよくなるようにシてあげてもいいのよ」

「………人を食べるなんて、狂っているわ」

「あっははは!」

 するとかがりは唐突に声をあげて笑った。


「そんなこと、分かりきっているじゃない! もとより人は欲に狂う生き物。狂い果てて、果てた者だけがたどり着くのが地獄というものよ」

「……人が食べたいなら、ずっと地獄にいればいい。きっと生まれ変わるよりもあなたの自由に———」

 言いかけ、夕希はかがりに襟元をつかまれ、無理やり立たされた。


「教えてあげるわ、無知なカシシャさん」


 腕一本で高く掲げられた夕希のつま先が宙に浮いた。かがりは夕希の服を掴んだまま高く跳躍すると、あっという間に傾斜のいただき——火口の淵へと着地した。ちらりと視線を落とした火口の底には、赤々と燃える烈火の湖。そこから噴き出る空気は、触れるだけで肌が焼けてしまいそうなほどに熱い。


「前にもお話したでしょう? 会いたい人は、本当に愛しているひとは、ここにはいないの」


 足元を見下ろし身が竦んだ夕希は、かがりの声に我に返った。彼女の顔は自身の甘美な感情を持て余しているように上気しきり、そしてその瞳だけが狂気じみた光を帯びていた。


「私がほんとうに食べたいのは兄さま。それ以外はほんの遊び。兄さまと一つになれた瞬間の歓びったら、言葉にできないほどよ! 私の中に兄さまを感じるの。他のひとには決して触れさせない、触れられない、わたしだけの兄さま。私だけが兄さまを知っている。兄さまが私の一部になって、私は兄さまと永遠に繋がるのよ、素敵でしょう?」

「そう言って……あなたは何人のひとを、殺してきたの……」

「あはっ、下品な言い方はやめてちょうだい! それに、生きている間は兄さま以外を食べるなんてしないわ。会いたいと思ったひとにはね、生まれ変わっても必ず巡り会えること、知っていて? 引き合うように、魂が呼び寄せられるの。だから、あたしは何度だって生まれ変わらなければいけないの……」


 そして、兄さまを愛しつづけるわ。

 その表情は恋に夢中なただの女そのもので、だからこそ夕希はそれが恐ろしかった。


「あなたはやっぱり……運命さだめくんとは違う」

「一緒にされたくもないわ」

 威圧的に微笑むかがりに、夕希は怯みながらもなお言葉を返した。


「運命くんは……わがままだし強引で短気だけど……優しいひとだもの。自分も、自分以外も、大切にできるひとよ」


 お荷物でも、役立たずでも、見捨てないでいてくれた。

 砂漠で、暗闇で、そして初めて会った時も、手を差し伸べてくれた。


 夕希は自身の襟元を掴む、女の白い腕を握りしめた。精一杯の虚勢として、こちらを見上げる女を睨む。


「でも、あなたの愛は、誰にも伝わらない。ただの、押し付けよ。ひとりよがりで、自分のことばっかりで、欲のために好きなひとの命も奪う。運命くんとはちがう……あなたは、生まれ変わっても亡者のままよ……!」 


 ふいに、かがりの笑みが剥がれ落ちた。

 ぐらりと視界が傾いたかと思うと女の無表情な顔が間近に迫った。

「以外とおしゃべりなのね、少し安心したわ。……でも、そういうのは求めていないの」


 両手で首を絞められ、夕希はかがりの手首に爪を立てた。引っ掻かれた傷を物ともせず、かがりは喉を潰すかのように力を強めた。

「亡者には劣るとはいえ、カシシャだって結構丈夫にできているみたいでね、みんなそう簡単に死なないの。教えてくれるまで、可愛がってあげてもいいのだけれど……そんなの嫌でしょう? 女の子なんだから、自分の体を大切にしなさいな」


「い……わな…」

「そ。じゃあどこから頂こうかしら。食べかけの耳?」


 けれど血が詰まって聞こえなくなったら困るわねえ。そんなことをのたまいながらも、かがりは夕希の首を絞める力を緩めない。視界がぼやけ、意識が落ちかける直前、唐突にかがりの独言がやんだ。同時に身体が地に落ちた。首に絡みつくかがりの手が、その力を弱めた。

「くっケホッ……きゃあ!!」


 解いたかがりの腕は、ひじから切断されていた。ぎょっとしてそれを放り捨て、目の前の女を見上げる。両腕を失くした彼女もまた驚きに目を見開き、そして火口の先を見つめていた。夕希もまた火口の淵に這い上がってかがりの視線を追った。


「よお。お前は見つけるたびに、襲われてるな」


 やっぱりとろい。そう言って、灼熱に揺れる陽炎の先で、その人影はまっすぐにこちらを見ていた。耳の上で結ばれた長い髪に、絢爛にして儚げなその衣装。よく知るその姿はしかし、今までの彼のものとは少しだけ様相が違っていた。


「しぶとい坊やね」

 かがりを見上げると、彼女はその笑みを少しだけ引きつらせていた。再び夕希は運命に視線を戻す。


 右腕は失われ、ちぎれた箇所から赤銅色の影が歪な腕の形をかたどっていた。

 運命の左手には、見たことのない白く大きな得物が握られていた。弧状に湾曲した刃はフォークのように枝分かれしていて、それがまるで手のようにも見えた。遠くてよく見えないが、柄の先にはボロ布が巻きついている。


 夕希は運命の変化にごくりと息を飲んだ。


 満身創痍、もはやただの人間とは言い難い姿になってもなお、彼の可憐で気高い雰囲気は損なわれることなく、そして変わらず、眼だけがぎらぎらと貪欲に光っている。


 揺れる熱気の向こうに見える少年の様は、さながら美しい鬼であった。

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