幕間
一度目ノ記憶
風はなく、雨だけが地上に激しく打ちつけられる、涼しい梅雨の時季であった。
「………」
少女は
少しは雨がしのげるからと、古びた祠に背を貼り付けるようにして体を小さくしてはいるもの、大粒の雫が地面を穿ち、飛び散った泥が顔や足に冷たい感触をよこす。もうじき夏だというのに、凍えてしまいそうなほど寒かった。少しだけ自分の手のひらで肌を擦ってみたが、皮と骨だけの指は枯れ木の枝のようで、まるで温度など感じられない。少女は膝に顔をうずめ、濁った両の目で兄さまの去った道を見つめた。
いつも寄り添い肌をあたためてくれる温もりは、今は感じられない。食べ物を探しに行ったきり、兄さまはまだ帰ってこない。
「……あにさま」
兄さまは、少女の唯一の家族だ。
少女は親の顔を知らない。兄さまはよく「おい出された」と悲しそうな顔で語るが、少女にとっては、腹を空かせ、暑さにのたうち、寒さに慄く日々が常である。辛いことはあれ、悲しむ理由がよくわからなかった。ただなんとなく、兄さまに悲しそうな顔をさせる親というものに、少しだけ憤りを感じているかもしれない。
とにかく兄さまは、少女の生きている世界の唯一で、全てで、不可欠で、絶対の
数歩も歩かぬうちに、水を吸った衣が肌に張り付き、重くのしかかるようになった。踏みしめる土は、ぬるく足の指にまとわりついてきてひどく不快である。それでもひとり待ちわびるよりはましであると、兄さまの去った道をただひたすら歩き続けた。歩き続け、やがて見知らぬ山道にさしかかろうとする頃、道脇の椎ノ木の陰に、物乞いの女がこちらに背を向けて座り込んでいるのが見えた。
ここに兄さまが来たかどうか、問うてみよう。
少女は、座り込んでおどろ髪を揺らす女のもとに寄った。雨音のせいか、女は少女に気づかないでいる。何にそれほど夢中になっているのだろうと不思議に思いながら、少女は女の背後から覗き込んだ。
「……………あ、」
「——やらぬぞ」
少女に気づいた女は、肉を頬張りながら振り返ると、それだけ告げて紅く濡れた指を舐めた。女の周りに広がる赤茶けた水たまりが、少女の足先に僅かに温かさを伝えている。その水たまりの中心に横たわる兄さまの骸と、その細い腕の骨にこびりついた肉を必死に舐めとる女の姿に、少女は身を固まらせて立ち尽くした。
「……、あに」
発した声に、女が煩わしそうに返した。
「はよう何処にでもいけ。こん肉はわしが見つけたもんだ。わしん肉だ」
身体中の熱が、血が、頭に上ったような感覚だった。
少女は手近にあった礫を掴みとり、兄さまを貪るその頭上へと振り下ろした。
「ぎゃああああ!」
何も言わず、夢中になって礫で殴り続ける。いつの間にか女に馬乗りになった少女は、悲鳴も謝罪も構うことなく、血が沸騰してしまいそうなほどの怒りと恨みに身を任せたまま、女の頭を砕き続けた。
許せない。
この女は兄さまを。
兄さまを、自分のものだと言ったのだ。
ちがう、兄さまは、あたしのものだ。
この女に、こんな醜くて汚らしい乞食に兄さまを渡すものか。渡していいはずがない。
渡すくらいなら————
女が息絶え、皮膚の下から頭蓋が見え始めた。そして目玉がこぼれ落ちたころに漸く、少女はその手を止めた。ゆらりと身を起こすと、少女は乱れた息も整えず、おもむろに兄さまの頬に触れた。
「……ふふふ」
少女は兄さまの色を失くした唇に自身のそれを落とした。舌を這わせ強く噛むと、少しだけ錆びた味が口腔に満ちた。それすらも兄さまの一部だと思うと、えもいわれぬ悦びに体が震えた。兄さまの柔らかな口吻を噛みちぎり嚥下すると、体が自然と熱くなった。
*
梅雨が過ぎ去り、蒸し返る夏がやって来る頃。
一本の椎ノ木の根元に、少女は横たわっていた。
吐き気すらもよおすような空腹感。指一本すらうごかせない。水など、何日飲んでいないだろうか。通りすがる者はみな、餓えに倒れた童の屍であると思うに違いない。しかし、その干からびた唇の間からは、小さな呼吸が漏れ出ていた。とはいえ、あとどれくらいの命ともわからないほど、少女は弱っている。
「………ふふ」
弱っているはずの、その少女は笑っていた。
力なく、小さな手が自身の腹に愛おしそうに触れた。ここに、兄さまがいる。あの悦びをもう一度感じたい。もう一度、兄さまに会いたい。死んでこの身を手放しても、生まれ変わってまたひとつになりたい。
「ふひ、うふっふふふふ!」
嗚呼、愛おしい。狂おしい。
大切な兄さま。
ただひとりの兄さま。
他のひとになんか渡さない。
ぜんぶ、ぜんぶ、あたしのもの。
たとえ命が尽きようと、いつまでも、一緒にいるの。
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