3-3女

 どれほど歩を進めた頃だろうか。影一つ落ちることのない完全な闇の中、夕希の手を引いたまま歩き続けていた運命が、不意に立ち止まった。


「どうしたの?」

「臭わねえか……?」


 言われて、大きく息を吸ってみる。ほんのり焦げ臭い…というより、何かを燃やしたあとの臭いがした。


「なんだろう、炭みたいな……」

「にしても妙な臭いだな。どっかからガスでも出てんの——」

「運命くん?」

「シッ」


 言葉を止めた運命を不思議に思い呼びかけると、短く制された。彼の夕希の手首を握る力が強まる。


「足音がする。こっちに来てるな……」


 耳を澄ませると、確かに規則正しい擦るような音が近づいてきていた。夕希は息を飲み、じっと暗闇を見つめた。どうやらその人物は自分たちの前方から近づいてきているようだ。


 警戒した二人がじっと足音を待ち続けていると、少し遠くのほうがうすぼんやりと明るく照らされ始めた。明かりは徐々に強まり、やがてゆらゆらと浮遊する火の玉が現れた。それがこちらに近づいて来るとともに、その灯りの持ち主の影もはっきりしてくる。


 自分たちのすがたもうっすらと見え始めた時、運命が夕希の手を離し、武器を手に近づいてくる人影を睨みつけた。夕希もまた彼の背後にさがった。


「————あら、まあ。変わった方達だこと」


 数歩先で足を止めた人影は、浴衣姿の女だった。松明を掲げた妙齢の女がゆっくりと歩み寄ってきた。夕希らが思わず後ずさりをすると、彼女は再び立ち止まり、口に手を当てて困ったように笑った。


「そうよね、こんなところだもの。怪しむのは当然ね」

 透き通った声音はしかしどこか艶めいていて、小首をかしげて微笑みを浮かべるその姿に、夕希はどきりとした。


「安心して……って言っても信じてもらえないでしょうけど、私はあなたたちを殺す気はないの」

「……亡者、だよな?」

「そうね。ここにこうしているのだから。……そういう、あなたたちも?」

「そうだ。今は二人で手を組んで生き延びている」


 夕希が亡者ではないということはいうつもりがないらしい。うっかり口を滑らせてしまいそうな夕希は、しばらくなにも言わないでやり過ごすことに決めた。


「そう……。確かに、ひとりは寂しいものね」

 そういうことではない。と、松明に照らされた運命の横顔が不服そうに歪んだが、彼はそれ以上この件に関してなにも言わなかった。代わりに、夕希たちが最も気になっていたことを尋ねた。


「俺たちは地上への出口を探してるんだが、お前何か知ってないか」

「まあ、ひょっとして砂漠から落ちて来たのかしら? たまにいるのよ……最も、出会い頭に襲ってこない人はあなたたちが初めてなのだけれど」


 ひとり納得した様子の女は踵を返すと、振り向きざまに言った。

「この洞窟のずっと奥の方に、火山地帯に出られる道があるわ。ここは少しわかりづらいから、途中まで案内しましょう」

「……」

「ありがとうござい……ます」


 なにも言わない運命に代わって礼を言うと、女は穏やかな笑顔を見せた。

「いいのよ。こんなところだもの、お互い様だわ。お名前、聞いてもいいかしら」

「私は夕希です。で、えっと……」

 勝手に紹介していいものかと迷っていると、それに気づいた運命がしょうがないというふうに名乗った。

「運命だ」


「そう……。あたしはかがり。かがりっていうの」

 彼女は再び前を向くと、水色の袂を揺らめかせて歩き出した。


 灯火のもとに照らされる洞窟は夕希が思っていたよりも広く、まるで小さなトンネルのようであった。かがりは時折現れる分かれ道にも迷うそぶりを見せず、躊躇なく前を行く。洞窟の片隅、かがりが持っている松明と同じような、しかしそれよりも古びてすすけた棒切れが所々に落ちていることからも、彼女がここを根城に過ごしていることが伺えた。


「ふたりは、どこで出会ったのかしら」

 ふと先頭を進むかがりがそんなことを聞いてきた。

「えっと———」

「こいつが鬼に襲われているところに俺が巻き込まれた」

 口を開きかけた夕希を手で制し、運命が短く答えた。かがりは、前を向いたままだ。


「そうなの。あの哀れなモノとも戦ってきたのね」

「そういうお前は? まさか他に仲間がいるんじゃないだろうな」

 運命の問いに、かがりはくすりと笑い声をこぼした。

「安心なさいな。鬼や他の亡者が怖くて、今はひとりでこの地下にいることが多いの。ここなら、誰かが迷い込んでも見つからないように立ち回ることができるし」


 地上に出て転生の手がかりを探すこともあるのだけれど。ぼそりと付け加えられたその言葉に、夕希はどきっとした。


「なかなか糸の手がかりは見つからないのよねぇ。噂のカシシャについて、誰かに聞こうともするのだけれど、ほら、みんな話を聞いてくれるような人たちじゃあないものだから……あなたたちは、何か知らないかしら?」


 ばくばくと跳ねる心臓が飛び出してしまわないようにと、夕希はただ口を閉じて歩き続けた。隣の少年はただ無表情に女の話に合わせる。


「さあな。ただ元カシシャになら会ってきた」

「まあ、ひょっとして鉄柱の森を訪れたの? あの殿方も随分と酔狂なお人だったわ、地獄に留まり続けたいだなんて。……あたしには、耐えられないもの」

 最後の一言に、息の詰まるような寂しさが込められていた気がして、夕希は不思議に思った。


「あの、かがりさんは……どうして地獄に?」

 つい気になって尋ねると、かがりは足を止めてこちらを振り返った。少しだけ身構えた夕希だったが、彼女の表情が熱っぽく甘やかにほころんだのを見て、少しだけ拍子抜けした。


「………会いたい人が、いるの」


 かがりはそう言うと、再び前を向いて歩き出した。

「あたしのことは覚えていてくれなくてもいいの。でも、生まれ変わって、また会いたい。会って、愛を伝えたいの。だからあたしは、ここに来たのよ」


 こころなしか声を弾ませたかがりに、夕希はなんだか申し訳なくなってしまった。この人こそ、この地獄から一刻も早く抜け出すべきなのではないのだろうか。その考えが脳裏をよぎる。傍らの少年を盗み見ると、彼は興味なさそうに前を向いて歩くだけだ。


「そんなことより、出口はあとどれくらいだ」

 少し足場の悪い下り道に差し掛かったところで、運命がかがりに尋ねた。


「もうすぐ、私が拠点にしている空洞に出るわ。そこから先はあなたたちだけでも行けると思うのだけれど、案内しましょうか?」

「いや、いらない」


 横目でちらりと背後を伺ったかがりから、運命は目を逸らした。おそらくついてこられても厄介だと思っているのだろう。一方のかがりはというと、あけすけな拒否に怒ることもせず「そう」とだけ返してまた前を向いて歩き出した。


 奥へ進むたびに、なんだか冷えてきた気がした。

「地下の深いところに、水脈があるの。水が湧き出ているところもあるのよ。見つけたら飲んでみるといいわ」

「……意味ないだろ」


 訝しげに呟いた運命を振り返ると、かがりはその薄い唇を引き上げて笑った。少しだけ困っているようにも見える。


「うふふ。確かに、ここじゃあ飲まず食わずでも死なないものね。でも……なんていうのかしら。何かを食べたり、飲んだりするとほら、生きているって感じられるのよ。もう、死んでいるのだけれど」


「くだらねえな」

 隣の少年は冷めた表情でそう言ったが、夕希にはかがりの気持ちがなんとなくわかるような気がした。


「生きているという実感を、ここでは大切にするべきよ。自分が何者なのか忘れないためにも、ね。ふふっ」


 冷淡な態度をとり続ける運命に気分を害する様子を見せることなく、微笑みながら松明を前にかざした。

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