3-6執着
運命はほとんど気を失っていると言っていい状態だった。
体が熱い。腕が痛い。足も痛い。自分が今どこにいてどうしているのか、それすらあやふやで、ただただ死にたくないという思いだけがその思考を占めていた。
——死ぬか。死んでたまるか。
誰にも邪魔はさせない。ここまで来た、ようやく、希望が見えた。
もう少し、もう少しだ。
もう少しで生き返られる。
もう少しで、自由になれる。
——もう少し、だった、のに。
もう少し、もう少し。そう思いながら、小さく疑問が浮かんだ。
何が、もう少しだったのだろうか。頭がうまく回らない。闇が視界をかすめ、風が傷をえぐってゆくたび、声にならない悲鳴を飲み込む。運命は脳みそがぐちゃぐちゃになりそうな感覚を覚えながらも、それを思い出そうと混乱している記憶をたどった。
——ああ、そうだ。
思い出した。
もう少しで、あの人から解放されるはずだったのだ。
*
「あら、もうお風呂はいっちゃったの? せっかく似合っていたのに……」
母はそんなことを言っていたが、時刻はもう午後9時である。母の用意した女物の服に身を包み、散々買い物に付き合った挙句、目を逸らしたくなるほどに少女趣味な写真スタジオを趣向ごとに何件も引きずり回され、衣装を取っ替え引っ替え撮影させられたのだ。これ以上何をする気にもならない。その無言の意思表示としても、今日はもう窮屈な服を着ていたくなかったのだ。
ホテルに備え付けてあったワンピース型の寝間着に身をつつみ、運命は頭に巻いていたタオルを解いた。湿気を含んだ髪の毛が、小さな雫を飛ばしながら背に流れる。
「化粧水はちゃんとつけたの?」
「つけたよ」
「ならいいわ」
そろそろ乳液も使ったほうがいいかしら。そんなことをつぶやく母を一瞥し、運命は密かに嘆息した。
運命と母がいるのは、東京のホテルの一室だった。評判も良く、質の高いサービスを提供するそのホテルのスイートは、母親好みのクラシカルで品のある装飾が印象的な部屋だ。運命はえんじ色のソファに身を沈めるべく近づいたが、まだ言い付けられているルーティンか残っていることに気づく。少しだけ不機嫌に口を尖らせ、ドレッサーの前に腰を下ろす。
「今日はママがしてあげる」
手にしたドライヤーを取り上げた母親が、優しげな声色で行った。鏡越しに見る母の顔は、自身の言動への陶酔をあらわにしている。運命は舌打ちでもしてやろうかと思ったが、母の甲高い怒声を想像すると、条件反射で微笑みを返してしまった。
「うん、ありがとう」
「笑うと少しだけ男っぽくなってしまうわね。大笑いは避けたほうがいいわよ、顔に余計な筋肉ついちゃうから」
困ったように苦笑した母は、まるで運命自身もそれが理想だと思っているにちがいない、と言わんばかりであった。そしておもむろに備えつけのドライヤーを手に取ると、慣れた手つきで運命の髪を乾かし始めた。
「ママね、こうしてあなたを綺麗に育てている時が、一番幸せよ。男の子なのが信じられないくらい、かわいくてとびきり美しく育っちゃって。そこだけは、パパに感謝しなくちゃね」
何度目かしれないその言葉を、運命はただ聞き流していた。
「お姉ちゃんもきっと、あなたのことを自慢に思っているわ。いつか三人で旅行でもしたいわね。お洒落な街で、たくさんお買い物して、あなたたちに似合う服を買ってあげるの。せっかく双子なんだから、お揃いも素敵ね。絶対楽しいわ」
嬉々として語る母は、ブラシを手にとって丁寧に髪をとかし始めた。運命はただ「そうだね」とだけ返し、心の中で母を嘲笑した。
苛立ちで胸がむかむかしてきた頃、母はふとブラシを止め、猫なで声で言った。
「ねえ、本当に、女の子にならなくていいの?」
思わず、肩をびくりとさせた。これは運命も今日初めて知ったのだが、母の東京に来た一番の目的は、そういう病院に運命を連れて行くことや、人づてに紹介してもらったという、そういう人と会わせることだったのだ。
こちらの狼狽をどう捉えたのか、乾ききった髪をしきりに撫で付けながら、母は続けた。
「ママはね、サダメの好きにしていいと思うのよ。世間の目なんて気にしなくてもいいの。こんなに可愛いんだから、いつまでも可愛い服を着て、お化粧して……。お姉ちゃんに遠慮しているなら、それはきっと間違いよ。お姉ちゃんができなかったことをあなたがしてあげるの。お姉ちゃんもきっと——」
「ママ」
運命は母の言葉を遮り、椅子から立ち上がった。そしてまっすぐに母の目を見つめる。
限界だった。この人は、自分だけでなく、由の幸せも勝手に決めてしまうのか。あの子の存在を、自分の幸せを得るための口実に使ってしまうのか。憤りを腹の奥底に閉じ込め、運命は静かな口調で告げた。
「あたしは…俺は、男がいいよ。これからもずっと」
——ごめん、ヨシナ。大人になるまで、我慢できなかった。
母はまた、怒鳴るだろうか。もう小さくはないのだから、殴られるかもしれない。
それでもいいと思って、じっと母を見つめていると、彼女は数秒驚きに目を見開いて硬直していたが、やがて力なく頭を垂れてこちらに背を向けた。
「そう……じゃあ、もう、寝る用意をしなさい。歯磨き、まだでしょ」
「あ…あの、かあ、ママ……」
「まだでしょ」
覇気のない、しかしどこか有無を言わさぬ声色で言われ、運命はソファに座る母を気にしつつも洗面所へと向かった。
バスルームからの湿気で結露に塗れた鏡を乱雑に拭き、歯を磨いた。部屋からは何一つ物音がしない。そのことを少しだけ不安を感じつつも、口をすすぎ、顔を上げた。
「うわっ!」
と、鏡越しに母親の姿を見つけて思わず叫ぶ。振り返ると、母は体がくっついてしまいそうなほど近い距離にいた。後ずさりをしたが、すぐに洗面台に阻まれてしまい、なすすべもない。
「ま、ママ……?」
「サダメは、ママの幸せを考えてくれるわよね……?」
片手で運命のほおを包んだ母の手が、ゆっくりと下へ降りる。親指で唇を撫で付け、首を下ると、それは寝間着の襟の上で止まった。母が何をしているのかわからず、固まっていた運命は、彼女が寝間着のボタンに手をかけたところで我に返った。
「ちょ、え、ママ! やめて、やめ、ろよ!」
強引に引き離すと、今度は勢い良く胸ぐらをつかまれた。
「何よ、親の願いの一つも叶えられないで何が子供よ! あなたもあの子も、どうして私の気持ちがわからないの!? 私はただ、あなたと幸せに……!」
もはや目の前の女がどうして悲しんでいるのか、運命は理解できず恐怖すら感じた。感情が高ぶって涙する女は、運命が呆然とするのをよそに、引きちぎるように寝間着をはだけさせた。
「大丈夫よ、あなたは私とあの人の子だもの。あなたと私の子も、きっと可愛いに決まってるわ。それならいいでしょ、ねえ、サダメ!?」
「い、やだ! 離せ! やめろよ!!」
「男の子がいいんでしょ!? 男として扱ってあげる! 男としてママの願いを叶えなさいよ!」
下着に伸ばされた女の手を避けると、寝間着の裾を思いきり引かれた。バランスが崩れた拍子に、湿気た床で足が滑った。
「はっ……?」
最期に見たのは、柔らかい乳白色の間接照明。
衝撃を感じる間もなく、運命は意識を失った。
気がつくと、運命は暗闇の中にいた。身体中の感覚が鈍く、自分が寝かされた状態であることを認知するのにかなり時間がかかった。
なぜこんな状態になっているのか理解できず、必死に考えようとするが、頭がうまくはたらかない。
何も感じず、何も見えない焦りでどうにかなってしまいそうな中、ふとすすり泣く声が聞こえた。
「サダメ、どうしてっ……!」
その声はかすかで、壁越しに聞いているかのように不安定だが、とてもよく聞きなれた少女のものであることを確信した。
——ヨシナ。
名を呼ぼうとしたが、声の出し方がわからなかった。運命はもう一度落ち着いて考えようと試みる。由がいるということは、ここは病院なのかもしれない。彼女が泣いていて、自分はどうやら横になっている。どうして————
「もう泣くのはやめなさい、ヨシナ」
運命が全てを思い出すのと同時に、あの母親の声がした。気を失う直前の恐怖が蘇る。母は娘を諭すように告げた。
「お医者様が何度も話し合った上の結果よ。サダメはもう目覚めないの。脳死……死んだのよ」
この女が何を言っているのか、運命は全く理解できなかった。
死んだ? 脳死?
まだ意識があるのに?
混乱で愕然としている運命をよそに、母は続けた。
「もう一週間以上もこのままなのよ」
「でも…….! まだ息してる!」
「体だけ生きていても、心は死んでしまったの。脳死って、そういうことよ」
——違う、心が死んだなんて嘘だ。
だってまだ、意識はある。運命は叫びたい衝動に駆られたが、うめき声一つすら出せない。
「それに、サダメの一部はあなたの中で生き続けるじゃない。あなたのドナーになりたいっていうこの子の覚悟、無駄にしちゃだめよ?」
そんなの知らない。ドナーなんてなった覚えはない。訳が分からず、運命は頭が真っ白になった。由の泣声が一層大きくなる。
「サダメ、そんなの、あたしっに、な、何にも相談……っ!」
「きっとあなたが止めると思ったのよ。大丈夫、大丈夫よヨシナ。ママもね、すっっごく悲しい。でも、ママにはあなたもいる。あなたにもママがいるわ。あなたがサダメの分まで生きてくれることが、少しでもこの子の救いになれば——」
その後の母の言葉を、運命は聞いていなかった。
結局、この母親は最後の最後まで、自分を利用し尽くすつもりなのだ。ママにはあなたもいる、とはよく言ったものである。ダメになった息子の代わりに、今度は娘を自分好みに仕立て上げるつもりか。いつの間にか、運命の中にあった母への恐怖は微塵も残っていなかった。代わりに、怒りと恨みだけが急速に思考を満たしてゆく。
——ふざけるな。
何がサダメの分、だ。人に自分の人生を託す気はない。俺の分は俺の分だ。
たとえそれが最愛の姉のためだとしても、譲る気はない。
——絶対に、思い通りに死んでやるものか。譲ってやるものか。
少年はこのとき初めて、他に何も考えられないほどの生への執着を実感した。
そしてこれが、彼の全ての始まりだった。
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