3-8芽生

 最低だ。


 私は最低で最悪でどうしようもなくダメな人間だ。


 どういう理由であれ、重体で意識がおぼろげにもかかわらず見捨てず、自分をここまで守ってくれたあの少年に、あんなにもひどいことを言ってしまえるなんて。


 勝手に期待したのは私なのに。


 彼のあの驚いた表情が脳裏にこびりついて離れず、ふいに歩みを止めてその場にしゃがみ込んだ。憤りでいっぱいになっていた時に溢れ出てきた涙は、もう出てこなかった。自分への失望と運命への罪悪感で押しつぶされてしまいそうだ。


 少しの間うずくまっていた夕希であったが、ふと水の音が近くから聞こえてくることに気がついた。あてもなく闇雲にここまで来たが、どうやら無意識に水音の聞こえる方に来てしまっていたらしい。ふらふらと惹かれるようにして、その音の元を探す。


 少しも歩かない場所に、僅かに開けた場所があった。その隅の松明の下に水が流れている。岩かべの割れ目から流れ続けるその水は、触れるとひんやり冷たく、夕希は久々のその感覚に幾分か心が落ち着いた。手ですくって少しだけ飲んでみると、心地よい冷たさが喉を通って体に沁み渡り、まさに生き返る心地だった。あのかがりという女の言うことも、あながち間違ってはいないのかもしれない。


「運命くん、飲むかな……」


 合わせる顔はないが、彼に少しでも楽になってほしい。許してくれなくてもいいから、謝ろう。そして、どんなに罵られても構わないから、持っていくだけ持って行ってみよう。夕希は小さく決意して、靴を片方脱いだ。決して綺麗とは言えないが、靴底を外してすすげばマシになるだろう。


 熱心に靴を流水に当てて洗っていると、背後から足音が聞こえた。運命がここまで追ってきたのかと思い、慌てて振り返ったが、夕希はすぐに違和感に気付いた。


 あのよく響くヒールの音ではない。もっと軽くて、地面を擦るような———。


「びっくりさせちゃったかしら? ごめんなさいね」

「あ———」

「隠すつもりはなかったのだけれど……ふふ、抜け道もあるのよね、ここ」


 悲鳴をあげるのと同時に、腹部に強い衝撃を感じた。


 手にした靴は水を撒き散らして地面に落ち、灯火の下に暗いしみを作った。




 *

 運命はしばらく表情を固まらせたまま、少女の去ってゆく姿を見つめ続けた。その背が闇に消えると、漸く我に返り、力なく頭を垂れた。


 痛みを忘れそうになるくらいには、運命はひどく困惑していた。


 自分は彼女を利用していた——それは自分でもよくわかっていた。転生できるのは一人だということも、隠しているつもりはなかったが言うつもりもなかった。バレてしまったところで、力ずくでも案内させようと、夕希を最初に見つけた時にそう考えていたのは自分だ。


 なのに、どうしてこんなにも動揺しているのだろう。


 追いかけて、違う、誤解だ、と一言告げたい。けど、何が違うのか、自分でもよく分からない。むしろ彼女の言っていたことは全くの事実だと言ってもいい。


「……ゲホっ、ぐ、う」

 大きく息を吸おうとして、血が喉に詰まった。思わず咳をすると、身体中に激痛が走る。内臓もひどくやられたようだ。おそらく今痛みと疲れに負けて気を失ってしまえば、すぐに死——身体は消え、二度と転生できなくなってしまうだろう。運命はなんとか意識を保とうと、思考を巡らし続ける。


 ——あいつ、どこにいったんだ。


 奇妙な喪失感をもてあまし、それが久しく感じていない「寂しさ」という感情であることに気付けないまま、無意識に夕希の去っていった方向に何度も視線やった。人が現れる気配はなく、闇の中にぽつぽつと、松明の明かりがわずかに存在を主張しているだけだ。


 ふと、真っ暗な洞穴に入るのをやたらと躊躇していた彼女の表情を思い出し、余計にその安否が気になってきた。もどかしくて試しに左腕を動かすと、錆びついてしまったかのようにぎこちなく、重かった。まだまだ動かすには程遠いようである。


 さすがに内側も外側も損傷が激しく、一向に動けるようになる兆しが見えない。彼女のあとを追うどころか、立ち上がることすらできない自分の状況に、運命は苛立ちを募らせた。一刻も早く回復して、夕希のあとを追わねば。


「あら? 夕希ちゃんは一緒じゃないの?」


 唐突に間近に聞こえた女の声に、運命は弾かれたように顔を上げた。

「————ッ!」

「ごきげんよう、惨めな坊や」


 灯火に照らされて不気味に揺れる顔は血にまみれ、纏う着物も所々裂け、花のように朱が散っている。にもかかわらず、女は薄ら笑いを浮かべてこちらを見下ろしていた。


「まるで捨てられた人形のように無様ね。もしかして、夕希ちゃんに置いて行かれたのかしら」


 なら、あたしが貰ってもいいわよね。口角を吊り上げそれだけ告げたかがりは、運命に背を向けて洞穴の先——夕希が向かった方——へと足を踏み出した。


「待て……!」

 運命は咄嗟にかがりに掴みかかろうとした。しかし立ち上がる事すら出来ずに崩折れてしまった。


「あなたを殺してしまってもいいのだけど、どうにもあなたを可愛がる気にはなれなくて……あたしも今は少し疲れているものだから。ごめんなさいね、でも、邪魔はしないでもらえると嬉しいわ」


 おぼつかない足取りのかがりの背が、ゆっくりと遠くなってゆく。運命は彼女の背に向かって手を伸ばした。奥底から湧き出てくるような激しい焦りに相反して、全身が思うように動かない。それでもなお、運命は自分でも考えるより先に、片腕だけでその身を引きずった。


 地面に伏し、這いずりながら、少しだけ残っている思考で運命は考える。今考えるべきは、夕希よりも自らの命ではないか。糸への道のりはまた遠ざかってしまったが、十年あてもなくさまよっていた頃よりも、だいぶ情報を得る事ができた。幸運にも見逃されたのだから、今はまず自分のことを優先させるべきだ。今ここで必死になって後を追う必要はない。全くない。運命は無意識に進むのを止めた。


 もともと利用するだけ利用して、自分だけ転生するつもりだったじゃないか。夕希がいなくても、別のカシシャをまた探せばいい。そう、今は諦めて———。


「………」

 では、あの少女はどうなる?

 あの鬼徒が生かしておくとは思えない。


 彼女を、夕希を死なせてしまえば、もう、二度と。


「……い、やだ」


 身体中に炎が駆け巡るような感覚を感じた。視界がぼやける。意識が溶ける。理性が、熱で焼き切れてしまいそうだ。


 痛い辛い怖い苦しい泣きたい生きたい恨めしい憎い死にたくない許せない失いたくない。


 燻り続た飢えにも似た激情が急激に膨れ上がってゆく中、今までとは質の違う感情が、小さく、それでいてはっきりと湧き上がってくるのを自覚した。それはまるで一筋の光のように、欲望に飲み込まれてしまいそうな運命の意識をつなぎとめていた。


 ——俺は、生きなきゃならない。ここで死ねない。


 ——あいつは臆病で、死にたがりで、闇が怖くて、こっちばっかり心配するくせに、一人じゃなんにもできない。


 ——だから。


 だから、今すぐに立ち上がって、守らなければいけないのだ。

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